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空を見上げて 9

これまでのお話は
 居場所を失って友人の家に住むことになったエマ。本屋を営むタキの家で、朝から晩まで本を読んで過ごしていたが、体調を崩して声が出なくなってしまう。
 タキは心配するが、それを重く感じ始めてしまったエマは、数ヶ月ぶりに自ら外出する。あてもなく歩いた先には、ちいさな山小屋があった。
 少し休むはずのそこを、彼は毎日訪れるようになる。自分の心のうちと過去を行き来するうち、次第に時間の間隔も失われていく。
 一方で、タキはそんなエマを心配しつつ、どう接すればよいか悩んでいた。

賢いから前のやつを
コピペすればいいことに
気が付いた

第八話

第十話




 店の扉が閉まった気配に、タキは息をついた。それまで自分が息を詰めていたことに気がついて、思わず苦笑する。それはよくないだろ、と独り言が漏れた。
 そうだ。よくない。
 そう思っているのに、こんなつもりじゃなかった、とさらにため息をついてしまった。それもよくない。

 仕入れた本を持って、店の机に戻る。ふと中庭に目を向けて、水やりがまだだったことを思い出した。
 正直言って、面倒くさい。面倒くさいから、中庭にも雨が滴るようにしたかったのに、なんやかんやの末に断念するしかなかった。
 中庭がある家、というと、どことなくおしゃれな響きがある。タキの家は古くて広かったが、長細く平べったかった。いくつか棟があったから、その間を中庭と呼べないこともない。だがそれは、彼が思っているおしゃれな中庭とは違う。
 そもそも、庭というのだから、空が見えていてこそだと思うのだが、それはまた別のこだわりのせいで上手くいかなかった。本当はわかっている。エマの言う通り、もっと広げればよかったのだ。
 でもできるだけ、できるだけ小さな建物にしたかった。この土地のどの部分も全て手放したい。そうするようにと、祖父は言い遺したのに、そうはできなかった。結局、抗えないものが自分にもあった。

 町を出て山の向こうの高校へ進学したのも、祖父の方針だ。彼は自分の代で全てを終わりにするつもりでいた。決して継いでくれるなと何度も言われた。その方針にタキ自身も依存はなかった。こんな古びた世界に閉じ込められて暮らすなんて、窮屈すぎると思ったし、家業は時代錯誤な上に忌まわしく思えていた。
 いや、今だって忌まわしい。

 案の定、誰が流した噂か、タキは異質な存在として受け入れられた。本当のことは口が裂けても、誰にも、エマにだって話していないのだから、知りようがないはずだし、子どもであっても町の人間が話すとも思えない。中途半端に聞きかじった誰かが、中途半端な噂として流したのだろう。
 それかもしくは、それとわかる人間が気が付いたのか。だとしても、そんなことを軽々に話すとは思えない。
 話の出どころなんて、どうでもいい。どうでもよかったが、面倒だった。面倒だったが、そこで知ってしまった。結局これは、逃れられないのではないか。

 祖父は祖父というだけあって、自分よりも早く死ぬだろう。反対に孫の自分が先に死んでしまったりなどしたら。
 いや、そうなれば、祖父の懸念は払拭される。これで正真正銘、家業を継ぐものはいなくなるのだから。
 それでも多分、そうはならないのだ。

 エマを初めて見たのは、入学してすぐのことだった。体育館から、それぞれの教室へと移動する中に、タキは彼を見つけた。一目で彼が祖父の言うところの本物だと分かった。
 あーあ、もう嫌だ。
 そう思ったのをタキは今でもはっきり覚えている。それも逃れられないと感じた一つの理由だ。
 あれは、町の中だから起きることだと、どこか勝手に解釈していた。あの町の空気がどこかおかしいから、だから目に見えないものが見えるし、知ってはいけないことが分かってしまう。
 あの山のせいかもしれないと、一応は希望を持ってみたものの、そうではないことは、とっくの昔に分かっていた。祖父の一存でどうにかなることでもない。たとえばずっと遠くの別の国に逃げたところで、これは自分の中にあって、取り出すことはできないのだろう。そうやって受け継がれてきたのだ、これまで長い間。

 だからもしも、エマがどうして自分に構うのかなどと困った問いを投げかけてくれば、タキは答えに窮したかもしれない。どうしても彼のことが気になって、そばに寄ってしまった結果分かったのは、このエマという人間は、タキとは違って、大事なことも少しも話してはくれなかったし、大事でないことも全く話してはくれなかった。
 学生時代は二人でよく話をしたとタキは思っているのだが、なぜかその記憶の中で口を開いているのは自分であり、エマではない。彼は何か、ところどころで相槌を打っていたり、たまに鋭い意見を挟んでくる以外は、静かだ。
 思い返してしまうと、だんだん、ただ単に自分が付き纏っていただけではないかという気さえしてくる。かつて一度だって、エマの方から自分に挨拶をしてくれたり、話しかけてくれたことがあっただろうか。おそらく、エマは自分を含めて他の誰にも自らコンタクトを取ることなどない。
 と思う。

 だから、エマが何を考えていて、何を思っているのかはよく分からない。彼の口から、自身の境遇や家の事情について聞いたこともない。片親が異国の人で、両親ともに向こうの国にいるらしい、というのも、噂で知った。本人にあえて聞くようなことでもないし、どうもそのことを話したがらないように思えたから、タキは聞いていない。
 彼には兄がいるのだが、それだって一度も話に出てきたことはない。
 高校のとき、学校でエマが熱を出してしまって、家に連絡を入れなければならなくなったことがあった。本人は頑として自分で帰れると言ったが、誰がどう見てもそうは思えなかったし、小さな子どもでないとはいえ、学校側もこのまま放っておくわけにはいかない、そう判断するくらいには具合が悪そうだったのだ。
 そのとき、偶然家にいたのが、彼の兄だった。
 タキはエマの荷物をまとめて、保健室へ持って行って、そこでこの人を見た。見るなり、なるほどね、と思った。それ以外に表しようがない。なるほどね、なるほどね、とタキは頭の中で繰り返した。何もかもが納得いった気がした。そして、彼の兄はまさに鼻で笑いながら、タキを見て言ったのだ。

「友達なんかいたのか」

 このときほど、あの変な家に生まれて、祖父に自分の感情をコントロールすることを必要以上に叩き込まれていてよかったと、思ったことはない。

 でもこの話を、エマは知らない。
 本当は、ついこの前、タキがこの兄という人間に連絡を取ってみたなんてことも、知らない。

 帰って来いよと催促したのは自分だったが、空港で迎えたエマは嫌に身軽だった。ものすごく悪い予感がした。
 会ってすぐに、スマホを新しくしたい、と言う。
 逃げてきたのか、とは聞けなかった。実家は逃げたくなるような場所なのか。そう思ったが言葉にはならなかった。こればかりは、エマを気遣ってのことではない。

 あの家は、燃やした。
 エマには取り壊したと話したが、文字通り焚き上げた。そのまま火をつけて、もちろん、これは消防の立ち合いのもとだ。消防団の中には、まだきちんと心得た者がいて、祖父と自分の決断にやんわりと口を挟まれた。が、結局は、言われた通りに従ってくれた。
 これが最後の頼みだ。松井家の。これが終わったらもう、自分はただの人になる。
 誰もが悲しい顔をしていた。

 それなのに、結局、一番大きな柱と梁は焼けなかった。

 木材だから炭化して残ったという話ではない。燃えなかった。
 それ何冊かの文書と何着かの着物、一つの行李も燃えなかった。
 妙な空気だった。皆、現実に起きたことに恐怖を覚えつつも、どこかほっとして、納得してもいた。
 それは、タキ本人もそうだった。
 それでも彼はもう一度火を放った。炎はそれらの表面を撫でただけで終わった。

 処分をするといっても、どうするわけにもいかず、以来、そのままにしてある。文字通りそのまま。
 柱を倒すことだけはできたので、二つの大きな木材を横たえて、そこに他のものも置いて、雨ざらしだ。
 エマは草を刈れというが、草を刈ったらあれが出てきてしまう。そうしたら。

 彼はずっとエマに隠しごとをしていることを後ろめたく思ってきた。エマは別に少しも気にしないかもしれない。そもそも、本人が自分のことを喋らないのだから、お互いさまかもしれない。反対に、本当は気にしていて、あれこれ聞きたいと思いつつ、何しろああいう性格だから、口に出そうか出すまいか悩んでいるのかもしれない。
 そう考えれば、自分の存在そのものも、本当は疎ましいのかもしれないし、彼にストレスを与える原因なのかもしれない。

 何があったかは、エマを催促しながら、あちこちから話を拾って知った。どうせエマは自分から近況を話してくれたりはしないだろうから、と思って、最初は軽く最近の彼を知っていそうな相手に尋ねてみただけだ。本当は、こんなことをしたら彼は嫌がるだろうと分かっていても、ひとつ聞いてしまったら、止められなかった。タキがエマの友人だと知っている者は言葉を選んでくれていたが、そうではない者は容赦なくエマがいかに役立たずで、存在するだけで陰鬱かを教えてくれた。
 ある意味で非常に参考になったよ、と共通の友人に話すと、思った以上に相手は恐れ慄いてくれた。こいつが恐れ慄いたところで、関係はないのだから意味はないのだが、なんだか胸が晴れた。八つ当たりだ。いずれにしろ、何もする気はない。何かしたところで、そんなのエマは喜ばないし、それだって意味はないだろう。

 呼び戻したことがよかったのかどうか、空港で会った瞬間から、タキはずっと悩んでいる。
 エマは何も言わないが、どう見ても新しい暮らしに馴染んだようには思えない。確かに、本で彼を釣ったし、いくらでも読めとは言ったが、彼はここへ来てからずっと本ばかり読んでいる。そのうち、店のソファと同化するか、紙か活字になってしまうのではないかと思うほどだ。
 でも、タキにはどうしてやったものか全く分からない。自分が介入することではない気もしたし、かといって心配で仕方がない。見るだに毎日、それこそ本当に紙のような顔色をして、まるで、本を読んでいるというよりも、無理やりに活字の隙間に身を捩じ込んでいるかのようなのだ。

 エマがいつも座っていたソファを見て、そうだ、水をやろうと思ったのだ、とタキは思い出した。最近、何をするにも気が散って少しも集中できない。
 立ちあがろうと思ったのに、もうそれすらも面倒で、またため息が漏れた。鉢植えが枯れることくらい、別にどうでもいいじゃないか。
 それはよくない。よくないと思いながらも、体が重い。
 もう一度ため息をついたところで、どこかでスマホが鳴るのが聞こえた。仕方なく立ち上がる。しつこく鳴り続けるので、はいはい、と声に出して返事をした。一体どこに置いたのだろう、近くで聞こえるから店の中にあるはずだ。

「はいはい、聞こえてますよ、今行きますから」

 大きな声で返事をしたら、ちょっとすっきりした。そのことにもう一度ため息が出る。すると、なんだいるんじゃないか、と玄関の方から返事があった。
 そこでようやくタキは、店を開けることすら忘れていたことに気がついた。入るよ、という声は、かつての学校の先輩だ。先輩と言っても小学校のだ。そんなこと言ったら全員が先輩か後輩だ。
 今日、入荷した本を取りに来ると言っていた、ような気がする。
 最悪だ、と彼は額に手をやった。

「何突っ立ってんの」

 挨拶より前に、呆れたように言われた。ガサガサとビニール袋をこちらに突き出して、

「これ、持ってけって言われてさ」

と言いながらタキの顔を覗き込む。どうやら母親だか嫁だかに持たされたらしい。受け取った袋は思ったよりも重かった。中には夏野菜がぎっしり入っている。土の匂いがした。緑の匂いも。

「なんかあったの、亡霊みたいな顔してっけど? 俺の本は?」

 それも「俺の」じゃない。「嫁の」のはずだが、突っ込むのも面倒で、タキはもう一度わざとらしくため息をついて、奥に引き返した。

「ありがとうございます、は? おい、客だぞ、もっと丁重に扱え」

 客は彼ではなく、嫁の方だ。本人が来てくれればよかったのに、なぜお使いを頼んだのだろう。がっかりだ。

「お客様、当店は書店ですので、大きなお声を出さないでいただけると助かります」

「客いないじゃん。ちゃんとやってけてんの? まあ、タキちゃんなら大丈夫か」

 タキはもう一度、大きなため息をついてみせた。店のことなんか、どうでもいい。すでに町中の誰もが認識しているであろう通り、これは松井家の後取りが道楽でやっていることだ。
 なぜだか地味に常連客もいるが、駅前には一般に人が求めるところの「本屋」があるし、この店がどうなったところで、誰の迷惑にもならないだろう。タキ自身にもだ。いや。
 もしかしたら、エマは困るかも。

 そんなことを思ってしまって、今度は本当に疲れた息が漏れた。



第八話

第十話



#なんのはなしですか
#君と魔術と星空と
#空を見上げて




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