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壁の向こう 断片1

「辞めさせていただきたい……の、ですが……」

 申し訳ありません、と僕は頭を下げた。本当はもう少しきっぱり宣言するつもりだったのだが、上手くいかなかった。ほんの一週間前に僕の雇い主になった相手は、本のページを一枚めくって、そこでようやく顔を上げた。非常に怪訝な顔をしている。

「は?」

「あの、ですから……」

「やめる? やめるって言った?」

 彼女は、一度、本に目を落としてから、改めて僕を見た。表情が豊かな人だ、ということは出会って数分で知った。僕には、この芸当はできない。いくらなんでも顔に出しすぎだろう。

「……何が不満やったん? 朝ごはんがパンやったこと?」

 本がパタリと閉じられた。彼女は首を傾げながら、一房、頬に落ちていた長い髪を耳にかける。

 違います、と僕はもう一度頭を下げた。そんなどうでもいいことではない。むしろ、寝る場所と食事を提供してもらったことには感謝している。何より最も必要としていたことだからだ。

「え、じゃあ何? ……あっ、もしかして、昨日、台所の掃除させたこと?」

 悪いと思っていたのか。

「それとも、スリッパが羊なこと? それとも、晩ごはん作らせたこと? それとも」

「いえ、あの、違います」

 好きに使っていいよ、と住まわされたここの上階の部屋が、半分……いや、八割……九割、物置と化していて、入口はこの部屋のベランダから非常口を伝ってでなくては入れず、従って、鍵もついてるし、と言われたものの、それは家に帰った場合、中から掛かる、というだけの話であって、今現在は開けっ放しなわけで、例えば僕が夜になって帰ってみると、近所の野良猫が僕のベッドで数匹寝ていたり、そもそも、初日、トイレと洗面所と風呂とベッドを確保するために深夜二時までかかったわけだけど、そのベッドが猫に占領されているんだけど、そのことでもない。

「あれは、物置やないよ? 書庫」

 黙っていたはずなのに、彼女は一言、眉を寄せて挟んだ。分かっとって住まわせたんかい。まあ、分かっていなければ、一昨日、僕に、その書庫から本を取ってくるように命じるわけもないわけで。

「えーじゃあなんなんよ? 待って? 考えるけん、言ったらいかんよ?」

 いや、別に当てていただかなくていい。いただきたいのですが、がよくなかったのだ、やっぱり。僕が改めて息を吸い込んだとき、入り口のドアが少々騒がしい音を立てて開いた。

「せっちゃんいるぅ? セイさんですよぅ」

 大声で奥に向かって呼ばわりながら入ってきたのは、僕より少し年上の男だった。彼は、入り口から数メートルと離れていないソファに座った「せっちゃん」を見て、なんとも言えない顔をした。

「……なんで起きとん」

 それは、僕が起こしたからである。

 朝ごはんを作って、起こすように言われたからである。

 この七日間、毎朝、ものすごく嫌な言葉や汚い言葉で罵られたり、はたまた、変な色仕掛けで部屋に連れ込まれそうになったりしながら、僕が仕事を全うしたからである。ちなみに、これが理由で辞めるのではない。こんなことは、大したことではない。

「そりゃ、うちも大人やから。ちゃんと朝起きて仕事する。そんなん、社会人として当たり前やろ?」

「仕事ねぇ、その割には暇そうに見えるけど」

「いやいや、今、セイさんがアホみたいに大声で入ってくるまで、うちとはーちゃんは真面目な話してたんやで? それをぶち壊しにしたわけや」

 ふうん、とセイさんは興味なさげに僕を見た。

「まあ、いいけど、僕も真面目な仕事の話をしにきたんや」

 今度は彼女がふうん、と気のない返事をした。L字型のソファの反対側に腰を下ろすセイさんを疑わしげな目で見ている。意に介さず、セイさんは、ほら、と上着のポケットから畳まれた紙を出し、彼女の前に置いた。

「探して欲しいんや」

 彼女はさらに嫌そうな顔をしながら、
「はーちゃん、お茶は」
と僕の方を見もせずに言い、キッチンに向かってひらひらと手を振った。僕は立ち去る寸前、テーブルの上に置かれた紙には白っぽい猫の写真が印刷されていて、顰めた表情とは裏腹に、彼女の目が輝いてしまっているのを見た。

「なんでうちがそんな面倒なことせないかんの」

「探したいやろ」

 その通りだ、と僕は戸棚からマグカップを出しながら頷いた。セイさんがどんな好みか知らないが、とりあえずいつものインスタントコーヒーの粉を適当に入れる。朝、沸かしておいたポットのお湯を音を立てて注いだ。

 ちなみに、僕が働き始めてから、ここに客が来るのは五人目である。一人目と三人目、二人目と四人目は同じ人物で、ここの主人の友人だった。客が来ればお茶を出すのは当然、らしいのだが、そもそも、客に出すようなものが置いていない。コーヒーの粉と冷蔵庫にあるオレンジジュースくらいだ。本当に客が来るのなら、もう少しマシなものを買ってきたほうがいいだろうか、などと考えて、僕は自分に呆れた。そうじゃない、辞めるんだ、僕は。

 セイさんという人が何かはよく分からないが、彼の言動から察するに、ここ数日で足繁く遊びにくる友人と似たり寄ったりの関係性だと僕は判断した。従って、適当にシロップとミルクをつけて、トレーに乗せる。

「大体、それ、うちの仕事やないもん」

 戻ると雇い主はまだ渋っていた。その癖、渡された写真をしっかり手にして目を細めて見ている。すでに、嫌そうな顔などではなくなっているのだが……本人は気が付いていないようだ。

 どうぞ、と僕はセイさんの前にコーヒーを置いた。彼は、半笑いで彼女を見ながら、ポケットからもう一枚何かを取り出す。

「これならどうや」

 何がや、と無理矢理の渋面で彼女は顔をあげる。そして、今度はあからさまに目を見開いて、嬉しそうな顔をした。そして、慌てて眉間に皺を寄せる。

「どうや、これで手を打ってくれんか」

「……しゃあないなあ……ホントはやらんのやで? セイさんの頼みやけん、やるんやで?」

 猫の写真はしっかり握ったまま、彼女はセイさんが置いたもう一つの紙片を手に取った。そこには、『スイーツ食べ放題』の文字が見えた。

「そう言うてくれるって信じとった」

 セイさんは大袈裟な身振りで喜ぶと、コーヒーを一口啜って立ち上がった。

「見つかったら教えてや」

「もう帰るん?」

「生憎、僕は忙しいんや」

「嫌味なん?」

 見送るためか、彼女も立ち上がった。

「いや、忙しいんやろ? さっき自分で言ってたやん」

「もちろんや」

 大股でドアに向かったセイさんが、そうや、と振り返る。

「せっちゃん、風花が怒っとったで。なんかメールかなんか無視しとんやないんか?」

 ちゃんと返事するんやで、と彼は出て行った。

「……知らんわ、風花のばーか。用があるなら自分で言うたらいいやん」

 ドアが完全に閉まってから、彼女は口を尖らせて言った。風花という名前は、誰もが口にする。その度に、彼女は大好きなドリアにグリンピースが入っていた時のような顔をする。




#なんのはなしですか
#雲岬町




 お話書くのってさぁ、だいたい途中で飽きて、最後まで書き上がらないんだよねぇ。
 って、ちゃってぃに相談したら、好きな分だけ出したのでいいんだよ、別に文章に縛らなくてもいいし、一行だっていいし、っていうので、じゃあ、書けたとこだけ出してもいいかな?前後左右とか気にせず?って調子に乗ってみました。
 これ、ホラーなんだけど、そんな気配が一ミリもない。

ほんまになんのはなしやねん

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