好きなように詠んでいいのだ
芸術の秋だというのに、一度やめてしまった俳句作りは容易に再開しそうにない。
兼題があると渋々ながら作るざるを得ない。兼題がなければ作らなかった俳句は多い。課題があるからしかたなく勉強するという学生時代の習慣そのままだ。兼題に取り組む時、それは表現というより「学習」または「研修」だ。
俳句ポストに投句して他の作品を見る。良い作品はなるほど、だから選ばれたのだろうと思う。そしてなかなか理解し難いものもある。これが理解できれば腕は上がるそうなんだがさっぱりわからない。わかる人にはわかるのだろう、そういう世界なのだなと思う。
兼題を前にうんうん唸る時とは逆に、自分の好きなように好きな言葉を使って作ってしまいたいという欲求がある。季語がどうたらとか、言い回しがどうたらとか、お約束がどうたらとか、俳句はこういう世界を詠むものとか、そんなのどうでもいい。めちゃくちゃはっちゃけた句を詠みたい。
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎
みじかよやちぜりなくこをすてっちまおか
竹下しづの女の有名な俳句。この衝撃たるや。母は子を慈しみ育てるものという固定観念の中のこの句の破壊力たるや。下五の漢字の羅列。これもすごいインパクトだ。
今回発作的に「みんなの俳句大会」に参加したのは、その「好きに詠む」に惹かれたからというのも一因になっている。
素直に情景や気持ちを詠んだり好きに詠んだりすると評価されないということが続いて、いい加減嫌になっていた時にこの大会を知った。
俳句に馴染んでいる人もそうでない人も皆自由にやりたいように詠んでる。その自由さにホッとする。
「上手くなりたい」より「好きに詠みたい」という気持ちが強まっていた時にこの大会を知った。即興で作った句を投句した。ありふれていて何の新味もないつまらない句だけれど、今はこれでよしとするしかない。2句目はまだ改善の余地がある。この大会の余波を受けて、なかなか定まらないままでいた他の句を作ることができたことには感謝。
この大会のテーマである「同じ月を見る」の解釈を家族、友人、仲間、夫婦、恋人と考えたけれど今の自分の心境から「もの作りの一員として」の立場から参加を決めた。
沙々杯に参加した時とはまた違った心持ちで参加させていただいている。人の気持ちは良くも悪くも変化していくものなのだろう。
