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連載小説『PIERROTのうた』(6)PIERROTたちの部屋

待ちかねた秋野さんが手招きするのは、2階建て6戸のアパートの、1階の角部屋だった。大はしゃぎでドタドタ入っていく子どもたちの後ろから、忍び足で秋野さんの部屋に踏み入れた。このときの私は5歩ぐらい下がって、「すみません、保護者ですぅ」という心持ちで床を見つめていた。子どもというのはなぜ、他人の家に何の抵抗もなく入って行けるのだろう。彼らにとっては、この世界にまだ他人との境界線というものが存在していないのだ。初めて入る大好きなおじさんの家は遊園地のようなもので、ベッドもソファもアトラクションだった。私は突然よその星に連れてこられたみたいに、足元の床にぎこちなく乗っかってオドオドと周りを見渡した。顔面には、差し障りのない保護者の顔を貼り付けながら。

それにしても秋野さんの部屋は、びっくりするほど綺麗だった。2ヶ月前に引っ越してきたばかりだとしても、とても独り暮らしの老人男性の部屋には見えなかった。ダイニングキッチンの他に2部屋、向かって右側は寝室、左側がリビングになっていて、寝室のカーペットとカーテンはピンク色、リビングのカーペットとカーテンはブルーという、対照的な雰囲気になっていた。どちらも淡く可愛らしい色合いのカーテンは、少したるみを持たせてタッセルで留められており、外の光をやさしく受け入れていた。外から見ても、そのピンクとブルーのメルヘンチックなカーテンは目を引いた。ファブリック以外のインテリアはほぼ白または黒で統一されて、左右対称に整然と配置されていた。すべての生活用品が然るべきところにきちんと片付いていてなお、収納にゆとりが残されていた。どこにも埃ひとつ積もっておらず、クリアで清潔なビジネスホテルのようだった。洗剤か芳香剤なのか、部屋中が強い芳香で満たされていた。

「冷蔵庫と洗濯機は、二つで1万円で買ったのよ。リサイクルショップで。テーブルセットは2千円、食器棚も2千円、ガスコンロ3千円、ベッドは2500円、カラーボックスは1個500円だった。すごいでしょ。このガラスのセンターテーブルも500円だ。このソファとエアコンは時田さんからもらったからタダ。大西さんの前の運転手さん、覚えてるでしょ。テレビと電子レンジは家から持ってきたし。」

秋野さんは、つい最近苦労して出来上がったばかりの自分の城が、どれだけお金をかけずにできたかという自慢を嬉しそうに並べた。

「ここが汚れているのが大っ嫌いなの。」

と指さした台所のシンクは綺麗に拭き上げられ、排水口のゴミ受けもピカピカに洗われてシンクの上で乾かされていた。指さす中を覗くと、排水口の中もヌメリひとつなくピカピカ。主婦が一番突かれたくない場所に私は苦笑する。

そういえば月夜の電話でもふと本人が話題にしていたけれど、見回すと、秋野さんの部屋にはたくさんのPIERROTたちがいた。ベッド脇3段のコーナーボックスにそれぞれ腰掛ける3体と、エアコンの下に吊るされた子、テレビ右側のカラーボックス上段にはガラスの中に2人のPIERROTがいるイタリア製の置時計があり、その前に2人の子どものPIERROTが時計に寄り掛かって座っている。テレビと反対側の壁には白黒のモザイク模様の服を着た赤鼻の布製のPIERROT人形と、同じ布で作られたPIERROTのティッシュケースが吊るされていた。そして玄関脇にもPIERROTのタオルハンガーが掛かっていた。全部で11体のPIERROTが実に物静かに部屋の中に視線を漂わせていた。

「私は若い頃からPIERROTが好きなんです。顔で笑って心で泣く。まるで私みたいだから。好きで少しずつ集めていたからいつの間にか増えちゃって、みんな連れてきました。ほんとはもう一つ、イタリア製の焼き物のPIERROTがあったんですが、ここに引っ越すときに割れてしまいました。そのお面だけはみんな怖がっていましたよ。」

秋野さんは電話でそんなふうに話していた。

「PIERROTたち、かわいい子たちじゃないですか。もっと怖いのを想像していました。私、中1の頃に一年間だけフランスに住んだことがあるんですが、フランスにはPIERROTの人形とかマリオネットとか、顔だけのオブジェ的なものとかが、街中の至る所のお店でよく売られていました。クールで美しいものが多くて、子どもながらにその悲しげでクールな美しさに心惹かれていましたよ。高くて買ってもらえなかったけど。それでこれ、」

私は肩掛けポーチから、鉄棒にぶら下がる小さなPIERROTの置物を取り出した。

「これはとても安かったものなんですが、フランスに住んで初めてもらったお小遣いで買ったものなんです。ずっと大切に今でも家に飾っているんです。」

秋野さんは特に何も言わなかったが、ニコニコしてその子を手に取り、眺めた。私はこの部屋のPIERROTたちに挨拶をさせるように、その子をテーブルに載せてぶらぶらと体を揺らした。そして、腰かけていたオルゴールの子の背中のゼンマイを巻いて、弾かれるイッツ・ア・スモール・ワールドのうたを解放した。

ふと、カラーボックスに整然と飾られたいくつかの写真立ての家族写真に目が留まり、ぎょっとする。どの写真にも、長女の顔にだけ白い四角い紙が貼られていたのだ。私の視線に気がついた秋野さんが、

「ああ、もう顔も見たくないから隠したの。」

と言うが、その顔に紙を貼ってまで、この写真をここに飾ろうという気持ちが直ちには理解できずに、どうにか思いやろうとした。しかしどのように考えても、顔に紙を貼っているわが子の写真がそこにあるのを見るのは悲しい。それを自らわざわざする気持ちがどうしてもわからなかった。秋野さんの家族との関係や感情も、潔癖な暮らし方にしても、私が初めて目にした秋野さんの内面の風景は、私が今まで慣れ親しんだ価値観とはあまり交わらない異質のものに感じられた。

「うわー!ベッドがぐしゃぐしゃ!
てんめぇ~。」

秋野さんはそう言うと、ベッドに潜り込んでいる次男に襲いかかった。もう一匹はベッドの下に転がっていた。

「気ン持ちいい~!」

と言いながら次男はカラカラ笑った。

「うわ!ここ登ったの誰?ビリビリー!」

なんと、目を離した少しの隙に、次男が寝室にあったビニール製の洋服ケースのポケット部分に足をかけて登り、ビリビリに破いていた。本人は布団を被って隠れている。いくらなんでもはしゃぎすぎである。

「こら、ヒカル!秋野さんの洋服ケース破れてるんだけど!これ、直らないよ、どうするのよ?
ほんとにごめんなさい。ど、どうしましょう?」

「いや、もういいですよ、このままで。
もうこれ売ってないんだけどな。てんめぇ~!」

やってしまった。目を離した自分を責める。しかし秋野さんは本当に気にしていない様子であった。

興奮してしまったヒカルの暴走は止まらず、秋野さんの大切にしているとりわけ美しい眠り人形のPIERROTを乱暴に横たえて、

「おりゃあーーー!百烈肉球~!ニャニャニャニャニャニャニャニャ~!」

と小刻みにパンチを食らわせた。

「やめて!秋野さんの大切なものなのに。こら、やめなさい!」

「あーあ、ネコパンチされちゃった。かわいそうに。」

大切なPIERROTはまばたきに不具合が生じ、壊れかけていたのに、秋野さんは怒る様子もなくのん気にそう言って、ただ静かに受け入れていた。

秋野さんのスマホが鳴った。時田さんからの電話だった。

「はいもしもーし。今ね、長澤ヒカルくんが遊びに来てるよ。」

そう言ってスマホをひょいと次男に手渡す秋野さんは嬉しそうだ。まるで久しぶりに遊びに来た孫を自慢するおじいちゃんみたいな顔。その嬉しさには、一番楽しかった時代のメンバーが奇遇にも揃ったプチ同窓会のような状況が背景にあるだろうし、自慢には、あんな風に辞めさせられた俺にもこうやって未だに慕って家にまで遊びに来る利用者の親子もいるということを、元同僚に見せつけることができたという見栄が、心の内に少しはあったかもしれない。秋野さんの満足そうな顔を見て、私は嬉しい気分になった。

ただし、と私は思った。私は秋野さんの短く刈り上げられた後ろ頭と首の間に深く刻まれたしわに目をやって、「これは、ない」と感じた。つまり、このしわを持つ後ろ頭を、私は男性として愛することはきっとできないだろうという失礼極まりない感想をふと抱いてしまったのだ。裏を返せば、この再会の日、私は多少なりとも秋野さんを男性として意識したのに違いなかった。

秋野さんのほうも、「5歩下がって、保護者です」のスタンスの私に向かい、

「ヒカルくんママはこの部屋に入った初めての女性です。」

などと、少し羽目を外したようなことを言った。「女性」という言葉が耳に残った。

あまり長居はせずに秋野さんの部屋を後にした。私の中では「秋野さんとの再会」という物語は一旦無事に、かなり満足のいく形で終了した。

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