あの日、あなたが飲んでいた珈琲の味|掌編小説
夢か現か。まどろみの中で視界に浮かんだ人影は、輪郭がぼやけてにじんでいた。かろうじて見えた濃紺の腕時計とセルフレームの眼鏡、頬杖をついた横顔で、今ではもう、会えなくなった人だとわかった。
世界の片隅で、暗い沼の底に沈んでいくような時間を、共にした人だった。
***
初めて会った時、彼は、私がよく行く喫茶店のスタッフだった。
たまたま何かのきっかけでふと見かけた横顔が、さながら外敵から逃れるために繁みに身を隠した野生動物のようだった。
彼は、不思議な人だった。接客業で身につけたであろうあたりさわりのない人当たりのよさの中に、どこか投げやりで醒めた気配がくるりと丸まって潜んでいた。さながら、身体の中に手負いの獣を一匹飼っているようだった。彼自身にも、その獣はコントロールできないようだった。
その気配は、まるで中毒性のある珈琲のように、私を惹きつけた。
たまに、そういう人がいる。
麻薬のように、惹かれたらマズいとわかっている。
わかっていても、惹かれてしまう人が。
***
「コーヒー、好きなんですか?」
彼の自宅を訪れるようになって何度目かに尋ねたとき、彼はそれまで沈んでいた自分の世界からぱっと目覚めるように、こちらを向いた。
彼が働いていたのは、紅茶が有名な喫茶店だった。
ローテーブルの上には、湯気の立つマグカップがどこかさみしげな佇まいのまま、置かれていた。手に持ったマグカップから、苦くも熱いコーヒーを口に入れた。
普段、私はカフェラテでしかコーヒーを飲まない。そのせいか、ブラックだと余計に苦味が強く感じられた。熱さに、舌が焼けそうになる。
「いや、そうでもないよ。基本的にカフェイン摂るとお腹こわすから」
「そのわりには、コーヒーメーカーもあるし、道具も揃ってますよね」
じゃあなぜコーヒーが豆であるんだ、そしてなぜブラックで出すんだ、と思いつつ、黙ることにした。
そのかわりに、彼の目をじっと見つめることにした。
彼は誤魔化すように、
「人が来たときに出せるものが、うちにはこれくらいしかないから」
と言った。
どこか痛みを堪えたような表情に、やってしまった、と自分の無神経さに少し腹が立った。いまだ癒えていない彼の傷跡に、またもやうっかり触れてしまったらしかった。
この人と会っているときは、いつもこの繰り返しだった。どこに潜んでいるかわからない傷跡を避けるようにして話していた。地雷は、どこにあるかわからないからこそ地雷なのだということを、当時は気づけなかった。
彼と会っているときは、暗い沼の底に、ふたりで沈んでいくような時間だった。底がどこにあるかもわからないまま。
傷跡に触れてしまうのは、光の届かない沼の中で、底にある岩をよけきれずぶつかるようなものだった。彼はおそらく、岩にぶつからないことを望んでいた。
けれど、暗闇の中で岩にぶつからないことなど、土台無理な話だった。どこに岩があるかも、わからなかったのだから。
***
人間が一緒にいようとしたら、一切傷つかないことなど、難しい。
それでもなお、傷つきたくない時期はある。それくらい、彼は疲れ切っていた。
彼は、休息を求める、傷ついた獣だった。きっと止まりたかったのだろう。
そこに踏み込んでしまったのは、私だ。
そして身勝手かもしれないが、私は、動きたかった。
だから、やはり離れるしかなかった。
彼があの場所からいなくなったとき、愕然としつつも、心のどこかで少しだけ、ほっとしていた。その安堵にかすかな違和感を感じながらも、気づいたことからわずかに目をそらした。
彼と過ごした日々から抜け出して、ようやく息ができるようになったことを。
そして、彼と過ごした時間の中で、私はいつの間にかブラックコーヒーが飲めるようになった。コーヒーの苦味はただ苦いだけだと思っていたのに、いつからか、美味しいと感じられるようになった。
ただ、あの日の珈琲の味だけは、再現ができない。
あの時、彼が淹れてくれたコーヒーと同じ豆を買って、同じように淹れてみても、やはり違う味になる。
記憶の中の珈琲は、記憶の中にしか残らないのだろうか。
彼があの場所からいなくなって、もう5年以上が経つ。きっともう、二度と会うことはできない。鮮明だった記憶も、ゆるやかに時の彼方に流れてとけていく。
あの日、彼が飲んでいた珈琲は、一体どんな味だったのだろう。
いいなと思ったら応援しよう!
読んでいただき、ありがとうございます…!
いただいたチップは、制作に還元していきます!