『高いところから失礼します』 そのへりくだりいります? 親鸞聖人に学ぶ「本当の謙虚さ」
その丁寧語、本当に必要ですか?言葉の“違和感”の正体

私たちの周りには、丁寧で、謙虚に響く言葉がたくさんあります。
「高いところから失礼いたします」
「つまらないものですが、お納めください」
「何もお構いできませんが、どうぞごゆっくり」
これらは社会を円滑にするための美しい潤滑油であり、相手への敬意を示す大切な文化です。
しかし、時として、その言葉に小さな“トゲ”のような違和感を覚えてしまうことはありませんか?
「本当にそう思っているのかな…?」
「なんだか、かえって壁を感じるな…」
過剰なへりくだりが、むしろ相手を見下しているように聞こえたり、ただの形式的な挨拶にしか感じられなかったり。そんな経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。
言葉は心を映す鏡です。もし、あなたが言葉の裏側に潜む、ほんの少しのモヤモヤを感じ取ったことがあるのなら。
これから始まる、さとるくんとお寺の和尚さんの対話が、その正体を解き明かすヒントになるかもしれません。

これは、形骸化した「謙遜」の鎧を脱ぎ捨て、本当の「謙虚さ」とは何かを探る、小さな探求の物語です。
「高い所から失礼します」少年が抱いた、小さなモヤモヤ

ある日の午後、学校から帰ってきたさとるくんが、和尚さんの淹れてくれたお茶をすすりながら、不思議そうな顔で口を開きました。
「和尚さん、この前ね、学校の講堂でお母さんと市の会合があったんだ。その時に、スーツを着た偉い人が、演台の上から『高いところから失礼します』って言ってたんだけど、なんだか変だなって思ったんだよ」
「ほう、変だと思ったのかい」
「うん。だって、本当に失礼だって思うなら、下に降りてきて話せばいいのにって。その人、この前も同じ会合で、やっぱり同じことを言ってたんだ。謝るふりをしながら、次もまた同じ場所から話すのって、どうなんだろうって思っちゃって」
さとるくんの素朴な疑問に、和尚さんは「ふむ」と深くうなずきました。
「さとるくんの言いたいことは、こうじゃな。『申し訳ないというポーズをとりながらも、本当は、あなたたちを見下ろすこの場所から話したいのですよ』と、そういう本音が透けて見えた、ということではないかの?」

「あ、そうそう!そんな感じ!」
和尚さんは、湯呑みで手を温めながら、穏やかに続けます。
「いつから、あのような前置きが生まれたんじゃろうな。近頃は、何かにつけてへりくだるのが美徳と考える人が増えたが、かえって違和感を覚えることも少なくないからのう」
「うん…」
「まるでお家に上がる時に、『申し訳ないですが、靴を脱がさせていただきます』と言うようなものかもしれんな。当たり前のことなのに、いちいち許可を求めるような言い方じゃ」
「あはは、そのたとえ、面白いね」
「まあ、似たようなものじゃろう。そういえば、引っ越し屋さんの中には、お客様の家に上がる時に履く靴下にまで気を配る会社があるそうじゃ。臭かったり、穴が開いていたりする靴下では、お客様に失礼だという心の表れなんじゃろうな」
和尚さんはそこで言葉を切り、さとるくんの目をじっと見ました。
「大切なのは、『高いところから』という言葉を言うか言わないか、ではないのかもしれん。」
「本当に相手を敬う気持ちがあるのなら、それは言葉にしなくとも、立ち居振る舞いや、それこそ清潔な靴下のような、些細なことから自然と伝わるものなのじゃ。」

「言葉だけが丁寧で、心が伴っていなければ、さとるくんのように、純粋な心にはその違和感がちゃんと届いてしまうということじゃな」
さとるくんは、和尚さんの言葉を聞いて、胸のモヤモヤがすーっと晴れていくのを感じるのでした。
親鸞聖人が教える、形だけの謙遜と「愚禿」の心

さとるくんが感じた「高いところから失礼します」という言葉への違和感。この根底には、形だけの謙遜と、心からの謙虚さの違いがあります。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、この「本当の謙虚さ」とは何かを、その生涯を通して私たちに教えてくれています。
親鸞聖人は、ご自身のことを見つめ、「愚禿(ぐとく)」と名乗られました。「愚」は愚か者、「禿」は髪を剃った僧侶を意味します。つまり、「愚かな僧侶である、この私」と自称されたのです。
これは、人々に対して自分を卑下してみせるための、パフォーマンスとしての謙遜ではありません。
親鸞聖人は、仏の教えという大きな鏡に自分自身を照らした時、どこまでいっても欲望や怒り、嫉妬といった煩悩から逃れられない、救われようのない愚かな人間(凡夫)であるという、ありのままの自分の姿を深く見つめられたのです。
この徹底した自己へのまなざしこそが、浄土真宗の教えの出発点です。
私たちはつい、自分の力で善い行いをし、自分の力で謙虚になろうとします。これを仏教では「自力(じりき)」と言います。

「高いところから失礼します」という言葉も、「私は謙遜できる人間ですよ」という自分を演出しようとする「自力の心」の表れと見ることができるかもしれません。そこには、「へりくだっている私」という我(が)が、うっすらと透けて見えます。
それに対し、親鸞聖人が示されたのは、この「自力」をすっぱりと諦める道でした。
「私のような愚かな人間が、自分の力で悟りを開くことなど到底できない」。そのように、自分の無力さ、非力さをありのままに認め、すべてを阿弥陀仏という大いなる仏様の力(これを「他力(たりき)」と言います)にお任せする。
自分の力で立派になろうとすることを諦めた時に、初めて見えてくる世界があるのです。
形だけの謙遜は、他者との比較の上に成り立っています。「あの人よりは自分は下だ」とポーズをとることで、自分の立ち位置を確保しようとする心の働きです。
しかし、親鸞聖人の「愚禿」という自己認識は、他者との比較ではありません。絶対的な存在である仏の前に立った時の、ごまかしようのない、ありのままの自分の姿の告白です。

もし、言葉の端々に違和感を覚えたなら、それは言葉を発した人の「自力の心」が垣間見えたからなのかもしれません。そして、私たち自身もまた、気づかぬうちに「自力の謙遜」を演じてはいないでしょうか。
本当の謙虚さとは、自分を低く見せる技術のことではありません。自分の愚かさや弱さを、静かに、そして正直に見つめる心の中にこそ、その入り口があるのかもしれません。
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