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17. え?ヘーゲルといえば弁証法じゃぁなかったのかい!

はじめに

今回は、”ヘーゲル(再)入門”をとりあげます。
ヘーゲルについては、このマガジンの第12回でも、結構肩の力が入った記事を書いてもいるのでこの本について書かなくてもいいかなぁ…結構前に朝日新聞の土曜日の書評で先に取り上げられちまったしなぁ…(なに競っとるねんw)と思ったのですが、やはり、この本、中学・高校辺りの倫理の時間に、「ヘーゲル=弁証法」と植え付けられた人としては、意外な内容だったので、独自の視点(?)から感じた内容のみ書いておくことにします。

弁証法

まずは復習から。そもそも”弁証法”とは、他人の物を壊したり利益を害したときにそれを補う方法…それ、”弁償”ね…ではなく、

弁証法(べんしょうほう、: διαλεκτική、: dialectic)矛盾を解消し高い次元へと発展する働き。哲学用語だが評論では、「矛盾の解消」「対立項の折衷」などの意味で用いられることも多い。

Wikipediaより

ということで、問において、相矛盾する、あるいは相反する二つのテーゼ(定立・反定立:アンチテーゼ)を立てて、それを解消する高みの綜合定立(ジンテーゼ)に発展させる方法ってことですね。この様は”正・反・合”の図式で説明されることが良くあるらしい。哲学的なアプローチでの常套手段って感じ。くだらない二律背反の低次元な主張でいがみ合っている人たちには、是非、習得してほしい手法です。

弁証法に関する有名な例に対する違和感

ヘーゲル(再)入門”の帯にも書かれている有名な例、

…有名な「つぼみ」と「花」、そして「果実」を用いた比喩がある。この比喩はしばしば、ヘーゲル哲学の用語として最も有名な「弁証法」と関連づけて紹介される。

ヘーゲル(再)入門 P43
弁証法の有名な例らしい。

これ、個人的な見解として、強烈な違和感を感じるんですね。まぁ、この例は、このマガジンの第12回で詳しく取り上げたヘーゲルの「精神現象学」の冒頭にでてくるらしいんだけど、そもそもヘーゲルはこれが弁証法の例だなんてどこにも書いてないらしいんですが。
そろそろ桜の時期なので桜を頭に思い浮かべながら違和感を感じる理由を書きますね。
冬から春にかけて暖かくなっていくと、枝につぼみができて、更に暖かくなれば、そのつぼみが緩んで開いて花が咲きますよね。それは自然な変化であって、別に花がつぼみを否定しているわけではない。だから、”つぼみ”⇔”花”は、”正”⇔”反”じゃないんじゃないか?さらには、花が受粉して果実が成っていくことになるのだけれど、これも強いて言えば、正反とぎりぎり言えなくもない、”おしべ”と”めしべ”の正反合の結果ぐらいが妥当なんじゃないかと。つまりはこの図式、形式的には弁証法を表しているけれど、丸に付与されたテキストが意味するところまで含めると、全然正しくないよねーってこと。

実際には、ヘーゲルは、

しかし、植物の流動的な本性は、それらを同時に有機的統一の諸契機とする。その統一においては、それら諸契機は互いに対立しないだけでなく、それぞれがたと同様に必要である。そしてこの同等の必然性がはじめて、全体の生を可能とするのである。

ヘーゲル(再)入門 P48

と書いていて、図にすると、

流動性の例

になると。そして、実は、ヘーゲルは、正・反・合で高みに上ること、ではなくて、「流動的な本性」こそが重要だと考えているとのことだと。

ふむふむ、これは納得感満載。ただし、つぼみが花になった時点で、”つぼみが破棄される”という風に考えて、それに焦点を当てる点には違和感が残ります。

流動的な本性

ヘーゲル(再)入門”は、今この記事を書いている時点から半年ぐらい前に読んでました。今は、

を読んでいるところ。易経の”易”は変化することであり、”易経”というのはこの世の変化の理を説く書物ということ。”陰極まりて陽生じ陽極まりて陰生ず”の太極図に代表されるように東洋思想の基本は変化、無常など。
流動的=変化していくということで、ヘーゲルは西洋哲学の祖的な扱いをうけているわりには、その思想は、随分東洋的だなというのが素直な感想。ただし、易経のような論の展開にならないところが、西洋の静養たる由縁でしょうか。

「無から無への運動」としての反省

ここでいう”反省”は、一般的な「ごめんなさい」的な意味ではなく、ドイツ語の”Relfexion”の訳であり、

  • 反射して他の場所へ向かう

  • 反射して元の場所に戻ってくる

という二つのニュアンスがあるそうで、そういう意味だそうです。
哲学において、「存在するとはどういうことか?」が大きな論点になっています。

存在は現れである。現れが存在するということは、存在が破棄されているということ、言い換えると、存在が無であるということにほかならない。この無であるということは、本質において存在を持っている。

ヘーゲル(再)入門 P190

う~む…何言ってるか判らない…

目に見えるものは本当は表れであり、その意味で無であって、本質だけが存在する。本質は眼前の事物について、それは無にすぎないと宣告する。しかし、その本質に支えられることで初めて、現れとしての事物は存在することができる。こうして、私たちの目の前にある現れとしての事物は、本質ではないものという仕方で、すなわち本質にとっての「否定的なもの」という仕方で、本質によって打ち立てられたものである

ヘーゲル(再)入門 P191

”本質”と、”本質”の”現れ”である”事物”が同一でないのは理解できますが、それが、なぜ否定になるのか、今一つピンと来ていないというのが私の本音。ただし、これ、要するに、議論が循環していて、本質、現れともに無だと言っていて、その様を”反省”と言い、ヘーゲルに言わせると、その無の方に目を向けるのではなく、”反省(無から無への運動)”の方に目を向ける、それもまた流動性だ、ということらしいです。どうやら、ヘーゲルの主張は、この思考パターンというか論理パターンがすべてにおいて通底するらしいとのこと。

引用に登場する「動き始めるもの」や「帰っていくもの」とはなんだろうか。。それは本質や現存在のことである。反省という運動は、その自分自身に帰っていく運動のゆえに、現存在となり、本質となる。反省という運動の方が先にあって、そのおかげで、本質や現存在が存在するようになる

ヘーゲル(再)入門 P200 

だから、”反省”が重要だってこと。
概念モデリング”において、実際に存在する概念インスタンスとそれらの間の意味的なリンクで構成される圏Iの世界と、圏Iの意味的構造を規定する圏Cな概念情報モデルは、前者が現存在の写しであり、後者が本質ということになります。数学的にはこの二つの圏は圏同値だってことで十分なのですが、哲学的にはこの二つのモデルはどういう捉え方をするんだろうかという点がずっと気になっています。概念情報モデルを作る際、圏Iと圏Cを思考は行ったり来たりするのですが、それって”反省”?だとすれば、モデリング=”反省”なのでしょうかね。

現実の偶然性と必然性

全ては偶然に起こるのか、それとも物事の生起にはしかるべき根拠があるのか、というのも哲学上の未解決問題らしいです。人間に自由意思はあるのか、なんていうのもその類ですかね。
本書では、ヘーゲルが考えた起こりえる様相がリストとして提示されています。

  • 形式的可能性

  • 形式的現実性

  • 実在的現実性

  • 実在的可能性

  • 実在的必然性

  • 絶対的必然性

※ P230より抜粋
概念モデルは、概念情報モデルが現実世界に存在可能な物事を規定し、概念振舞いモデルで、生起可能な出来事に対する起こりえる変化を規定します。上の様相と組み合わせて考えると、概念モデルによる、ある意味の場を通じて眺めた現実世界のモデルの意義がより明確になる気がしています。これは今後の宿題とします。

直観と概念の統一

普遍と個別が一つであるとはどういうことか。「概念論」ではこのことが手を変え品を変えて何度も説かれることになる。

ヘーゲル(再)入門 P242

普遍=概念情報モデル、個別=圏Iのモデルだとすれば、というか、そのはずなので、ここで議論されていることは、概念モデリングに関する哲学的な精査にとって、とっても重要だと考えています。
人間って、目の前にある事物と、それが何なのかという分類を区別できてますよね。当たり前のようですが、これ、よくよく考えてみると、”なんでそんなことができてるの?”なのよ。
圏Iにしろ圏Cにしろ、基本的な構造は、事柄と事柄の特徴、および、事柄間の意味的つながりであり、人間は圏Iと圏Cをそれぞれ脳味噌の中で作れて、圏Iは圏Cの現れとして認識できる能力を持っている。それはどんな仕組みなのか、という点にとても興味があります。目の前の事象を、圏C をひな型に圏Iとして認識する、目の前の事象から圏C を認識する、この過程には、人間の”意識”が関わっているのではないか、そんな感じがしています。
最近はやりの生成系AIは、圏Iの要素を入力すると妥当な圏Iの要素を吐き出すと考えられます。では、そのLLMは、圏Iなのか圏Cなのか、混在なのか、というのもとても気になる昨今です。

最後に

本書の最後の方に、”ヘーゲル”の思想は、その後の哲学者たちに正しく受け継がれていない、なんても書かれてました。
ヘーゲルにしろフッサールにしろ、それぞれの思考の流れ駄々洩れ・そのまま書いた的な文章らしいので、そりゃぁ難解でしょうなぁ…
この記事もそんな感じでごめんねぇ~

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