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「マジョリティの中のマイノリティ」/創作大賞2026/エッセイ部門/影山零

はじめに

 最近、マジョリティという言葉を避けている。大人数のいるカルチャーに対して、斜に構えて尖って避けているわけではない。俺は、本当のその良さを分かっていないのに群がっている人を軽蔑し、避けているのだ。
 明るくない曲に対して「明るいよね」なんて言っているのを見ると、「わかった気になるな!」と言いたい気持ちになる。それを必死に抑えている。
 物事の本質を理解していない人にはムカつく。だが同時に、物事の本質をわかったような顔をして、こんな文章を書いている自分自身にもムカつくのだ。
 このエッセイに『マジョリティの中のマイノリティ』というタイトルをつけた。多くの人が受け取る表面的な考え方に対して、もっと違う視点を持つことで、少数派の深い思考へと繋がってほしい、という願いを込めている。
 ──と、偉そうに「少数派の深い考え方」なんて言ってはみたものの、まだ幼い俺にそんな深い思想が見出せているわけもない。書いておいて我ながら恥ずかしい。今の言葉はぜひ忘れてほしい。
 書こうと思えばもっと書けるはずなのに、二篇しか書かないのは、知り合いにこれ以上僕の性格の悪さを晒したくないからだ。こういうエッセイは、知り合いや本人に伝わらない場所で吐き出すからこそ、初めて成立するものだと思う。
 ということで(いや、どういうことでだよ)、本編をお読みください!

私たちは都合のいい偶像を愛している

 クーラーの風が、充分に寒い部屋をまだ冷やし続けている。この日のこの時間は、静かなおじいちゃん先生の授業だった。お昼ご飯を食べて迎えた五時間目。いつもより瞼が重い。もし眠気に耐えかねて机に倒れ込んでも大丈夫なように、あらかじめ体制の保険をかけておく。
 二進法と十進法、そして十六進法を教わる授業。数字や文字が黒板に並べられていく。眼がうまく機能しなくて視界がぼやけている状況のなか、俺は力の入らない手でそれらをノートに写していた。
 やがて、もう意識はないのに寝ていない、という謎の時間(ゾーン)が訪れた。心はもう完全に眠っているのに、景色はなぜか見えている(気がする)。そのとき、不意に肘で押してしまったシャーペンがコロコロと転がり、やがて床に落ちた。その音でパッと目が覚める。あまりのバツの悪さに脳が完全に覚醒したのか、そこから夜まで眠たくなることは二度となかった。
 その日の帰り道。教室を出て、まだ学校の敷地内を歩いていた頃のことだ。ノロノロと、まるでゆるキャラのような足取りであの静かでおじいちゃんの先生が前を歩いていた。
 学年も違うような女子生徒が、前を歩く先生を追い抜き、少し距離が空いたそのときだった。
 静かで、ゆるキャラ感があって、みんなの癒やしキャラだったおじいちゃん先生が、
 屁をこいた。
 俺はめちゃくちゃショックだった。自分が勝手に創り上げてきた人間像が、一番下の段から音を立てて崩れ去った瞬間だった。それは、百個のドミノを完成させる直前、目の前の赤子に一瞬で崩されるような理不尽さだ。──だが、誰も怒れはしない。そもそも勝手にドミノ(幻想)を並べていたのは自分なのだから、自業自得とも言える。
 アイドルや、清楚を売りにしている芸能人が屁をこく姿を、俺は想像できない。同じ人間なのだから、当たり前に屁くらいこくだろう。でも、これまでのイメージや印象がそれを想像させないのだ。
 人は案外、都合のいいイメージに騙されているのかもしれない。そしてそれは、同じく俺にも適用されている世界のルールなのだろう。
 ずっと隣にいる人が、自分のすべてを理解しているわけではない。同じように、自分もその人のすべてを理解できているわけではない。それなのに「心で通じ合っている」と、分かり合っているような錯覚がどこかで生まれる。
 勝手に持っているイメージから外れた行動に、俺たちは”意外性”という名の現実を突きつけられるのだと思う。

安心したまえ、誰も君を覚えていない

 朝早くから親に弁当を作ってもらったのに、本当に言うべき感謝もまだろくに言えていない今日。無事何事もなく学校に登校でき、教室でおとなしく(瞑想に近しいものを感じる)無の時間を過ごしていた。教室に入ってくるクラスメイトの数が増え、賑やかさを取り戻していく空間で、俺は独り無の心でいた。
 俺は人に関心がない。隣の人の名前も、覚えようとすれば覚えられるのだろうが、そもそも「覚えよう」という思考自体が湧かない。きっとこのまま終業まで、みんなの名前は覚えられないだろうな、と思う。
 やがて、無ではなく「有」の心になった。何かを考えていなければ、まるで盗み聞きのように、誰かの話に耳を傾け続けることになってしまうからだ。
 そんなとき、朝のSHR(ショートホームルーム)前の読書時間が始まった。
 ──ここで少し、今回の本筋とは関係のない話をしたい。
 昔から読書をしていた俺は、周りの同級生よりも確かに多くの考え方や視野を持っていた(と思う)。でも、読んでいたのはどれも小説で、堅苦しい歴史の本ではない。つまり、小説を読んだところで頭は特別良くならなかった。
 なのに、教室で小説を開いていると先生から褒められる。は? って感じだ。漫画と何が違うのだろう。同じ物語で、同じ創作物だ。小説を書く側(表現者)の視点として、ずっと疑問だった。漫画は許されず、小説は褒められる。俺の視点からしてみれば、多少の違いはあれど同じ創作物なのだ。
 俺がまだ幼く、視野が狭いからわからないだけなのかもしれないが、凄く心の隅でモヤモヤしている。……と、少し愚痴ってしまったけれど、本筋に戻ろう。
 読書時間の直前、他クラスの知らない男子たちが入口前にヒソヒソとやってきた。そのうちの一人が、教室に響くほどではないが、少し大きな声で「おはよーう」と、まるで一発芸をしたかのような照れくささを見せながら言った。すると後ろに隠れていた別の男子が、その背中を押して「やめろよ」と追いかけ回す。
 そんな奴らに言ってやりたい。「安心したまえ」と。いまここにいる全員が君をなんとも思っていないし、ほとんどの人はこの出来事を明日には忘れている。
 ふざけたい年頃なのだ。彼らが大人になり、スーツに身を包んで働いている姿を想像すると少し笑ってしまう。どんな人間でも、やがて大人になるときは来る。
 だが、これは彼らにムカついたり、ウザいと思ったりしただけ書いている文章ではない。このことは、人前で過度に緊張してしまう人間にも同じことが言えるのだ。
 例えば、英語のスピーチなど、苦手な授業の発表会で過度に緊張してしまったとき。そんなときに思い出してほしい。「君の発表なんて、誰も覚えていない」ということを。
 逆の立場になれば想像しやすい。君はこれまでの発表で、何人の内容を覚えているだろうか。自分が緊張していて他人の発表なんて聞いていなかったかもしれないし、直前まで自分の資料を作っていたかもしれない。あるいは、ただ興味がなくて聞き流していたかもしれない。
 ほらね。ほとんどの人は覚えていない。だから安心していい。
 でも、こんな文章を書いている俺でさえ、実際にその場に立てば「誰も覚えていないなら胸を張ろう!」なんて簡単には思えないはずだ。実際のところ、場数を踏む以外に緊張を飼い慣らすことは不可能だと思う。
 けれど、そういうマインドを持っておくことも大切だ。緊張するのが悪いことでは全くないし、緊張しないことも悪いことじゃない。もし、今の自分を変えたいと思うならば、自分を見直し、周りを観察して、「どうすべきか」「どうしていくか」を一つずつ決めていけばいいのだと思う。

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