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仏教の座禅=「無」になること? 「おい、寝とるのか?」 和尚さんの“ガチ”な仏教講座が、難しすぎて、さとるくんが寝落ち








​座禅、瞑想…「無」になればいい、と思っていませんか?

「座禅」や「瞑想」と聞くと、あなたはどんなイメージを思い浮かべますか?

「心を無にする」、「雑念を捨てる」、「ひたすら我慢する」。

最近ではマインドフルネスとして、心を整えるテクニックとしても注目されていますね。


​しかし、もしそのイメージが、仏教という広大な智慧の海の、ほんの一滴に過ぎないとしたら?


そして、「座禅」と一口に言っても、宗派によってその“やり方”も“目的”も、全く異なるとしたら…?


​ある宗派は「ただ座る」と言い、ある宗派は「謎解きをしろ」と言い、またある宗派は「宇宙の真理を観よ」と説く。


…正直、難しすぎて、よく分かりませんよね。

​今回は、その「難しくてよく分からない」仏教の奥深い修行の世界を、一人の少年と一緒に、少しだけ覗いてみましょう。大丈夫、途中で眠くなっても、お坊さんは怒りませんから。




「おい、寝とるのか?」和尚さんの“ガチ”な仏教講座が、難しすぎ 瞑想から睡眠の深みへ


​「和尚さん、お坊さんの修行って、やっぱり座禅とか瞑想もするの?そもそも、その二つってどう違うの?」

縁側で、さとるくんが和尚さんに尋ねました。


​「ほう。今日は、とても難しく、そして大切なところに足を踏み入れたのう」

和尚さんの目が、キラリと輝きました。


「さとるくんが求めるなら、今日は少し、難しめの話をしてみようか。聞いたことのない言葉がたくさん出てくるかもしれんが、心して聞くんじゃぞ」


「うん!」


​和尚さんは、一つ咳払いをして語り始めました。

「『座禅』と一口に言っても、宗派によって全く違う。例えば、禅宗の曹洞宗(そうとうしゅう)では、『只管打坐(しかんたざ)』といって、ただひたすらに座る。壁に向かい、あれこれ考えず、ただ座ることそのものが、仏様の姿なのだ、と」


​「ふむふむ。ただ座るんだね」


​「じゃが、同じ禅宗でも、臨済宗(りんざいしゅう)は違う。こちらは『公案(こうあん)禅』といってな、壁を背にして座り、師匠から『片手の拍手の音とは、どんな音か?』といった、禅問答(公案)を与えられる。その答えを、座禅の中で必死に考え、見つけることで、自分のちっぽけな考えを打ち破るんじゃ」


​「謎解きみたいだね!」


​「ここまでは有名じゃが」と和尚さんは続けます。「さらに、わが国では天台宗(てんだいしゅう)の『止観(しかん)』という修行がある。これは、『止(し)』と『観(かん)』、つまり心を静かに“止める”ことと、その静かな心で真理を“観察”することを、同時に行うという、それはそれは奥深いものでのう…」


​「し…かん…」


​「特に、『一心三観(いっしんさんがん)』といってな、この世の全てのものは『空(くう)』であり、同時に『仮(け)』であり、その二つが一体である『中(ちゅう)』でもあるという、三つの真理を、たった一つの心(一心)で、同時に観るのじゃ!これが…」


​和尚さんが、熱っぽく語るその時。

​「す〜…、す〜…」

​小さな寝息が聞こえてきます。


​「……おい、さとるくん?聞こえとるか?」

隣を見ると、さとるくんは、縁側の日差しの中で、それはそれは気持ちよさそうに、こっくりこっくりと舟を漕いでいました。


​「…寝てしまったかのう」

和尚さんは、声を上げて笑いました。


「まぁ、無理もないわな。この話は、大人でも眠くなる。仏様の教えとは、それほどまでに深く、大きいということじゃ」




なぜ、さとるくんは寝てしまったのか?天台宗「一心三観」の、壮大すぎる世界


​和尚さんの“ガチ”な仏教講座で、さとるくんが寝落ちしてしまった、天台宗の「止観(しかん)」。


なぜ、これがそんなに難しい(そして眠くなる)のでしょうか。それは、この修行が「宇宙の真理を、丸ごと観る」という、とてつもなく壮大な目標を持っているからです。


​1. 「止観」とは“動”と“静”の同時並行

​まず「止観」とは、中国の偉大な僧・智顗(ちぎ)大師が確立した瞑想法で、その名の通り、

​止:心を静かに「止める」こと。思考の嵐を鎮め、湖面のような静けさ(禅定)を目指します。

​観:その静かな心で、物事の真理を「観察する」こと。智慧(ちえ)の目で、世界がどう成り立っているかを見抜きます。


​曹洞宗が「ただ座る(止)」、臨済宗が「謎を解く(観)」に一見、重きを置いているように見えるのに対し、天台宗は「その両方を、同時に、完璧なバランスで実践しろ!」と言うのです。…それは、確かに難しそうですね。


​2. 宇宙の“三つの真実”を、一瞬で観る【一心三観】

そして、さとるくんを夢の世界に誘った、究極の言葉が「一心三観(いっしんさんがん)」です。


これは、「止観」で観察する“真理”の中身のこと。天台宗では、この世の全ての物事には、三つの側面が同時に備わっていると説きます。


​空(くう)の真実

全てのものは、実体がないということ。例えば、この「机」は、木や鉄という部品が集まって、仮に「机」と呼ばれているだけで、「机」という不変の実体があるわけではありません。(空諦 くうたい)

​仮(け)の真実

実体はないけれど、現に「机」として存在し、機能していること。この世に“仮”の姿で現れている、その現象そのものは否定できません。(仮諦 けたい)

​中(ちゅう)の真実

「空っぽ」でもなく、「存在するだけ」でもない。その両方を否定も肯定もせず、超越した次元で「ありのままにある」ということ。これが最も言葉で説明し難い、中道の真実です。(中諦 ちゅうたい)


​天台宗の修行が目指すのは、「机」一つを見た瞬間に、この「空・仮・中」という三つの真実を、たった一つの心(一心)で、同時に、一瞬で観抜くこと。


…これは、確かに、さとるくんでなくても眠くなってしまうかもしれません。


​お釈迦様が説かれた「仏教」という智慧の海は、私たちが思う以上に、広く、深く、そして壮大です。


「無になる」ことだけが、修行ではありません。ただ座る、謎を解く、宇宙を観る。どの道を選んでも、それは自分自身と、この世界を知るための、尊い旅路なのです。





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