「愚かな友なら、いらない」お釈迦様が言い切った理由 人生のすべてを決める『善き友』の条件
フォロワーはいても、本当の自分をさらけ出せる「友」がいない私たち

あなたには、心の底から「友」と呼べる人はいますか?
SNSを開けば、たくさんの「友達」や「フォロワー」がいます。週末になれば、お酒を酌み交わす仲間もいるかもしれません。
しかし、もしあなたが人生のどん底に落ちたとき、あるいは心の奥にある本当の弱さをさらけ出したとき、変わらずそばにいてくれる人は、その中に何人いるでしょうか。
私たちは、孤独を恐れるあまり、誰かとつながっていることに安心感を覚えがちです。
「一人ぼっちだと思われたくない」
「ランチを一人で食べるのは寂しい」
けれど、お釈迦様は、そんな私たちにハッとするような言葉を残されています。
「愚かな者と道を行くくらいなら、一人で行け。孤独であれ」と。
これは、冷たい突き放しではありません。むしろ、あなたの人生を大切にするための、最も温かいアドバイスなのです。

そして同時に、お釈迦様はこうも言われています。
「善き友を持つことは、仏道のすべてである」
「一人でいること」と「友を持つこと」。
この二つの教えの真ん中にある、本当に大切にすべき人間関係の答えとは。
ある日、弟子について尋ねた少年と和尚さんの対話から、そのヒントを探ってみましょう。
「わしに弟子なんておらん」和尚さんがさとるくんに与えた、最高の称号

「ねえ、和尚さん」
さとるくんが、本堂の掃除をしながら尋ねました。
「和尚さんの『弟子』って、これまでいたことあるの?」
「おや、今日はまた唐突じゃな。まあ、話題には事欠かんのう」
和尚さんは箒の手を休めて笑います。
「さとるくんが知っての通り、わしに弟子なんぞおらんわい」
「えっ、今は募集してないってこと?」
「いやいや、募集とかそういうことではない。わしのところでは、そもそも師弟関係などというものは考えておらんのじゃよ」
さとるくんは不思議そうな顔をしました。
「でも、たまに来る若いお坊さんは? あの人は弟子じゃないの?」
「ああ、彼か。彼は弟子ではないぞ。ただの知り合いのお坊さんじゃ」
和尚さんは、懐かしむように遠くを見ました。
「日本の仏教、浄土真宗の開祖である親鸞聖人もな、『親鸞は弟子一人も持たず候』とおっしゃった。教えを説く者と聞く者がいても、それは師匠と弟子という上下関係ではなく、共に仏道を歩む『御同朋(おんどうぼう)』だという考え方じゃな。わしの場合も、まあ、純粋に弟子はおらんのじゃよ」
「ふーん…」
さとるくんは少し考えてから、ニカっと笑いました。
「じゃあ、僕が和尚さんの一番弟子みたいなもんだね!」
「ははは、そうかもな」
和尚さんは愉快そうに笑い、さとるくんの頭を撫でました。

「でも、お釈迦様にはたくさんの弟子がいたんだよね?」
「あぁ、そうじゃ。何千人もの弟子がおったが、その中でも特に優れた『十大弟子(じゅうだいでし)』と呼ばれる人たちがいた。その中から、今日は三人の凄いお坊さんを教えてあげよう」
和尚さんは指を折りながら説明を始めました。
「まず一人目は、舎利弗(しゃりほつ)。『智慧第一(ちえだいいち)』と呼ばれ、お釈迦様に次ぐ賢さを持っていた人物じゃ」
「二人目は、目犍連(もっけんれん)。『神通第一(じんづうだいいち)』と呼ばれ、不思議な神通力を使いこなしたと言われておる」
「へえ、すごい能力だね!」

「そして三人目は、阿難陀(あなんだ)。『多聞第一(たもんだいいち)』と呼ばれておった」
「タモン…?」
「そう。『多く聞く』と書く。彼はお釈迦様の常にお側におって、その説法を誰よりも多く聞き、すべて記憶していたと言われるお方じゃ。お釈迦様が亡くなった後、その教えをお経として残せたのは、この阿難陀がいたからこそなんじゃよ」
和尚さんはそこで言葉を切り、さとるくんの顔をじっと見つめました。
「さとるくんは、わしの話をいつも目を輝かせて聞いてくれるのう」
「うん、だって和尚さんの話、面白いもん」
「そうかそうか。ならば、さとるくんは『多聞第一』じゃな」

「えっ、僕が?」
「うむ。素直な心で人の言葉をよく聞く。それは、智慧や超能力にも負けない、素晴らしい才能なんじゃよ」
一番弟子ではなく、お釈迦様の大切な弟子と同じ称号をもらったさとるくん。なんだか少し背筋が伸びるような、誇らしい気持ちになりました。
人生の質は「誰といるか」で決まる。仏教が教える最強のパートナーシップ

和尚さんが紹介した、お釈迦様の弟子たち。
実は、彼らの関係性の中にこそ、仏教が考える「理想の友人関係」が隠されています。
1.「智慧の舎利弗」と「神通の目犍連」の友情
この二人は、幼馴染の大親友でした。若い頃、「もしどちらかが先に『不死の真理(悟り)』を見つけたら、必ずもう一人に教えよう」と約束を交わしました。
やがて舎利弗がお釈迦様の教えに出会うと、約束通りすぐに目犍連に伝え、二人は揃ってお釈迦様の弟子となりました。
彼らは、ただ遊ぶだけの友達ではありませんでした。互いに高め合い、真理という同じゴールを目指して並走する「善友(ぜんゆう)」だったのです。
お釈迦様は、彼らが先に亡くなった時、「私の集まりは、空虚になってしまったようだ」と深く悲しまれたといいます。

2.「多聞の阿難陀」と「継承」
さとるくんが称号をもらった阿難陀。彼はお釈迦様の従兄弟であり、晩年の25年間、影のように寄り添い続けました。
彼は決して悟りが早いタイプではありませんでしたが、お釈迦様の言葉を一言一句聞き漏らさないという、深い愛情と尊敬を持っていました。
「聞く」ということは、相手を受け入れるということです。阿難陀は、お釈迦様にとって、自分の教えを最も深く理解してくれる、かけがえのないパートナーでした。
3.「善友」か、それとも「孤独」か
お釈迦様は『法句経』の中で、こう仰っています。
「もしも、賢明で協調性のある行儀正しい同伴者(善き友)を得たならば、あらゆる危険困難に打ち勝って、こころ喜び、気をおちつけて、彼とともに歩め」
「しかし、もしも、賢明で協調性のある行儀正しい同伴者を得ないならば、(中略)独りで歩め。愚かな者を道連れにするな」

ここで言う「愚かな者」とは、学歴がない人のことではありません。向上心がなく、怠け、悪口を言い、あなたの心を低い方へと引きずり下ろす人のことです。
そんな人と「寂しいから」という理由だけで群れるくらいなら、サイの角のように、ただ独り歩みなさい、と説くのです。
あなたの周りには、舎利弗と目犍連のように、互いに高め合える友はいますか?
あるいは、阿難陀と和尚さんのように、心から言葉を交わせる関係はありますか?
友達の数は重要ではありません。
人生のすべてと言われる「善き友」が一人でもいるなら、それは奇跡的な幸福です。

もし、まだ出会えていないのなら、無理に群れる必要はありません。自分自身を磨きながら、独りで堂々と歩むこと。その凛とした歩みの先にこそ、本当の「善友」との出会いが待っているはずです。
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