見出し画像

たった1キロ

近くの駅まで走って行って帰ってきた。
たった1キロ。
昔、フルマラソンを何度も走った脚が、たった1キロを走れた事に震えていた。

2年前、右の膝、前十字靭帯を痛めた。

当時、娘が生まれてからずっと走れていなかった。
3歳になって、少し余裕が生まれたのと、春になって走りやすい気候もあって、再開するならいまだという気持ちになった。
つい昔の癖でいきなり10キロ走った。
少し太った自分に、甘ったれんなと喝を入れて。
5キロ地点で足を出すたび右膝が痛い。負けたくなくて走り切った。
帰って屈伸した瞬間、激痛が走ってそのまま立てなくなった。
これはまずいやつだと直感して、最初に浮かんだ事は、今後の私の人生から登山が消えるのか?だった。

いつか娘と山に登りたい。

そもそもそれがしたくて走った。
2、3日は足を引きづりながら仕事をした。
病院にかかってMRIを撮った。
自分で画像を見てすぐわかった。完全断裂はしていない。けれど一部に炎症の所見。
医師の診断は部分断裂だった。

そこから2年間、走れないから散歩をした。
おかげで散歩が前より好きになった。

娘が時々「お父さん、走ろう」と言う。
断れなくて走ると、やっぱり痛い。
もうダメなんだと落ち込んだ。
それでも娘は「走ろう」と言い続けた。
ある日、「ダメなんだけどなぁ」と言っているそばから娘が走り始めた。
咄嗟に負けじと走ったら、思ったより痛みが来ない。
ぐんぐんスピードを上げる。
娘を抜かす瞬間、娘はきゃーっと声を上げて笑った。
ゴールで振り返ると、娘が私にそのまま突っ込んで抱きついた。

「お父さんはやっぱりすごいね!」

娘を抱き上げて、いつもより強く長くギューッとした。

…完全断裂、してないじゃないか。

完全に切れていたのは自分の気持ちの方だった。
初めから膝は、一部しか断裂してなかったじゃないか。

今日、1キロだけ走る決意をした。
昔フルマラソンを走った男が、1キロを目標にする。

自分の右膝を見る。

いける?

娘の言葉を思い出す。

俺は、いける。

走りながら、あの瞬間が来た。山に登る途中、緑の中で、呼吸だけになる。あの感じ。
まだ、私にもあった。

ザックにつけた鈴の音。
木道、池塘、山頂の風、空の近さ。
そこに妻と私と大きくなった娘を想像する。

新たな血が巡る。
家が近づく。
足がジンジンしている。

いいなと思ったら応援しよう!