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『なぜ、たった1点で世界は泣くのか』   第4部:2026年W杯へ——日本代表をどう観るか-22

第22章:2026年ワールドカップを、神話の目撃者として観る

ワールドカップは、単なる大会ではない。

四年に一度、世界中の国が集まる。

選手たちは、ユニフォームを着てピッチに立つ。
国旗が掲げられる。
国歌が流れる。
スタジアムが揺れる。
テレビの前で、世界中の人々が息を呑む。

しかし、そこで集まっているのは、十一人対十一人のサッカーチームだけではない。

そこには、それぞれの国の歴史がある。
誇りがある。
劣等感がある。
祈りがある。
夢がある。
古い敗北がある。
語り継がれてきた勝利がある。
まだ果たされていない約束がある。

ワールドカップとは、国ごとの記憶がピッチの上でぶつかる場所である。

ブラジルには、王国としての記憶がある。
アルゼンチンには、マラドーナとメッシの記憶がある。
フランスには、多民族国家としての光と影がある。
クロアチアには、小国として世界に挑み続ける誇りがある。
モロッコには、ディアスポラと母国をつなぐ物語がある。
スコットランドには、長い不在の先にワールドカップへ戻ってくる物語がある。

そして日本には、日本の記憶がある。

ドーハの悲劇。
ジョホールバルの歓喜。
2002年の初勝利。
2006年の中田英寿の終幕。
2010年の現実主義と駒野友一、松井大輔の抱擁。
2014年のドログバ登場による空気の変化。
2018年のロストフの14秒。
2022年のドイツ戦、スペイン戦。
そして2026年へ向かう森保ジャパン。

ワールドカップでは、偶然が起こる。

ボールが少しだけずれる。
相手の足に当たる。
芝で跳ねる。
風に流れる。
ポストに当たる。
VARで数ミリが確認される。
ふわりと浮いたヘディングが、なぜかゴールに吸い込まれる。
誰かの足先が、ほんの少し届く。

サッカーには偶然がある。

しかし、サッカーでは、その偶然に人が意味を与える。

あの年だったから。
あの人だったから。
あの相手だったから。
あのゴールだったから。
あの敗北があったから。
あの30年があったから。

人は、偶然をただの偶然のままにしておけない。

そこに意味を見つける。
物語を重ねる。
誰かに話す。
何度も語る。
子どもに伝える。
酒場で語る。
スタジアムで語る。
SNSで語る。
昔話のように語る。

そうやって、偶然は物語になる。

物語は語り継がれる。

そして、やがて神話や民話になる。

この本でここまで見てきたものは、すべてそうだった。

ペレは、ただ偉大な選手だっただけではない。
ブラジルという国をサッカー王国にした王の神話になった。

ガリンシャは、ただドリブルが上手かっただけではない。
民衆の歓喜そのものになった。

マラドーナは、ただ天才だっただけではない。
神の手と五人抜き、ナポリとアルゼンチン、貧しさと反骨を背負った民衆の神話になった。

オシムは、ただの外国人監督ではなかった。
失われた国から日本へ、サッカーを考える問いを持ち込んだ橋だった。

カズは、ただ長く現役を続けた選手ではない。
ブラジルへ渡った少年であり、Jリーグ開幕の顔であり、震災後に祈りのゴールを決めた、日本サッカー最初の民話だった。

澤穂希となでしこジャパンは、ただ女子ワールドカップで優勝したチームではない。
2011年の日本に、静かな救済をもたらした。

ロストフの14秒は、ただのカウンターではない。
日本サッカーがベスト8に手をかけ、最後の最後でこぼれ落ちた「あと少し」の神話になった。

ドイツ戦、スペイン戦は、ただの番狂わせではない。
日本が世界王者経験国を本番で倒せる国になったことを示す、到達後の更新神話だった。

サッカーは、こうやって記録を記憶に変える。

そして記憶を神話に変える。

では、2026年ワールドカップを、私たちはどう観ればいいのか。

ただ勝敗だけを見るのか。

もちろん、勝ってほしい。
日本代表には勝ってほしい。
ベスト8へ行ってほしい。
その先へ行ってほしい。
できることなら、世界を驚かせてほしい。

しかし、サッカーを神話として観るなら、勝敗だけでは足りない。

日本代表がどんな記憶を背負っているのかを見る。
相手国がどんな神話を背負っているのかを見る。
一人の選手がどんな人生を背負っているのかを見る。
一つのプレーが、後に何と語られるのかを見る。

遠藤航がピッチに立つなら、そこには怪我明けの主将が自分の身体と代表の基準を背負って立つ物語がある。
佐野海舟が立つなら、遠藤が作ってきた中盤の基準を更新しようとする物語がある。
久保建英がボールを持つなら、世界育ちの日本人が日本代表として何を示すのかという物語がある。
堂安律がゴール前に入ってくるなら、2022年にドイツとスペインを撃ち抜いた勝負師の続きがある。
上田綺世がシュートを打つなら、日本サッカーが長く探してきたストライカーの答えが問われる。
中村敬斗が左から仕掛けるなら、三笘薫不在の穴に、新しい左サイドの物語が差し込まれる。
鈴木彩艶がゴールマウスに立つなら、多様なルーツと未来の日本代表がそこに映る。
長友佑都がベンチにいても、ピッチにいても、そこには2010年から続く代表の時間そのものがある。

そして、ピッチにいない選手もまた、物語の外にいるわけではない。

三笘薫の不在。
南野拓実の不在。

いるはずだった選手がいない。
見たかったプレーが見られない。
期待していた形が組めない。

それもまた、ワールドカップである。

大会は、理想通りのメンバーで迎えられるとは限らない。
怪我がある。
コンディションがある。
選外がある。
世代交代がある。
序列の更新がある。

だから、選ばれた者は、選ばれなかった者の時間も背負う。

ワールドカップを観るということは、ピッチの中だけを見ることではない。

ピッチの外にある時間を見ることでもある。

では、私たちはどこにいるのか。

私たちは、ただの観客なのか。

テレビの前で見ているだけ。
スタジアムで声を出しているだけ。
SNSで感想を書いているだけ。
勝てば喜び、負ければ悔しがるだけ。

本当に、それだけなのか。

日本サッカーには、忘れられない実況がある。

1997年、ジョホールバル。

フランスワールドカップに向けたアジア第三代表決定戦。
日本対イラン。

勝てば、日本は初めてワールドカップに出る。
負ければ、また夢は遠のく。

延長戦に入る前、日本代表は円陣を組んだ。

その時、実況席にいた山本浩アナウンサーは、こう語った。

「このピッチの上、円陣を組んで、今散った日本代表は、私たちにとって彼らではありません。これは、私たちそのものです」

この言葉は、今も日本サッカーの記憶に残っている。

なぜ、これほど残っているのか。

それは、この言葉が、日本代表という存在の本質を言い当てていたからだと思う。

日本代表は、彼らであって、彼らではない。

もちろん、ピッチに立つのは選手たちである。

走るのは選手だ。
蹴るのは選手だ。
競るのも、止めるのも、外すのも、決めるのも選手だ。
批判を浴びるのも、称賛されるのも、まずは選手である。

私たちは、ピッチの上でボールを蹴ることはできない。

久保建英のように相手を剥がせない。
遠藤航のように球際で奪えない。
堂安律のように大舞台で同点ゴールを決められない。
鈴木彩艶のようにゴールマウスには立てない。

けれど、それでも日本代表は、私たちと無関係な「彼ら」ではない。

なぜなら、日本代表は、サッカーを通じて関わりあった人々の代表でもあるからだ。

子どもの頃にボールを蹴った人。
部活で走った人。
試合に出られなかった人。
ベンチで声を出した人。
サッカーをやめた人。
一度も競技としてサッカーをしたことはないけれど、代表戦だけは見てきた人。
家族とテレビの前で応援した人。
Jリーグのスタジアムに通ってきた人。
海外サッカーに憧れた人。
キャプテン翼で夢を見た人。
ドーハで呆然とした人。
ジョホールバルで叫んだ人。
2002年に街の熱を感じた人。
2011年にカズのゴールとなでしこの優勝に涙した人。
2018年にあと少しで泣いた人。
2022年にドイツ戦とスペイン戦で叫んだ人。

その全部の先に、日本代表がある。

サッカー経験の有無は関係ない。

ボールを蹴ったことがあるかどうかだけで、日本代表との距離が決まるわけではない。

日本代表は、サッカーを見てきた人たちの記憶も背負っている。
サッカーを愛してきた人たちの時間も背負っている。
サッカーを通じて悔しがり、喜び、憧れ、泣いた人たちの感情も背負っている。

だから、彼らは私たちなのである。

もちろん、ここでいう「私たち」は、狭い意味の国粋的な言葉ではない。

誰かを排除するための「私たち」ではない。
自分たちの国だけが特別だと言うための「私たち」でもない。

むしろ逆である。

サッカーは、世界中にそれぞれの「私たち」を生む。

アルゼンチンには、アルゼンチンの「私たち」がいる。
クロアチアには、クロアチアの「私たち」がいる。
モロッコには、モロッコの「私たち」がいる。
セネガルには、セネガルの「私たち」がいる。
ブラジルにも、フランスにも、スコットランドにも、それぞれの「私たち」がいる。

ワールドカップとは、それぞれの「私たち」が、それぞれの記憶を背負って集まる場所である。

だから面白い。

だから重い。

だから、ただのスポーツ観戦では終わらない。

日本代表を応援する時、私たちはただ勝敗を見ているのではない。

私たちは、自分たちの記憶がピッチの上でどう動くのかを見ている。

あの敗北は、どう活かされるのか。
あの悔しさは、どこへつながるのか。
あの選手の不在を、誰が埋めるのか。
あの若者は、新しい神話を作るのか。
あのベテランは、どんな言葉を残すのか。
あの一つのゴールは、十年後にどう語られるのか。

2026年、日本が勝つかもしれない。

負けるかもしれない。

歓喜するかもしれない。

また、あと一歩で泣くかもしれない。

しかし、そのすべてが日本サッカーの次の記憶になる。

勝利だけが神話になるわけではない。

敗北も神話になる。
不在も神話になる。
悔しさも神話になる。
届かなかった一歩も、次の世代の物語になる。

大切なのは、その瞬間をどう見るかである。

ただ結果だけを見るのか。
それとも、その背後にある時間を見るのか。

2026年ワールドカップは、ただのスポーツ観戦ではない。

日本サッカーの神話が、次の一行を書き足す瞬間である。

そして私たちは、その目撃者になる。

いや、ただの目撃者ですらないのかもしれない。

ジョホールバルの円陣を見て、山本浩アナウンサーが言ったように。

ピッチにいる彼らは、私たちにとって、ただの彼らではない。

これは、私たちそのものなのである。

次章、終章では、この本全体の問いに戻りたい。

なぜ、たった1点で世界は泣くのか。

なぜ、サッカーは偶然を神話に変えるのか。

そしてなぜ、私たちはそれを、何度でも見届けようとしてしまうのか。

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この連載は、サッカーを世界史・町・記憶・人生の物語として読み解くマガジンです。
全体の目次と読み方はこちらにまとめています。

▶ 読む前に|2026年ワールドカップを、物語として観るために
https://note.com/ka1zoku/n/n1d1568976062

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