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なぜサーカスは、壊れたままの身体に届くのか



この記事は、サーカスを「夢」や「感動」や「教育効果」として語るものではない。

壊れた身体を治す話でもない。

ここで見るのは、壊れたままの身体が、場からすぐに排除されず、そこに少し残れるための床である。

これまで私は、「才能」や「努力」そのものよりも、その前にある床について書いてきた。

たとえば、才能は床ではない——最初の町がないまま、才能が見つかるということや、才能を育てる前に、最初の町を設計するで書いたのは、才能の前に、身体が立てる場所がいるということだった。

今回は、その床をサーカスの側から見る。

サーカスは、ちゃんとした人間だけを見る場所ではない。
ここでいう「壊れた身体」とは、人間そのものが壊れているという意味ではない。

壊れているのは、その人ではない。
社会の床と、身体の噛み合わせである。

社会の床に、身体がうまく合わなくなった状態。

ここでは、その状態を「壊れた身体」と呼ぶ。

学校に行けない。
教室に入れない。
人の目が怖い。
返事ができない。
拍手できない。
笑えない。
ありがとうが言えない。
褒められると固まる。
期待されると逃げたくなる。

そういう身体がある。

その身体に向かって、社会はよく言う。

ちゃんとしなさい。
戻りなさい。
慣れなさい。
感謝しなさい。
前を向きなさい。
乗り越えなさい。

でも、身体はそう簡単には動かない。

頭ではわかっていても、足が止まる。

言葉は出ない。
手が動かない。
目が合わない。
笑えない。

そういう身体に、サーカスが届くことがある。

これは、私にとっても実感のある話である。

サーカスの現場では、すぐに笑えない身体がいる。

拍手できない身体がいる。
怖がったまま座っている身体がいる。
終わったあと、何も言えない身体がいる。

でも、その身体が、あとからもう一度サーカスに触れに来ることがある。

ここでいう「届く」とは、治ることではない。

元気になることでもない。前向きになることでもない。

壊れたままの身体が、場からすぐに排除されず、そこに少し残れること。その程度のことを、ここでは「届く」と呼ぶ。

それは、サーカスが明るいからではない。

夢を見せるからでもない。

「頑張ればできる」と教えてくれるからでもない。

サーカスには、最初から壊れそうなものが置かれているからだ。

サーカスには、落ちそうな身体がある

空中に人がいる。
落ちたら危ない。

綱の上に人がいる。
足元は揺れている。

ジャグリングの道具は落ちる。
バランスは崩れる。

クラウンは失敗する。

サーカスは、最初から安全そうな顔をしていない。

もちろん、安全管理はある。

訓練もある。道具もある。支える人もいる。
何度も反復された技術がある。

それでも、観客の前に出ているものは、完全な安心ではない。

落ちるかもしれない身体。失敗するかもしれない動き。
間に合わないかもしれないタイミング。
笑いになるかもしれないズレ。
空気が止まるかもしれない沈黙。

そういうものが、消されずに置かれている。

サーカスは、壊れない身体を見せているのではない。

壊れそうな身体を、壊れそうなまま場に出している。

それでも場が終わらない

失敗しても、すぐ終わらない。
道具を落としても、拾う。
タイミングがずれても、戻る。

空気が止まっても、次の呼吸が来る。
クラウンが失敗しても、場から消えない。
観客が笑わなくても、もう一度立つ。

観客は、そこに反応する。

成功したからではない。

失敗したあと、場が壊れ切らなかったからである。

普通の場所では、失敗すると終わる。

評価が下がる。怒られる。恥になる。記録に残る。

次から気をつけろと言われる。
もう一度やる前に、心が折れる。

でもサーカスでは、失敗が一瞬だけ見える。

そして、その失敗がどう扱われるかも見える。

笑いになるのか。待たれるのか。拾われるのか。
やり直されるのか。なかったことにされるのか。

そのまま次へ進むのか。

サーカスが届くのは、技が成功した瞬間だけではない。

失敗した身体が、もう一度場に戻る瞬間である。

壊れた身体は、成功よりも戻り方を見ている

傷のある身体は、成功だけを見ていない。

どうやって戻るのかを見ている。

落としたあと、どうするのか。
笑われたあと、どう立つのか。
怖くなったあと、どう呼吸するのか。
支えられたあと、どう受け取るのか。
拍手されたあと、どう逃げずに立つのか。

そこを見る。

自分が困っているのも、そこだからだ。

成功できないことだけが苦しいのではない。

失敗したあとに戻れないことが苦しい。

言葉を返せなかったあと、関係に戻れない。
学校を休んだあと、教室に戻れない。
泣いたあと、普通の顔に戻れない。
褒められたあと、期待に戻れない。
愛されたあと、自分に戻れない。

この「受け取れなさ」については、
以前、愛されていることを受け容れる床でも書いた。

支えられること。
褒められること。
愛されること。
拍手されること。

それらは、本来なら嬉しいことのはずなのに、身体によっては負債になる。

だから、サーカスの中で身体が戻る瞬間は強い。

それは励ましではない。
構造が見えるからだ。

戻るには、床がいる。

待つ人がいる。支える人がいる。

失敗を消さずに置ける場がいる。

そのことが、身体で見える。

クラウンは、ちゃんとできない身体を消さない

クラウンは、この構造をいちばん露出させる。

以前、フェリーニの『道化師』——どこに床があり、どこで崩しているかでも書いたように、道化師はただ笑わせる存在ではない。

床がどこにあり、どこで崩れているかを見せてしまう身体でもある。

クラウンの失敗は、ただ「できない」ということではない。

できなさを、消さずに見える場所へ置く技術でもある。

だから、ここで見ているのは「できない人」ではない。

できなさが、場の真ん中に置かれたとき、何が起きるかである。

クラウンは、ちゃんとできない。

遅れる。間違える。勘違いする。
空気を読み違える。余計なことをする。
受け取り損ねる。自分だけ違う速度で動く。

普通なら、それは直される。

ちゃんとしなさい。空気を読みなさい。迷惑をかけないで。
早くして。ふざけないで。笑われているよ。

そう言われる。

でもクラウンは、その身体を場から消さない。

ちゃんとできない身体が、舞台の真ん中にいる。

遅れる身体が、遅れたままそこにいる。

間違える身体が、間違えたままそこにいる。

ズレた身体が、すぐには直されない。

失敗した身体が、もう一度出てくる。

ここで起きているのは、救済ではない。

ちゃんとできない身体が、消されずに舞台の真ん中に残っている。

笑われる危険もある。見ていられない痛さもある。

恥もある。残酷さもある。

それでも、クラウンは消えない。

失敗した身体が、失敗したまま一度そこに残る。

そして、もう一度動き出す。

観客はそこを見る。

壊れたままの身体が、消されずに場に残る。

だから届く。

支えられていることが、隠されていない

サーカスでは、支えが見える。

飛ぶ人だけではない。受ける人がいる。支える人がいる。
ロープがある。マットがある。テントがある。
客席がある。音がある。照明がある。スタッフがいる。

ひとりの身体の後ろに、いくつもの床がある。

傷のある身体は、支えられることを恥にしてしまうことがある。

助けられたら、返さなければならない。
見守られたら、応えなければならない。
支えられたら、成功しなければならない。
拍手されたら、次も失敗できない。
支えが、すぐ負債になる。

でもサーカスでは、支えは隠されない。

支えがあるから飛べる。
マットがあるから、落ちる可能性を置ける。
ロープがあるから、高さに触れられる。

受ける人がいるから、手を離せる。
セーフティラインがあるから、危険に近づける。

照明があるから、身体が見える。
音があるから、呼吸が戻る。

支えは恥ではない。

場の条件である。

そのことが、説明ではなく、目の前で起きる。

サーカスは治さない

ここを間違えると、サーカスはまた圧になる。

サーカスは、壊れた身体を治すものではない。

不登校の子を学校へ戻す装置ではない。
傷のある人を元気にする道具ではない。
見た人を前向きにするプログラムでもない。

見たのだから変われ。
感動したのだから頑張れ。
体験したのだから戻れ。
拍手したのだから前を向け。

そう使った瞬間に、また床が抜ける。

壊れた身体を、壊れたまま場に置くこと。

揺れている身体を、揺れているまま見せること。

失敗した身体が、もう一度戻るところを見せること。

支えがなければ立てないことを、隠さないこと。

それだけで、身体が反応することがある。

客席にも、壊れた身体がいる

舞台の上では、戻る瞬間が見える。

落としたものを拾う。
止まった呼吸が戻る。

失敗した身体が、もう一度場に出てくる。

でも、客席の身体は、すぐには戻らないことがある。

壊れた身体は、舞台の上だけにいるのではない。

客席にもいる。拍手できない人がいる。
笑えない人がいる。怖くて固まる人がいる。
何を感じたのかわからない人がいる。

終わったあと、すぐ感想を言えない人がいる。

それでいい。

怖かったまま座っていていい。
笑えなかったまま帰っていい。
拍手できなくてもそこにいていい。
何も言えなくてもいい。
すごかったのか、つらかったのか、わからなくてもいい。

受け取りは、すぐに完成しない。

あとから来ることがある。
別の場面で戻ってくることがある。
言葉にならないまま、身体に残ることがある。

届くとは、その場ですぐ反応できることではない。

拍手できなかった身体にも、あとから戻ってくるものがある。

舞台の身体は、その場で戻る。
客席の身体は、あとから戻る。

どちらにも、戻るための床がいる。

なぜ届くのか

サーカスが壊れた身体に届くのは、壊れた身体を治すからではない。

壊れた身体を、すぐ治そうとしないからである。

落ちそうな身体がある。失敗する身体がある。
遅れる身体がある。笑われる身体がある。
支えられている身体がある。戻ってくる身体がある。

それらが、場から消されずに残っている。

壊れているのは、人そのものではない。

身体が立とうとしたとき、床とうまく噛み合わなくなっている。

だから、戻れなくなった身体はそこに反応する。

自分だけではない。

自分だけが遅れているわけではない。
自分だけが戻れないわけではない。
自分だけが支えを必要としているわけではない。

そう思える瞬間がある。

それは、励ましではない。正解でもない。
救済でもない。

ただ、壊れた身体が、壊れたまま場に置かれている。

そこに床がある。

サーカスが届く理由は、そこにある。


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この文章は、KAGURA PROJECTでこれまで書いてきた「床」の話の続きでもあります。

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