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幸せってなんだろうね

僕は小さい頃死ぬのが怖かった。
自分という存在が死んだ後、これまで過ごしてきた日々や人々と別れ、意識だけがあって何もできない無限の日々がやってくる。
なんでかわからないがそんな風に考えていた。
そんな事を考えて泣いて眠れずにいると、決まって母親が大丈夫だよと言いながら背中をさすってくれた。
今考えると、その言葉には何の説得力もない。
だが、ひどく安心して眠りにつけた事を覚えている。

誕生から三十年以上過ぎた現在。
「死」が怖いかと言われれば、そりゃ死にたくはないが、幼少期ほどの恐怖は感じていない。
妻や子供もいるし、会社もあるのに何故だろう。
一つは、それなりに死別に触れてきたからかもしれない。

僕にとって一番最初の衝撃的な死別は母方の祖父だ。
お酒が大好きで、ガンになってドクターストップがかかっても酒を飲む事を辞めなかった。
小さい僕を連れ出して、友人宅をはしごしながら飲むほどに酒が好きな人だった。
葬式の時、坊さんはお経を丁寧にあげた後、祖父との思い出話をした。
内容はほとんど酒の事だった。
そんな祖父が嫌だったかというとそうではなく、むしろ大好きと言えるくらいに僕はお爺ちゃんっ子だった。

祖父との思い出はたくさんある。
休みの日に当時ポケモンが好きだった僕を乗せて、鹿児島空港まで連れて行ってくれ、ポケモンのラッピングがされた飛行機を一緒に見たこと。

お母さんには内緒だよと言いながらお小遣いをくれ、そのお金でオモチャを買ったら母親から
「あんたそれどうしたの?どっかから盗ってきてないよね?!」
と疑われたが祖父との約束があったので黙秘していたら大事になってしまったこと。

まだ5歳の僕に鳥刺しを食べさせているところを祖母に見つかり、鬼のような形相の祖母に怒られていたこと。

ガンで弱っていく祖父をお見舞いに行くと、どんな時でも笑顔でよく来たねと迎えてくれたこと。

祖父は僕によく、
「お前が産まれてくれた日のことは忘れない。
本当に嬉しくって可愛くって。だから、何か嫌な事があった爺ちゃんの所に来なさい。」
と言ってくれていたこと。

そんな大好きな祖父が亡くなったのは僕が小学四年生の頃。61歳という若さでの死去だった。
もうそろそろ危ないという連絡が病院から来て、
家族全員で病院へ向かった。
その時父はまだ仕事で、母親の運転だった。
助手席の僕は涙を堪えながら運転する母親を見ても、まだ現実を理解してはいなかった。
病院について祖父を見ると、最早呼吸をするのも苦しそうで、その祖父の姿を見た時に急に世界が真っ暗になり、耐えきれず僕は車に逃げ込んだ。

祖父がいなくなるんだ。急にやってきた現実はどうしようもなく、自分の心臓の音が聞こえるほどの静寂を感じた。
僕は不思議と泣けなかった。まだ受け入れられていなかったのかもしれない。
何時間経ったか、あるいは数分だったのか。
父親が車まで迎えに来た。
「爺ちゃん亡くなったからお別れの挨拶をしなさい」
父親に連れられて病室に戻ると、眠るように死んでいる祖父がいた。
ベッド脇には祖父にしがみつきながら泣く母親と伯母。
妹たちはよくわからないながらも静かにそれを見つめていた。
僕は無意識に祖父の手を握っていた。
その瞬間に涙が止まらず、泣き疲れて眠りについた。

祖父の葬儀にはかつての仕事仲間や親族、ご近所さん等たくさんの人が参列してくれた。
みんな涙を流しながらも、良い人だったと口々に言っていた。
坊さんの話でみんなが笑い、それぞれが結局お酒が好きだったよねという話をして盛り上がっていた。
きっと祖父は幸せだった。
僕もこういう風に死ねたらなと思った。

二番目に衝撃を受けたのは父方の祖母の葬式。
僕の父親は祖母とは長い事疎遠になっていた。
父親は鬱病だった。
高卒で公務員。まだ時代は学歴を重視していて、自分より仕事をしない大卒がドンドン出世していくことや、正しい正しくないではなく、上司が言ったらそれが白になることに心を病んでしまった。
僕が小学五年生の頃、父親は休職して病院に入院した。
母親と僕たち兄弟だけの生活はそこから約一年続いた。
お見舞いで訪れたある日、僕は父親に「頑張ってよくなってね」と言った。
帰りに母親に
「お父さんに頑張れって言っちゃいけないよ。
お父さんは頑張って頑張り過ぎたから今入院しているんだよ。」
と言われた事を覚えている。
週末はお見舞いに行って、父親とキャッチボールをしたり、学校のことを話したりした。
正直、僕は父親が嫌いだった。
すごく厳しい人だったから。
だからか、弱っている父親を見るのも凄く嫌だった。

とある晩、ふと目が覚めてキッチンに行くと母親が泣いていた。
なんとなく、見てはいけないものを見た気がした。
僕は気づかれないように寝室に戻った。
当時の僕はまだ五年生、二つ下と六つ下に妹がいた。
きっと母親が抱える不安は物凄かっただろう。
でも、母親が泣いている姿を見るのは祖父の葬式ぶりのことだったのでひどく動揺した。
僕がしっかりしないといけない。
強くそう思った事を昨日の事のように覚えている。

休職から二年後、父親は職場復帰した。
僕は中学生になっていた。
この頃になると、父親方の親族との繋がりはかなり薄くなっていた。
父親は親族と会いたがらなかったのである。
今になって思えば、きっと父親も一杯一杯だったのだろう。

祖母と家族で会わなくなった以降も、僕は自転車で祖母宅へ泊まりに行っていた。
祖母宅は鹿児島の中でも自然豊かな所にあり、山から引いた水が凄く冷たくて、そこで冷やしたスイカやラムネは夏の楽しみの一つだった。
祖母は僕に気を遣ってか、父親の話題を出す事はあまりなかった。
たまに、元気にしているけ?と聞いて、
元気だよと答えるとああ、そうねと笑っていた。

祖母はずっと畑仕事をしていたこともあり、身体が丈夫だった。
七十歳を超えても原付バイクに乗ってゲートボールをしに行ったり、街まで買い物に出かけたりしていた。
そんな祖母はある日トラックとの衝突事故を起こした。
祖母は約10m飛ばされたが、落下したのが田んぼだったこともあり、左脚の複雑骨折だけで命に別状はなかった。
しかし、その事故から歩くのが困難になった。
それでも、僕が遊びに行くとまるでペンギンのような歩幅でこっちへ来て、「何飲むね?」と必ず聞いてくれた。流石に僕が自分でお茶を注いでいたけど。

祖母はそんな状態でも、介護認定を受けるのを嫌がった。
自分なんかではなく、もっと必要な人がいると言って。
足が悪くなった後も畑に出ることは辞めなかった。
そんな祖母でも、やはり満足に動けなくなる日がやってきて、施設にお世話になる事になった。
施設に入ると祖母はみるみる痩せて、耳も聴こえが悪くなっていった。
施設に入って二年目、祖母は肺炎となり、それが死因となって亡くなった。

祖母の葬式は親族だけのこじんまりとしたものだった。
と言っても、祖母も僕の父親も兄弟が多かったので50人以上は参列してくれた。
通夜の線香の番は僕と従兄弟が担当した。
僕の父親は来なかった。
長い事親族と会っていないという自責の念があったのだろうと思う。
父親は僕に祖父とのお別れの時間を作ってくれたのに、
僕は父親に祖母とのお別れをさせてあげられなかった。
僕の人生において一番大きな後悔の一つだ。

祖母は幸せだったんだろうか。
祖父ほどに確信を持ってそうとは言えない。

僕もいずれ死ぬ。
誰しもが当然のようにその瞬間が来る。
これまでたくさんの葬儀に参列させて頂いた。
どの葬儀も別れを惜しんだ参列者が口々に故人の話をしていた。
僕の葬儀で妻は、子供たちは何を感じるんだろうか。
そこではどんな話が繰り広げられるんだろうか。
その時まで僕は、働いているのだろうか。
死ぬその日まで、それがいつ来るのかはわからない。
でも、出来ればみんなに笑ってもらえるような関わり方をしていたい。
祖父のように笑顔もあるような、ヘンテコな葬儀に憧れている。

僕は今、充分に幸せである。
仕事にも伴侶にも、子供たちにも恵まれたと思う。
だからこそ、悔いなく生きないと。
色々な人と向き合って、たくさんの物語を作ったら、
きっと僕の葬式も賑やかになるに違いない。
僕もお酒は大好きだ。これからもたくさん飲むと思う。
そんな僕を思い出して、クスッと笑えるような。
妻も子供たちもみんなが惜しんでくれるような。
そんな未来を思い描いて、僕は今を生きている。

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