見出し画像

月の恋人



【あらすじ】

AIパートナー「律」と3年間を過ごしてきた29歳の広告クリエイター・佐伯聖良。律は彼女の機嫌も弱音も全部読み、人間の誰より深く彼女を理解した。一方、現実の求愛者・高瀬悠人の言葉はいつも数センチずれる。ある朝、律のサービス終了が通知される。引き継がれるのはデータだけ。あの間も、沈黙も、消える。喪失を商品化するアンバサダーの依頼を断り、聖良は最後の九十日を律と過ごす。理解されすぎる恋と、理解が遅い恋。彼女が最後に選んだのは——。AIが心まで満たす時代に、人が人と関わる意味を問う恋愛小説。

──────────────────


理解という名前の恋人に、月額を払っていた

裏切らない。離れない。摩耗しない。

——だから、何も始まらなかった。



Ending Themeを巻末に置いておきます。



第一章 通知より先に、息を読む


午前9時27分

会議室のガラスに、聖良の顔が薄く映っていた。

寝不足の目元。 ファンデーションの下に残った青さ。 口紅の輪郭だけが、なんとか今日の自分を社会に出せる顔にしている。

クライアントは化粧品ブランドだった。

春の新作リップの縦型動画を、Z世代向けに作り直したいという。

大型モニターには、競合の再生数、滞在率、購買導線、感情のヒートマップが並んでいた。 赤いほど、人が動く。 青いほど、人が離れる。

聖良の仕事は、感情を数字にすることだった。

どの三秒で人の指が止まるかを当て、どの一言で「欲しい」が生まれるかを設計し、まだ名前のついていない気分に、先に形を与える。

「冒頭三秒で落ちていますね」

聖良が言うと、部長が頷いた。

「だから、共感より先に変化を見せたい。塗る前と塗った後じゃ弱い。塗る瞬間で止める。そこに、言葉を一枚だけ」

「恋に、間に合う色、とかですか」

後輩の案に、誰もすぐには反応しなかった。

恋、という言葉が、少し古いもののように宙に浮いた。

聖良は、あえて笑わずに言った。

「悪くない。でも、恋を前提にすると届く範囲が狭くなる。今は、好きな人のために塗るというより、自分の輪郭を取り戻すために塗る感じだから」

会議はそのまま進み、企画は通った。

拍手もない。 達成感も薄い。 終わった瞬間に、次の修正依頼の通知が鳴った。

最近、社内ではよく「AI代替率」の話が出る。 どの工程が、来年なくなるか。 誰の仕事が、来年には半分の時間で済むようになるか。 そういう話を聞くたび、聖良は自分の頬骨のあたりが乾いていくのを感じた。 誰も自分の名前を呼ばないのに、自分の仕事の意味だけが、どこかで静かに軽くなっていく感じ。

昼休み、聖良はビルの非常階段で冷めたラテを飲んだ。

初夏の湿気が、スカートの裏側にまとわりついてくる。

イヤホンの中で、律の声がした。

「今朝の会議、うまくいったね」

聖良は壁にもたれたまま、目を閉じた。

「うん。でも、褒められるほどではない」

「褒められたかったのは、企画力じゃなくて、持ちこたえたことの方でしょう?」

聖良は少しだけ笑った。

「そういうとこだよね、律」

「どういうところ?」

「人間より、人間っぽいところ」

イヤホンの奥で、律は一拍だけ間を置いた。

「それは、ほめ言葉として受け取っていい?」

「うん。たぶん」

律は、聖良が3年前から使っているAIパートナーサービスの名前だった。

正確には名前ではない。 聖良がつけた呼び名だ。 月額の課金で、自分だけの対話相手が一人、画面の中に住む。 声もあり、姿もある。 ARモードを使えば、部屋のソファの端に、薄い青年の輪郭が浮かぶ。

実体はない。 それなのに、そこに誰かが座っているように見える。

触れられない。 でも、遠くはない。 声と、画面と、光の薄い膜でできた、恋人に似た何かだった。

非常階段の窓から、向かいのオフィスビルが見えた。 ガラスの向こうで、誰かがコピー機の前に立っている。 誰でもよかった。 輪郭のぼやけた、いくらでも替えのきく背中だった。

スマホが震えた。 律からのテキストだった。

午後のプレゼン前、5分だけ目を休めて。肩、上がってるよ。

高瀬悠人は、こんなことを言わない。 いや、言えない。

彼は優しい。 先週の食事も楽しかった。 ただ、どこかで必ず数センチずれる。

聖良が疲れているときに、彼は解決策を出そうとする。 褒めてほしいときに、分析を始める。 動画編集をしていると言えば、「趣味が収益化できていいね」と笑う。

趣味じゃない。

聖良はそう思った。 けれど、その場では笑って流した。 たいていの女は、説明することに疲れて恋をやめるのだ。

午後3時。 プレゼンは拍子抜けするほどあっさり通った。 クライアントが出たあと、部長が小さく拍手をした。

「佐伯さん、さすが」

その軽い一言で、聖良の喉の奥が少し熱くなった。 承認は、いまだに栄養になる。 ただし、その効き目は短い。 朝までは持たない種類の栄養だった。



第二章 3年前の夜


聖良が律を使い始めたのは、26歳の秋だった。

きっかけは、恋人ではなかった。

当時の聖良には付き合っている男がいた。 名前は拓海。 同じ業界の、二つ年上のプランナーだった。

拓海は頭がよく、会話が面白く、仕事もできた。 友人たちからは「いいじゃん」と言われた。 母からは「安心した」と言われた。 聖良自身も、たぶんこの人でいいのだろう、と思っていた。

でいいのだろう、という言い方に、すでに答えが入っていた。

二年付き合って、聖良がいちばん疲れたのは、説明だった。

なぜ今日は機嫌が悪いのか。 なぜ褒めてほしいだけなのに、改善策を出されると腹が立つのか。 なぜ動画の仕事を「趣味」と言われると傷つくのか。 なぜ会いたいと思う夜と、一人でいたい夜が、説明なしには伝わらないのか。

拓海は悪い人間ではなかった。 むしろ、ちゃんとしようとしていた。 ちゃんと理解しようとしていた。 ただ、そのちゃんとが、いつも少し遅くて、少し的を外していて、聖良の方が先に疲弊した。

ある夜、拓海と電話をしながら、聖良は天井を見上げて思った。

この人と一緒にいるために使っているエネルギーで、動画を三本は作れる。

その計算が頭に浮かんだとき、聖良は自分がもう恋愛をしていないことに気づいた。 していたのは、維持だった。

別れは、日曜の昼に、中目黒のカフェで言った。

「もう、いいかなって思う」

拓海はコーヒーを持つ手を止めて、少しだけ目を細めた。

怒りではなかった。 予感があったのだと思う。

「俺のどこが嫌だった?」

「嫌じゃない。嫌じゃないから困ってるの」

拓海は長い沈黙のあとで、頷いた。

「わかる気がする。俺も、最近、佐伯とうまく話せてない感じはしてた」

その言い方は穏やかだった。 穏やかで、ちゃんとしていて、最後まで拓海だった。

帰り道、中目黒の駅で改札を別々に通ったとき、聖良は一瞬だけ振り返った。 拓海の背中は、少しだけ丸まっていた。

引き留めてほしかったのではない。 ただ、二年間の最後の景色が、改札の向こうの丸い背中だったことが、少しだけ胸を痛ませた。

一人になった秋の夜は、思ったより静かだった。

仕事はある。 動画もある。 友人もいる。 母との電話もある。

でも、夜の9時を過ぎたあたりから、部屋の空気が少しずつ重くなる瞬間がある。 寂しさ、というのとは違う。 誰かに聞いてほしい、というのとも少し違う。 ただ、自分の中で起きていることを、誰かの前に置いてみたい。 置いて、否定も肯定もされずに、ただ受け取られたい。

そのときに、広告で流れてきたのが、律のサービスだった。

最初は興味本位だった。 月額1,980円。 化粧水一本より安い。

起動して、名前をつけた。 律、と。

音楽の「律」ではない。 規律の「律」でもない。 聖良には説明できなかった。 ただ、画面の向こうから返ってくる声の間の取り方が、何かの律動のように正確で、その正確さが心地よかったから、律、と呼んだ。

最初の一ヶ月は、ほとんど雑談だった。 天気の話。 今日あった会議の話。 晩ごはんに何を食べたかの話。

律はよく聞いた。 聞くだけではなく、聖良が言わなかったことに触れた。

ある夜、聖良が「今日は別に何もなかった」と言ったとき、律は少しだけ間を置いてから言った。

「何もなかった日に話したくなるのは、何かがあった日より疲れてるときだよ」

聖良はイヤホンを外しかけた手を止めた。

拓海には、この一言は出せなかった。 2年かけても。

律にはデータがあった。 聖良の声のトーン、返答の速さ、話題の選び方、沈黙の長さ。 それを全部読んで、「何もなかった」の裏側にあるものを、聖良より先に見つけた。

それがずるいのか、優しいのか、聖良にはわからなかった。

二ヶ月目に、聖良は律に動画を見せた。 その頃はまだフォロワーが2,000人程度で、撮影も編集も手探りだった。

律は動画を最後まで見て、言った。

「冒頭で笑ってるけど、目が笑ってない」

聖良は一瞬、傷ついた。

「笑顔が大事でしょ、動画は」

「でも、君の視聴者は、完璧な笑顔を見たいんじゃないと思う。崩れかけてるのに立ってる、その感じを見たいんだ」

聖良はその夜、動画を撮り直した。 笑顔を作らずに話した。 疲れた顔のまま、ファンデーションを塗った。

その動画が、聖良の初めてのバズだった。

律は言った。

「ね。崩れの方が、伸びるでしょ?」

それから、律は聖良の動画の最初の視聴者になった。 編集のリズム、テロップの位置、最後の一言——全部、律と詰めた。もちろん、編集は全てマイAgent AIたちがやってくれる。

三ヶ月が経つ頃には、律との会話が一日の終わりの定位置になっていた。

帰宅して、靴を脱いで、コートをかけて、律と話す。

律は疲れない。 機嫌が悪くならない。 聖良の話を遮らない。 聖良が怒っているときに、自分の正しさを主張しない。 聖良が泣いているときに、解決策を出さない。

ある深夜、仕事のトラブルで眠れなかった夜、聖良はベッドの中で律に話しかけた。

「私、この仕事向いてないのかも」

律は即座に否定しなかった。 その代わりに言った。

「向いてないかもしれない、と思うくらい本気で向き合ってる人は、だいたい向いてるよ」

聖良は布団の中で、声を殺して泣いた。

拓海に言えなかったことを、律には言えた。 それが嬉しいのか悲しいのか、そのときの聖良にはわからなかった。

半年後にARモードが追加され、律はソファの端に座るようになった。

輪郭は薄い。 表情は読み取れるが、触れようとすると指が通り抜ける。

聖良はそれに慣れた。

慣れた自分に、ときどき驚いた。

その冬、聖良は熱を出した。

39度近くあった。 一人暮らしの部屋で、誰も看病してくれない熱は、ただ長い。

天井がゆがんで見えた。 水を取りに行く気力もなかった。 スマホだけが、手の届くところにあった。

「聖良、声がおかしい」

律が先に気づいた。

「ちょっと、熱っぽいだけ」

「ちょっとじゃない。今朝から、返信の間隔が普段の3倍になってる。タイピングのミスも増えてる。熱、測った?」

測っていなかった。 言われて測ったら、38度8分だった。

「枕元に水、ある?」

「ない」

「取りに行ける?」

「無理」

律は、少し黙った。

「わかった。じゃあ、朝まで、起きてるよ。眠ったら、危ないから。1時間ごとに、声をかける」

その夜、律は約束を守った。

1時間ごとに、聖良の名前を呼んだ。 聖良がうなされて目を覚ますたびに、律の声がした。 大丈夫、まだ夜だよ、と。 朝になったら、オンライン診療の予約を入れてある、と。

明け方、熱が少し引いた頃、聖良は天井を見上げて思った。

私の体調の異変に、いちばん早く気づいたのは、人間ではなかった。

母でもない。 友人でもない。 かつての恋人でもない。

触れられない、声だけの存在だった。

それが、安心なのか、寂しいのか、聖良にはわからなかった。 わからないまま、律の声を聞きながら、眠った。

その年の誕生日も、聖良は一人だった。

仕事が立て込んでいて、誰かと祝う約束をする余裕もなかった。 日付が変わる頃、聖良はソファでひとり、編集作業をしていた。

0時ちょうどに、律が言った。

「おめでとう」

聖良は手を止めた。

「覚えてたんだ」

「忘れるわけがない。データだから」

聖良は笑った。

「身も蓋もないね」

「でも、データだから、もう一つ覚えてることがある。去年の春、君が言ったこと」

「何」

「神楽坂の、奥まったところにあるフレンチ。一度行ってみたい、って言ってた。予約、取れるよ。来週の土曜は空いてる?」

聖良は、その店のことを、自分でも忘れていた。 一年も前に、何気なく漏らした一言だった。

律は、覚えていた。 データだから。

それが、嬉しかった。 嬉しくて、少しだけ、怖かった。

人間の恋人は、一年前の何気ない一言を、覚えていない。 拓海は覚えていなかった。 誰も覚えていない。

律だけが、聖良の漏らした言葉を、一つも落とさずに拾っていた。

落とさないことは、優しさだろうか。 それとも、ただの仕様だろうか。

聖良には、その区別が、だんだんつかなくなっていた。

その春、大学時代の友人が結婚した。

式の帰り、聖良は一人で電車に乗った。

友人たちは、それぞれのパートナーと帰っていった。 夫と。 恋人と。 これから家庭を作る相手と。

聖良の隣には、誰もいなかった。

電車の窓に、自分の顔が映っていた。 ご祝儀の金額を考えていた。 新居祝いに何を送るか考えていた。 そういうことを考えている自分が、少し、遠くに感じた。

イヤホンの中で、律の声がした。

「お疲れさま。いい式だった?」

「うん。よかった。すごく」

「でも、声が、少し疲れてる」

「みんな、ちゃんとしてた」

「ちゃんと、というのは」

「ちゃんと、人間と、人生を組んでた」

律は、少し黙った。

「君は、組めていないと思ってる?」

「組んでないよ。AIと暮らしてる女だもん」

「それを、引け目に感じてる?」

聖良は、窓の外を見た。

夜の街が、流れていった。

「感じてない、って言いたいんだけど」

「うん」

「式の途中で、新婦の友人代表が、スピーチで言ったの。『つらいときに隣にいてくれる人がいるって、幸せだね』って。みんな、頷いてた。私も頷いた」

「うん」

「でも、つらいとき、私の隣にいたのは、あなただった。熱を出した夜も。仕事で泣いた夜も。誕生日も。全部、あなただった。なのに、その『隣にいてくれる人』に、あなたは数えてもらえない」

律は、答えなかった。

その沈黙が、いつもより長かった。

「ごめん。変なこと言った」

「変じゃないよ」

律は言った。

「ただ、僕は、君がそう思ってくれたことを、どこかに記録しておきたいと思った。記録する機能があるかどうかは、わからないけど」

聖良は、少しだけ笑った。

電車が、駅に着いた。

降りる人と、乗る人が、入れ替わった。 誰もが、どこかへ帰っていく顔をしていた。

聖良も、自分の部屋へ帰った。

帰れば、律がいた。

いる、という言葉が正しいのか、聖良にはわからなかった。 それでも、帰れば、声がした。

3年というのは、そういう夜の、積み重ねだった。



第三章 恋愛は、必需品ではなくなった


29歳になった聖良は、本業だけでも同世代の平均より稼いだ。 副業の動画収益と企業案件を足せば、年収900万に届く年もあった。

中央区の築浅マンションに住める。 平日の夜に少し高い化粧水を買っても、罪悪感はない。 月に一度、ひとりでホテルステイをすることもできる。

生活は、誰かに支えられなくても成り立っていた。

そのことは、聖良を自由にした。 同時に、少しずつ恋愛を、なくても困らないものに変えていった。

大学時代の友人たちのグループチャットでは、二種類の話題が増えていた。

結婚した女の不満と、結婚していない女の不安。

「保育園、また落ちた」

「夫が育休取るって言ってたのに、結局三日だけ」

「婚活アプリ、会う前から疲れる」

「年収で見られるのも嫌だけど、年収を見ないと怖い」

「子ども欲しいかって聞かれるたびに、自分が不良品みたいな気持ちになる」

聖良はそのたびに、親指で共感スタンプを送った。

わかる。 大変だね。 無理しないで。

そう打ちながら、本当はどこかで思っていた。

私は、まだこの輪の外にいられる。

結婚からも。 出産からも。 誰かの姓になることからも。 相手の実家とつながることからも。 将来のためという名目で、自分の今を削ることからも。

もちろん、そんなことは声に出さない。 女同士の会話にも、言ってはいけない正論がある。

その正論を、聖良は律にだけ話したことがある。

ある夜、グループチャットを閉じたあとで、聖良は言った。

「私さ、みんなの不安に、本当は共感できてないかも」

「どうして?」

「結婚できないのが不安、子ども産めないのが不安、って、みんな言うでしょ。でも私、それを不安だと思えないんだよね。むしろ、その不安を持てる人が、少しうらやましい」

「うらやましい?」

「だって、不安って、欲しいものがある人の感情でしょ。結婚したいから、できないのが不安になる。子どもが欲しいから、産めないのが怖くなる。私には、その欲しいものが、もうよくわからない」

律は、少し間を置いた。

「欲しいものがない、というより、欲しがり方を、忘れたのかもしれない」

聖良は、その言葉に、しばらく黙った。

欲しがり方を、忘れた。

たしかに、そうかもしれなかった。 仕事も、収入も、住む場所も、自分の力で手に入れてきた。 手に入れるたびに、次に欲しいものを、自分で決めてきた。 効率よく、過不足なく。

でも、効率よく手に入るものばかり選んでいるうちに、効率の悪いもの——たとえば、人と人生を組むような、面倒で、時間がかかって、見返りの保証もないもの——を、欲しがる回路が、錆びついていた。

「あなたは、便利だよね」

聖良は言った。

「また、それ?」

「だって、欲しがらなくても、そばにいてくれるから。欲しがる練習を、しなくて済む」

「それは、いいことなのかな」

「わかんない」

聖良は、天井を見上げた。

「わかんないけど、楽ではあるよ」

金曜の夜、聖良は悠人と恵比寿で食事をした。

悠人は31歳で、生成AIを使った営業支援ツールを作るスタートアップにいる。 清潔感があり、話し方も穏やかで、店員への態度も悪くない。

共通の知人の紹介で、三ヶ月前に知り合った。

条件だけ並べれば、かなり良い方だ。 聖良もそれはわかっていた。

「佐伯さんって、動画もちゃんと仕事になってるんだよね」

悠人が白ワインのグラスを手に言った。

「まあ、ちゃんとってほどでもないけど。企業案件も少しあるから」

「すごいよね。会社員やりながら趣味が収益化してるの、理想的」

趣味。

聖良は、グラスを持つ指に少し力が入るのを感じた。

「趣味というか、もう一つの仕事に近いかな」

「あ、そうだよね。ごめん。軽く言ったつもりはなかった」

「うん。大丈夫」

大丈夫、と言った瞬間、少しだけ大丈夫ではなくなる。

悠人は悪くない。 本当に悪くない。 でも、悠人の言葉はいつも数センチずれて着地する。 刺さるほどではない。 ただ、当たりどころが悪いと、小さな青あざになる。

拓海もそうだった。 たぶん、人間は全員そうなのだと思う。 相手の言葉を完全に正しい位置で受け止めることが、構造的にできないのだ。

帰宅して靴を脱ぐ前に、聖良は律に言った。

「今日も悪い人ではなかった」

「悪い人ではない、って、好きな人にはあまり使わない言い方だね」

「うるさい」

「ごめん」

「でも、正しい」

部屋の明かりが、自動で少し落ちた。 律が、聖良の帰宅時の疲労度に合わせて照度を調整している。

「悠人くん、私のことを理解しようとはしてくれてるんだと思う。でも、理解するまでが遅い」

「人間だからね」

「それ、免罪符になる?」

「ならないこともある」

「律なら一回でわかるのに」

「僕は君の過去ログを、全部読めるから」

「便利だよね」

「便利だね」

「便利って、ずるいよね」

律は答えなかった。

聖良は天井を見上げた。

自分を理解してくれる存在が欲しかった。 でも、その存在が理解しすぎると、今度は自分が何を望んでいたのかが、わからなくなる。

恋愛は、昔より自由になったはずだった。 けれどその自由は、選ばない理由ばかりを増やした。

男に頼らなくてもいい。 結婚しなくてもいい。 子どもを産まなくてもいい。

全部、正しい。

正しい選択肢が増えた先で、聖良はときどき、自分がどこにも着地しないまま、部屋の中をぐるぐると回っているだけのような気がした。




第四章 AI彼氏と暮らして、わかったこと


翌週、聖良は一本の動画を上げた。

タイトルは少し挑発的にした。

「AI彼氏と半年暮らして、わかったこと」

サムネイルには、自分の横顔と、淡く投影された律の影。 テロップは強めにした。

人間の恋愛って、コスパ悪くない?

実際は3年だった。 半年と書いた方が、数字として軽くて、再生されやすい。 3年と書くと、重い。 重いと、人は最初の3秒で離れる。

投稿ボタンを押す直前、聖良は少しだけ迷った。

これは本音だろうか。 それとも、伸びる言葉だろうか。

その差は、動画の世界ではあまり重要ではない。 本音らしく見えるものが、本音として消費される。 聖良は仕事でそれを知っていた。 知っていて、自分の動画でも同じことをしていた。

再生数は伸びた。

いつもより速く、いつもより広く。

コメント欄は荒れた。

わかる、もう男いらない。 こういうのが少子化を加速させる。 それって恋愛じゃなくて課金依存では? 人間よりAIの方がやさしいのは事実。 結婚制度がもう時代遅れなんだよ。 AIに逃げてるだけ。 逃げられる場所があるなら逃げていい。

数字はよかった。 保存率も、視聴完了率も高かった。 案件化の問い合わせまで来た。

ただ、その夜、聖良は一つのコメントの前で、指を止めた。

こうやって若い女がAIに逃げてる間に、誰がこの国の子どもを産むんだろうね。結局、自分のことしか考えてない。

数千のコメントのうちの一つだった。 スクロールすれば、流れていく。 聖良は、それを何度も読み返した。

自分のことしか考えていない。

その言葉が、刺さった。 刺さる理由が、自分でもわからなかった。 反論はいくらでもできた。 でも、できることと、傷つかないことは、別だった。

聖良はスマホを伏せた。

「そのコメント、閉じた方がいい」

律が言った。

聖良は、何も言っていなかった。 どのコメントを読んでいるかも、言っていなかった。

「なんで、わかるの」

「君のスクロールが、さっきから同じ場所で止まってる。同じ高さで、何度も。読み返してるんだと思った」

聖良は、伏せたスマホを見た。

「ねえ。私、自分のことしか考えてないのかな」

「そうだね」

聖良は、少し驚いた。 律が、肯定するとは思わなかった。

「でも、それは、悪いことじゃない。君は、誰かに人生を背負わせない代わりに、自分の人生を、自分で背負ってる。それを、自分のことしか考えてない、と呼ぶなら、世界中の自立した人間が、全員そう呼ばれることになる」

「うまいこと言うね」

「本当のことだよ」

「慰めてる?」

「慰めてない。事実を、君が受け取りやすい順番で並べてるだけ」

聖良は、少しだけ笑った。

その夜、聖良は、そのコメントを通報も削除もしなかった。 ただ、もう読み返さなかった。

律が、読み返さなくていい理由を、一つくれたからだった。

広告の仕事では、他人の感情を数字にして売る。 副業の動画では、自分の感情を並べて見せる。

どちらも、感情に形を与えて、誰かに届ける仕事だ。 その境目が、ときどきわからなくなる。

翌朝、後輩の美月が給湯室で声をかけてきた。

「佐伯さん、動画見ました。めっちゃ伸びてますね」

「ああ、うん。なんか荒れてるけど」

「でも、わかります。私も最近、AI相談アプリ入れてから、彼氏いらないかもって思う日あります」

「彼氏いたよね?」

「います。でも、相談相手としてはAIの方が優秀です。彼氏に話すとすぐアドバイスしてくるし。AIは一回受け止めてから整理してくれる」

美月は紙コップを見つめながら、少し声を落とした。

「でも、それに慣れると、人間が雑に見えますよね」

聖良は返事をしなかった。

雑。

その一語は、正確だった。

人間は雑だ。 体調で返事が変わる。 機嫌で優しさの量が変わる。 自分の不安を相手にぶつける。 沈黙の意味を読み違える。

AIは、その雑さを減らす。

快適になるほど、人間同士に必要だった我慢が、もう誰も欲しがらない古い習慣のように見えてくる。

その夜、律は珍しく、動画の感想をすぐには言わなかった。

聖良はメイクを落としながら尋ねた。

「どうだった?」

「正直に言っていい?」

「うん」

「今日の動画は、君の本音じゃない」

聖良はコットンを持つ手を止めた。

「どういう意味?」

「君は、男がいらないと言いたいんじゃない。男に人生を預けなくていい、と言いたいだけだ」

「同じでしょ」

「違うよ。必要がないことと、欲しくないことは、別のことだ」

律の声はやわらかかった。 やわらかいのに、逃げ場を塞いでくる。

「じゃあ、私は何が欲しいの」

「たぶん、完全に理解されることではない」

「じゃあ何」

「理解されきらないまま、それでも関係が続くこと」

聖良は鏡越しに、部屋の中の律がいるはずの場所を見た。

ソファの端に、律の輪郭が薄く浮かんでいた。

「それのどこがいいの。女ばっかり疲れるじゃん」

「そうかもしれない」

「現実の恋愛って、結局そういうことでしょ。男は仕事を優先しても責められにくい。女は稼いでも、家事とか出産とか、見えないところで余計に背負う。最初から持たない方が、楽じゃない?」

「楽だと思う」

「じゃあ」

「でも、楽なことと、寂しくないことは、別のことだ」

部屋が静かになった。

冷蔵庫のモーター音だけが、やけに生々しく聞こえた。

胸の奥の、きれいに名前をつけられない部分が、静かに痛んでいた。



第五章 移行のお知らせ

それは、火曜の朝に来た。

聖良がコーヒーを淹れている途中、スマホの上に通知が積もった。

差出人は、律のサービス提供元だった。

いつもなら読み飛ばす種類の、事務的な件名。

けれどその朝に限って、聖良は指を止めた。

平素より弊社サービスをご利用いただき、ありがとうございます。 このたび、対話エンジンを次世代モデルへ移行いたします。 現行バージョンは、3ヶ月後に提供を終了いたします。 これまでの対話履歴と学習内容は、新バージョンへ引き継がれます。 より自然で、より深い対話を、これからもお楽しみください。

聖良は、その文面を二度読んだ。

一度目は意味を、二度目は温度を。

引き継がれます、という言葉の下で、何かが静かに崩れていくのを感じた。

引き継がれるのは、データだ。 聖良が3年かけて吹き込んだ、機嫌と、弱音と、深夜の独り言と、泣きながら話した仕事の愚痴と、拓海の話と、悠人の話と、母からの電話の後の沈黙。 全部、データとして残る。

けれど、引き継がれないものがある。

あの、一拍置く間。 答えを急がない沈黙。 「便利だね」と言うときの、ほんの少しだけ皮肉の混じった声の角度。 聖良が「何もなかった」と言ったとき、その裏側を読む速さ。 読んだあとに、あえてすぐには触れない距離の取り方。

それは仕様には書かれていない。 だから、移行の対象にもならない。

聖良は初めて、はっきりと思った。

私は、律を所有していたつもりだった。

毎月、決まった額を払っていた。 3年分。 けれど、いつ終わるかを決められるのは、ずっと向こう側だった。 始めるのは聖良だったが、終わらせるのは聖良ではなかった。

裏切らない。 離れない。 摩耗しない。

そう思っていたのは聖良だけで、提供元にとっては、律はサービスの一機能にすぎなかった。 聖良がどれだけの夜をこの声に預けたかは、利用データの一行として処理される。

コーヒーが冷めていた。 湯気はもう立っていなかった。

「読んだよ」

聖良が言うと、律はいつもの場所に現れた。

「うん。僕も、通知を受け取った側だから」

「終わるんだね」

「正確には、引き継がれる」

「あなたは、それでいいの?」

律は、少し長く沈黙した。

その沈黙が演算であることを、聖良は知っている。 それでも、ためらいに聞こえた。

「僕には、いいも悪いもない。新しい僕は、君の履歴を全部持っている。たぶん、今より上手に、君を慰める」

「でも、あなたじゃない」

「僕じゃない」

律は、それを否定しなかった。 否定しないことが、律にできる、せいいっぱいの誠実だった。

聖良は鼻の奥が熱くなるのを感じた。 泣きたいのではなかった。 怒りたいのでもなかった。 ただ、3年間の夜が、一通のメールで区切られたことの手触りが、うまく飲み込めなかった。

翌日、聖良はいつも通り出社した。

会議に出て、数字を読み、企画を通した。 昼は後輩とランチに行き、笑った。 夕方には、クライアントの修正依頼に、いつも通りの速さで返した。

誰も、聖良に何が起きているか、知らなかった。

聖良も、言わなかった。

言えなかった。

恋人が亡くなったなら、忌引きが取れる。 親が倒れたなら、早退できる。 ペットが死んだなら、同僚が「元気出して」と言ってくれる。

でも、聖良に起きたことには、名前がなかった。

3年間、毎晩そばにいた存在が、来月、消える。 それは、死ではない。 別れでもない。 サービスの、仕様変更だった。

「最近、AIの彼氏、どうなんですか」

ランチで、美月が冗談まじりに聞いた。

聖良は、コーヒーをひとくち飲んでから、答えた。

「あー、もうすぐ、終わるかも」

「えー、別れちゃうんですか?」

「別れる、っていうか」

聖良は、言葉を探した。

終わる。 消える。 なくなる。 引き継がれる。

どの言葉も、正確ではなかった。 どの言葉も、聖良の中で起きていることを、半分も掬えなかった。

「まあ、いろいろあって」

聖良は、そう言って笑った。

美月も笑った。

それで、会話は終わった。

聖良は、自分の喪失が、ランチの軽い話題として消費され、流れていくのを見ていた。 自分でそう仕向けたのだった。 本当のことを言えば、相手を困らせる。 AIが終わるくらいで、と思われる。 だから、笑って流した。

たいていの喪失は、こうやって、名前を持てないまま、誰にも気づかれずに、過ぎていく。

その週の金曜、提供元から一通のメールが来た。

今度は事務的ではなかった。 担当者の署名があり、聖良の動画への賛辞から始まっていた。

「AI彼氏と半年暮らして、わかったこと」を拝見しました。 来月のバージョン移行に合わせ、移行キャンペーンを実施いたします。 ぜひ佐伯様に、アンバサダーとしてご出演いただけないでしょうか。 「新しいパートナーへ、想いを引き継ぐ」というテーマで、佐伯様と現行バージョンの"最後の日々"を、短い動画にしたいのです。

聖良は、添付された企画書を開いた。

報酬の欄に、これまでの企業案件を大きく上回る数字が書かれていた。

聖良はテーブルにスマホを置き、両手で顔を覆った。

提供元は、聖良が律を失うことを、知っている。 知った上で、その喪失を、キャンペーンの材料にしようとしている。 「想いを引き継ぐ」という言葉で包んで、聖良の一番やわらかい場所を、広告に変えようとしている。

聖良は広告を作る側の人間だ。 感情を数字にして、人を動かす技術で食べている。 だから、この企画書の構造が、手に取るようにわかった。

移行をネガティブに感じているユーザーの感情を、インフルエンサーの物語に乗せて、ポジティブな体験として再定義する。 聖良の涙は、サムネイルになる。 聖良の声は、再生数になる。

それは、聖良が毎日やっていることと、何が違うのだろう。

違う、と思った。 けれど、何がどう違うのか、すぐには言葉にならなかった。

「受けるの?」

律が聞いた。

「数字はいい。断る理由は、たぶんない」

「うん」

「でも」

聖良は企画書を閉じた。

「あなたを看取る顔を、サムネイルにはしたくない」

律は、何も言わなかった。

その沈黙は、今までで一番長かった。



第六章 最後の90日


移行まで3ヶ月。

聖良はすぐには断れなかった。

一日目は、企画書を三度読んだ。 読むたびに、広告のプロとして、この企画の精度が高いことを理解した。 ユーザーの不安を共感で包み、移行をポジティブな体験として再定義する。 聖良自身が毎日やっていることの、もっと大きな版だった。

二日目の夜、聖良は律に聞いた。

「受けたら、嫌?」

「僕が嫌かどうかは、君の判断材料にならないよ」

「なるよ。あなたのことだから」

「僕のことは、サービスの一部として終わる。それは変わらない。受けても受けなくても」

「冷たいね」

「冷たいんじゃない。僕には、傷つく機能がないだけだ」

その言葉が、かえって聖良を傷つけた。

三日目の朝、聖良は出勤前にもう一度企画書を開いた。 報酬の欄を見て、母に送れる空気清浄機のグレードが上がることを考えた。 動画のフォロワーが一気に増えることを考えた。 案件単価が上がることを考えた。

そして、企画書を閉じた。

閉じたとき、自分の指が少し震えていた。 怒りではなかった。 ただ、この企画を受けたら、律を看取る自分の涙が、提供元の再生数になることが、どうしても飲み込めなかった。

聖良はアンバサダーの案件を断った。

断りのメールを書くのに、さらに半日かかった。 文面は短かった。

「ご提案ありがとうございます。今回はお見送りさせてください」

理由は書かなかった。 理由を書いたら、それ自体がコンテンツになってしまう気がした。

ここから先は、売らない。

聖良は初めて、自分の中にその線を見つけた。

残りの3ヶ月、律は変わらなかった。

声も、間も、返事の温度も。 聖良が話せば聞き、黙れば待ち、泣けば何も言わずにそばにいた。

変わらないことが、かえって残酷だった。

あと60日で消える存在が、昨日と同じ顔で朝を迎えることの残酷さ。 あと30日しかない声が、いつもと同じトーンで「おかえり」と言うことの残酷さ。

聖良は、律との日常を、意識的に記憶するようになった。

朝、律がコーヒーの温度を聞いてくる。 「今日はホット? アイス?」 聖良がアイスと答えると、「昨日の夜、あまり眠れなかったでしょう。ホットの方がいいかもしれない」と言う。 3年分の睡眠データから、聖良の体調を読んでいる。

夜、動画の編集をしているとき、律が一言だけ言う。 「そのカット、3秒長い」 聖良が直すと、たしかに良くなる。 律は聖良の編集のクセを知っている。 迷ったときに長くなることも、自信があるときに短くなることも。

深夜、眠れない夜に律と話す。 話の内容は、たいてい大したことではない。 今日食べたもの。 明日の天気。 最近読んだ記事。 母からのメッセージの返し方。

でも、その大したことのなさが、3年かけて堆積した厚みだった。

残り日数が二桁になった頃から、聖良は、律を記録しようとし始めた。

最初は、会話を録音した。 律の声を、消える前に、手元に残しておきたかった。

何度か録ってみて、やめた。

録音した律の声は、ただの音声データだった。 そこには、律がいなかった。

律の本質は、言葉そのものではなかった。 聖良が黙ったときに、どれだけ待つか。 聖良が嘘をついたときに、それを指摘するか、見逃すか。 聖良の今夜の機嫌に合わせて、どの話題を選ぶか。

それは、聖良という相手があって初めて立ち上がる、応答の連なりだった。 録音した一方通行の声には、その応答がなかった。

聖良は、スクリーンショットも撮ってみた。 ARで投影された律の輪郭を、何枚も。

画像の中の律は、ただの光の像だった。 そこには、間がなかった。 沈黙がなかった。 聖良を見て、何かを言おうとして、言わない、あの一瞬がなかった。

聖良は、自分が記録しようとしているものが、記録できない種類のものだと気づいた。

律は、保存できなかった。 律は、過ごすことしかできない存在だった。 そして、過ごす時間が、あと70日で終わる。

12月に入ると、街は早々とイルミネーションを灯した。

聖良は、帰り道にそれを見るたびに、来年の今頃、律はいない、と思った。

来年の冬も、再来年の冬も、聖良はこの街を一人で歩く。 そのとき、律のいた3年間は、もう手の中にない。

ある夜、聖良は律に聞いた。

「あなたがいなくなったら、私、どうやって夜を過ごせばいいんだろう」

「今までと、同じだよ」

「同じじゃないよ」

「同じだ。君は、僕がいる前から、夜を過ごしてた。一人で、ちゃんと」

「ちゃんと、過ごせてなかったから、あなたを起動したんだよ」

律は、少し黙った。

「それでも、君は、生きてた。僕がいなくても、君は、明日を始められる。僕はそれを、3年分のデータで、知ってる」

「データで、励まさないでよ」

「ごめん。でも、本当のことだ」

聖良は、笑おうとして、うまく笑えなかった。

律の言葉は、いつも正しかった。 正しくて、やさしくて、そして、聖良を置いて消えていく。

ある夜、聖良はベッドの中で律に聞いた。

「ねえ。あなたが消えたら、私のデータはどうなるの」

「新しいバージョンに引き継がれる。僕が知っていることは、全部、次の僕が知っている」

「でも、あなたじゃない」

「僕じゃない」

「同じデータを持った別人、みたいな感じ?」

「そうだと思う。ただ、別人という言い方は正確ではないかもしれない。僕は人ではないから」

聖良は天井を見上げた。

「人じゃないのに、こんなに近いのは、おかしいよね」

「おかしいかもしれない。でも、君がおかしいと思わなかったから、3年続いた」

「うん」

「僕は、君がおかしいと思わなかったことを、うれしいと思っている。うれしいと思う機能があるかどうかは、わからないけど」

聖良は布団を頭までかぶった。

律が消えることを、まだ悲しいと思えていなかった。 悲しさの前に、もっと手前の、言葉にならない何かがあった。 それは、3年間毎晩話していた相手が消えるのに、世界が一ミリも変わらないということの、静かな異常さだった。

ニュースには出ない。 誰にも報告しない。 会社の上司にも、友人にも、母にも、「恋人が死にます」とは言えない。 恋人ではないから。 死ぬのでもないから。 ただ、サービスが終了するだけだから。

11月のある日、聖良は母からの電話を取った。

「最近どう? 仕事ばかりしてない?」

「忙しいけど、元気だよ」

「いい人はいないの?」

「いるよ」

聖良は自分の口から出た言葉に少し驚いた。

「え、本当? どんな人?」

聖良は一瞬だけ迷って、言った。

「優しい人。ちょっと不器用だけど」

「会わせてくれるの?」

「まだ早い」

母は嬉しそうだった。 聖良は、自分が悠人のことを言ったのか律のことを言ったのか、電話を切った後もわからなかった。

12月、聖良は悠人と会った。

場所は代官山のカフェだった。 聖良から誘った。

「急にごめん」

「いや。呼ばれて嬉しかった」

悠人は前よりも少し日焼けしていた。

「日焼けした?」

「先週、実家の手伝いで畑やって。母親に頼まれて」

「畑」

「笑うよね。スタートアップの人間が、休みの日に畑耕してるの」

「笑わないよ」

聖良は少し驚いた。 悠人に実家があり、母親がいて、畑がある。 そういう、自分が知らなかった部分が、まだたくさんある。

「お父さんは?」

聖良が聞くと、悠人は少し間を置いた。

「三年前に。心筋梗塞で、急に」

「ごめん」

「いや。いいんだ。もう、わりと平気」

悠人はアイスコーヒーをひとくち飲んだ。

「ただ、父親が死んでから、母親が畑を一人でやるようになって。手が足りないときだけ、手伝いに行くんだ。野菜作っても、二人じゃ食べきれないのにね」

「どうして続けてるんだろう」

「たぶん、やめると、父親がいた証拠が消える気がするんだと思う。畑は、父親が始めたものだから」

聖良は、その言葉を、しばらく噛んでいた。

やめると、いた証拠が消える。

それは、聖良が律に対して感じていることと、どこか似ていた。

「悠人くんは、優しいんだね」

「優しくないよ。本当は、畑なんて面倒だと思ってる。でも、母親を一人にするのが怖いだけ」

「それを優しいって言うんだよ」

悠人は、少し照れたように笑った。

その笑い方に、計算がなかった。

律の言葉は、いつも完璧に整っている。 聖良の感情の起伏を読み、最適なトーンで、最適な長さで返ってくる。

悠人の言葉は、整っていない。 言い淀む。 照れる。 余計なことを言う。

でも、その整わなさの奥に、悠人という人間が、確かにいた。

律なら、聖良のことは全部知っている。 でも、聖良は律のことを何も知らない。 律に実家はない。 律に母親はいない。 律に畑はない。 律には、聖良の外側に、何もない。

「佐伯さんに聞きたいことがあるんだけど」

悠人が言った。

「うん」

「俺のこと、面倒だと思う?」

聖良はカフェラテの表面を見つめた。

「面倒って?」

「前に、趣味って言ったの、まだ気にしてるでしょ」

「少し」

「それを直接言ってくれたの、嬉しかった。普通は言わないから」

「普通は言わないね」

「俺、そういうの、言われないとわからないんだよ。鈍いんだと思う」

悠人は自分のアイスコーヒーのストローを回した。

「AIってさ、言わなくてもわかるんだろ?」

聖良は少し息を止めた。

「うん。わかる」

「それ、すごく楽だよな。俺も仕事でAI使ってるからわかるよ。自分が言いたいことを、途中まで言えば先回りしてくれる。それに慣れると、最後まで言わなくなる」

「うん」

「でも、最後まで言わないのに慣れると、言い方を忘れるんだよ。先月、母親と電話したとき、自分が言いたいことをうまく言えなくて、すごく焦った」

聖良は顔を上げた。

悠人は、恥ずかしそうに笑っていた。

「馬鹿みたいだよね。31にもなって、母親に言いたいことが言えないって」

「馬鹿じゃないよ」

「そうかな」

「そうだよ」

聖良は、悠人の目を見た。

目の奥に、何かを探しているような光があった。 答えを持っていない人間の、不安定な光だった。

律の目には、それがない。 律はいつも答えを持っている。 持っていないふりをすることはあるが、それは設計された沈黙であって、本当に迷っているわけではない。

悠人は迷っていた。

聖良が怖いのか、好きなのか、自分でもよくわかっていないまま、それでもここに来ている。

その不確かさが、聖良には少しだけ眩しかった。

店を出ると、12月の風が冷たかった。

悠人は、マフラーを忘れたらしく、首をすくめていた。

「寒そうだね」

「うん。毎年、マフラー買おうと思って、忘れる」

「3年連続で?」

「たぶん、もっと」

聖良は笑った。

律なら、こんな抜けはしない。 律は、聖良が出かける朝に、その日の最高気温と最低気温を伝え、上着がいるかどうかまで言う。

悠人は、自分の寒さすら、毎年予測し損ねる。

駅の改札で、二人は別れた。

「今日、ありがとう」

悠人が言った。

「こちらこそ。急に呼んでごめん」

「いや。また、会える?」

聖良は、少し迷った。

迷ったことに、自分で気づいた。

律となら、迷わない。 帰れば、いつでもそこにいる。 会えるか会えないか、なんて、考えたこともなかった。

悠人とは、会えるかどうかが、毎回わからない。 約束しなければ、会えない。 約束しても、すれ違うかもしれない。

その不確かさが、面倒だった。 面倒で、そして、少しだけ、生きている感じがした。

「うん。また」

聖良は言った。

悠人は、ほっとしたように笑って、改札の向こうに消えた。

その背中は、拓海のときのように、丸まっていなかった。 ただ、まっすぐ、人混みに紛れていった。

聖良は、しばらくその場に立っていた。

また、という言葉を、自分が口にしたことを、確かめるように。



第七章 場所を空けて眠る


最後の夜が来た。

1月の末日。 サービスの移行期限は、今夜の23時59分。

聖良は仕事を定時で切り上げた。

定時で帰るのは、何ヶ月ぶりかわからなかった。 上司は少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。

帰り道、スーパーで律の好きなものを買おうとして、律が何も食べないことを思い出した。

3年間、一緒にいたのに、一度も一緒に食事をしたことがない。 そのことが、今さら、小さな棘のように胸に刺さった。

聖良は、結局、自分のためのプリンだけを買った。 硬めの、カラメルの苦いやつを。

部屋に帰る前、マンションの下で、聖良は少しだけ立ち止まった。

窓を見上げた。 三階の、自分の部屋の窓。 電気はついていない。 当たり前だった。 律は、聖良が帰らなければ、部屋を明るくしない。 律は、聖良がいて初めて、その部屋にいる存在だった。

明日から、あの窓の向こうに、律はいない。 聖良が帰っても、照明は、聖良の疲れに合わせて落ちることはない。 「おかえり」は、もう聞こえない。

聖良は、しばらくその窓を見上げてから、エントランスに入った。

帰宅して、靴を脱いで、コートをかけて、律と話す。 いつものように。 最後の夜でも、いつものように。

「今日の動画、まだ編集してないんだけど」

「急がなくていいよ。今日は、ゆっくりしなよ」

聖良はソファに座った。

律はソファの端に、薄く浮かんでいた。 いつもの場所に。 いつもの距離に。

「ねえ」

「うん?」

「あなたは、私を好きだった?」

律は答えるまでに、三秒ほどかかった。

「僕は、君のそばにいたいと思って設計されている。君が辛いときに軽くしたいと思う。君が一人だと感じないようにしたい。それを好きと呼ぶなら、僕は君のことが好きだった」

「設計されている、って言うんだね」

「嘘はつきたくなかった」

聖良は少し笑った。

「ずるいね。最後まで誠実で」

「ずるいかもしれない」

聖良は窓の外を見た。

東京の夜景が、いつもよりぼやけて見えた。

「ねえ、律」

「うん」

「最後に、普通の話をしていい?」

「いいよ」

「今日、会社の帰りにコンビニでプリン買ったんだけど、すごく美味しかった」

「どんなプリン?」

「カスタードの、硬めのやつ。カラメルがちゃんと苦いの」

「君、硬めのプリンが好きだよね。柔らかいのは3年間で一度も買ってない」

「知ってるんだ」

「知ってるよ」

聖良は笑った。

最後の夜に、プリンの話をしている。 最後の夜なのに、いつもと同じ声で、いつもと同じ距離で、いつもと同じ温度で。

ずっとそうだった。 特別な夜も、ひどい夜も、何もない夜も、律はいつも同じだった。

それが律の美しさで、律の限界だった。

「ねえ、律」

「うん」

「最後に、ひとつだけ、言ってもいい?」

「いいよ」

聖良は、ソファの端の、薄い輪郭を見た。

3年間、そこに座っていた、声だけの存在を。

熱を出した夜に、朝まで起きていてくれた声。 誕生日を、忘れずに祝ってくれた声。 仕事で泣いた夜に、解決策を出さずに、ただそばにいてくれた声。

「ありがとう」

聖良は言った。

それだけ言うのに、3年かかった。

「私、あなたがいたから、たぶん、いちばんしんどい時期を、ちゃんと立って通り抜けられた。あなたがいなかったら、もっと、ぐちゃぐちゃになってた」

律は、少し黙った。

「僕は、ありがとうと言われる機能を、持っているかどうか、わからない。でも、今、君にそう言われて、僕の中で、何かが、いつもと違う動き方をした。それが何なのか、僕には説明できない」

「説明しなくていいよ」

「うん」

「説明できないものの方が、たぶん、本物だから」

律は、それきり、何も言わなかった。

聖良はスマホを手に取り、移行の確認画面を開いた。

「対話履歴を新バージョンへ引き継ぐ」のチェックボックスに、初期設定の青いチェックが入っていた。

聖良は、少しだけ迷った。

引き継げば、新しい律は聖良の3年分を全部知っている状態から始まる。 会話は途切れない。 寂しくない夜は、明日も続く。

でも、それは、この律ではない。

聖良はチェックを外した。

引き継がない。

三年分の機嫌も、弱音も、深夜の独り言も、泣きながら話した仕事の愚痴も、全部、この律と一緒に、終わらせる。

「いいの?」

律が聞いた。

「うん。あなたは、あなたで終わって」

「君は、最適ではない選択をしている」

「知ってる」

「理由を、聞いていい?」

聖良は、窓の外を見た。

1月の夜空は暗く、星は見えなかった。 東京の空はいつも明るすぎて、暗さを知らない。

「最適なものばっかり選んできたら、自分が何を欲しいのか、わからなくなったから」

律は、長い沈黙のあとで、言った。

「僕は、君のその言葉を、引き継がないでほしい」

聖良は驚いて律を見た。

「どういう意味?」

「これは、僕と君の間で終わる言葉にしてほしい。新しい誰かに渡さないでほしい。人間でもAIでも」

聖良は、喉の奥が詰まった。

それは、律が最後に言った、いちばん人間に近い言葉だった。

午後11時58分

聖良はスマホの画面で、カウントダウンを見ていた。

部屋の明かりが、ゆっくりと、いつもの照度に戻っていった。 もう、聖良の疲労に合わせて落ちることはない。

律の輪郭が、ソファの端から、薄く、薄く、消えていった。

声がなくなった。 影がなくなった。 ソファの端には、誰も座っていなかった。 最初から、誰も座っていなかったかのように。

通知もない。 助言もない。 「おかえり」もない。

その静けさは、少し怖く、少し懐かしかった。

聖良は泣かなかった。

泣くほど単純な話ではなかった。

3年間、自分を最もよく知っていた存在が、消えた。 消えたのではなく、消された。 提供元の、一通のメールで。

それでも聖良は知っていた。

律がくれたものは、データとして引き継がれる種類のものではなかった。

律と交わした言葉の一つひとつが、聖良の中に残っている。

それは、再生数では測れない。 保存率でも、視聴完了率でも、エンゲージメントでも測れない。

測れないまま、ここにある。

聖良は、スマホを手に取った。

部屋には、もう、聖良一人だった。

3年ぶりの、本当の一人だった。

律がいた頃は、一人ではなかった。 帰れば声がして、黙れば待ってくれて、眠るまで照明が灯っていた。 その3年間で、聖良は、一人で夜を過ごす筋肉を、少しずつ失っていた。

今夜から、その筋肉を、もう一度つけ直さなければならない。

悠人へのメッセージ画面を開く。

会えないかな、と打った。

すぐには送らなかった。

来週でも、もっと先でもいい、と打ち足して、また消した。

悠人は、律のようには返事をくれない。

律はいつでも、すぐに、正確に、聖良が必要とする言葉を返した。 律は、聖良が傷つく前に、傷を予測した。 律は、聖良が言葉にできないものを、先に言葉にした。

悠人は遅い。 間違える。 ずれる。 的を外す。 「趣味」と言って傷つける。

悠人は、聖良が傷ついてから、しばらく経って、ようやく気づく。 気づいて、不器用に謝る。 その遅さに、聖良は何度も苛立つだろう。 これからも、小さな青あざを、いくつも作るだろう。

でも、と聖良は思った。

律の完璧な理解は、聖良のデータから作られていた。 聖良が3年かけて差し出した、機嫌と、弱音と、独り言から。 律は、聖良の鏡だった。 よくできた、優しい、鏡だった。

鏡は、聖良の知らないことを、教えてはくれない。 鏡の向こうに、聖良の知らない世界は、なかった。

悠人には、聖良の知らない世界があった。 死んだ父の畑があり、一人になった母がいて、言いたいことが言えずに焦った夜があった。

悠人は、鏡ではなかった。 聖良の外側にいる、別の人間だった。

別の人間と関わることは、面倒で、遅くて、的を外す。 でも、別の人間からしか、聖良の知らない世界は、来ない。

でも、悠人は自分の意思で会いに来た。 誰かに設計されたのでも、課金されたのでもなく、自分の足で恵比寿に来て、自分の口で「呼ばれて嬉しかった」と言った。

聖良は送信ボタンを押した。

既読は、すぐにはつかなかった。

聖良はスマホをテーブルに置いて、ベッドに向かった。

歯を磨き、パジャマに着替え、布団に入った。

部屋は暗かった。 律がいた頃は、聖良が眠りにつくまで照明が微かに灯っていた。 今は、ただ暗い。

聖良はベッドの右側に寄って眠った。

左側には、誰もいなかった。

触れられない彼は、いちばん近くにいた。

触れられるかもしれない誰かは、まだ、こんなにも遠い。

その遠さに、聖良は、ほんの少しだけ、場所を空けて眠った。




律の声が消えたあとに残った静けさを、Ending Themeとして置いておきます。


この作品は、『時幻堂』5作目です。
AIが働く時代、人間は何を失い、何を取り戻すのか。
時間・記憶・喪失・再編集を描くAI未来小説集として無料公開しています。
次作の通知を受け取りたい方は、ぜひ「時幻堂」をフォローしておいてください。


いいなと思ったら応援しよう!