電車の中の白いキャンバス――ユニフォームという名の踏み絵
札幌行きの電車に乗り込んだ瞬間、目に飛び込んできたのはひとつの「白いキャンバス」だった。
オフホワイトのボディに、11色のストライプが縦に走る——そのユニフォームを着た男が、ドア横に立っていた。サッカー日本代表の2026年アウェイ。揺れる車内で、そのシャツだけが静止画のように見えた。
かっこいい、と思った。
同時に、じわりと湧き上がるのはある種の後ろめたさだ。買おうと思っていた。本当に思っていた。でも結局、ポチらなかった。財布の問題でも、サイズの問題でもない。「着こなせるだろうか」という、中年男特有の根拠のない逡巡が邪魔をしたのだ。
サッカーファンにとってユニフォームとは、踏み絵に似ている。
「どれだけ本気か」を問われる布の踏み絵。スタジアムで着れば誰も疑わない。しかし電車の中で、スーパーの帰り道で、コンビニの前で——そのシャツを着る勇気があるかどうか。それがファン度の残酷な試験紙になる。眼の前の男は堂々と合格していた。おじさんは補欠だった。
そして、もうひとつのユニフォームのことを思う。
ドーハの悲劇、復刻版。
1993年10月28日。アメリカW杯まであと90分というところで、ロスタイムのイラクの同点ゴールが日本の夢を砕いた、あの夜のユニフォームだ。カズが泣いた。ラモスが泣いた。そしてテレビの前のどこかのガキも泣いた——いや、もしかしたらそれが自分だったかもしれない。
あのシャツが復刻されると聞いたとき、胸に来るものがあった。それは懐かしさというより、もっと重いものだ。たとえるなら、長年しまい込んでいた日記を偶然見つけたような感覚。読むのが怖いくせに、手は勝手にページをめくろうとする、あの感じ。
結果は——売り切れ。
考えてみれば当然だ。あの夜を知っている世代は、みんな同じことを考えた。「あの痛みをもう一度、今度は布にして手元に置いておきたい」と。おじさんたちが全国規模で動いた。在庫はひとたまりもなかっただろう。
ユニフォームには、不思議な力がある。
それを着ることで、人は「チームの一員」になれると思い込む。ピッチに立てない者が、スタンドで、あるいは日常の中で、選手と同じ布をまとうことで確かめたい何か——それは帰属感と呼んでもいいし、もっと素朴に「仲間」と呼んでもいい。
2026年のアウェイは未来への旗印だ。「水平線の向こう側のカラフルな景色」というコンセプトで描かれた縦縞は、W杯本番へと向かう11人それぞれの個性を意味するという。
そしてドーハの復刻版は、過去との和解だ。あの夜があったからこそ、今の「当たり前のようにW杯に出る日本」がある。傷跡をシャツにして着ることは、その歴史を体ごと引き受けることだ。
電車を降りながら、思った。
アウェイユニフォームは、まだ売っている。逡巡している暇はあまりない。復刻版の教訓があるじゃないか。あの夜のカズたちは、後悔してからでは遅いことを全身で示してくれた。
ユニフォームに袖を通すことは、誓いに似ている。チームとともに、勝っても負けても、その色を背負うという静かな宣誓。おじさんはまだその宣誓をためらっている。
だが白いキャンバスは、まだそこにある。
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