サーカスで働きたい子の前に、まだ床がない
サーカスで働きたい子の前に、まだ床がない
8年前、自分で小さな公演を主催したことがある。
イベント会社から抜けて、自分のイメージで公演を立ち上げたら何が起きるのかを見たかった。
会場費がいる。
アーティストを呼ぶ費用がいる。
交通費がいる。
手伝ってくれる人がいる。
応援してくれる人がいる。
当日の段取りがいる。
そのとき考えていたのは、サーカスや身体表現の世界に入る入口が、あまりにも狭いということだった。
当時は、サーカス団に入るか、イベント出演を続けるか、大道芸に出るか。道はあっても、床は薄かった。
今、KAGURA PROJECTで考えていることは、急に出てきた思いつきではない。先に、小さな公演を立ち上げた、あのときの身体の記録がある。
サーカスで働きたい。
アーティストになりたい。
海外の舞台に立ちたい。
そう思う子がいるとして。
その子に、何を渡せるだろうか。
技を磨け、だけでは足りない。
夢を持て、でも足りない。
挑戦しろ、はもっと危ない。
門の前に立つまでの床がないまま、背中だけを押すことはできない。
私はサーカスの現場で働いている。
だからこそ、サーカスの入口が、ただ開いていればいいとは思えない。
入口の前に、床がいる。
技があるだけでは、門の前に立てない
サーカスで働きたい子がいる。
アーティストになりたい子がいる。
けれど、技ができるだけでは、門の前には立てない。
プロフィールがいる。
映像がいる。
写真がいる。
相談できる相手がいる。
親や指導者に説明できる言葉がいる。
出演条件はどうするのか。
交通費は誰が出すのか。
謝礼はいくらなのか。
保険はどう扱うのか。
誰が連絡を受けるのか。
誰が責任を持つのか。
どこまでを本人が判断し、どこから大人が確認するのか。
そこが曖昧なままだと、支援は始まっても続かない。
門を開けることだけが支援ではない。
門の前まで、落ちずに歩いてこられる床を敷くこと。
門をたたいたあと、うまくいかなかったとしても戻れる場所を残すこと。
そこにも仕事がある。
KAGURAが扱うのは、夢を押し出すことではない。
夢がまだ夢の形をしている段階で、身体と記録とお金と相談先をそろえ、次の場所へ運べる状態にすること。
サーカスの入口に立つ前に、すでに床は必要になる。
競技を終えても、身体に残るものがある
サーカスや舞台の入口に立とうとする子の中には、競技の中で身体を育ててきた子がいる。
体操。新体操。ダンス。チア。アクロバット。トランポリン。
競技を終えても、身体に残るものがある。
跳ぶ力。
回る力。
支える力。
音やリズムを感じる力。
間合いを取る力。
人前に出る力。
集団の中で動く力。
練習を続ける力。
失敗して、それでも戻る力。
それらは、競技の結果だけでは測れない。
大会の成績として残るものもある。賞状として残るものもある。映像として残るものもある。発表会で見た人の記憶として残るものもある。
けれど、それだけでは、次の場所へ接続しにくいことがある。
競技の中では価値があった身体が、競技を離れた瞬間に、どこへ置けばいいかわからなくなる。
これは、本人の能力だけの問題ではない。
床の問題だと思う。
発表会は、育成と競技後をつなぐ床になる
身体は、いきなりアーティストになるわけではない。
まず育成がある。
小さいころから身体を動かす。柔軟をする。跳ぶ。回る。支える。音やリズムを感じる。仲間と合わせる。先生の言葉を聞く。発表会に出る。大会に出る。
その積み重ねの中で、身体は競技の形を持ちはじめる。
育成では、身体をつくる。
競技では、その身体を測る。
発表会では、その身体を外へ開く。
この三つは、同じものではない。
競技会では、点数や順位が出る。
発表会では、家族や地域や支援者が見る。
競技の中では、身体は評価される。
発表会では、身体は「関係」の中に置かれる。
誰かが見る。誰かが記録する。誰かが応援する。誰かが名前を出して支援する。誰かが次の機会を考える。
発表会は、単なるお披露目ではない。育成の中でつくられた身体が、競技の外側へ一度開く場所である。
点数や順位だけではなく、その身体がどんな場に立てるのかが見える。ここで初めて、身体は競技の外側に置かれる。
だから、発表会は小さく見えても、競技後の身体を社会へ接続するための中間の床になる。そこから先に、アーティストとしての入口が見えてくることがある。
ただし、発表会を一回やるだけでは足りない。
発表会があり、記録が残り、支援者が外に向けて説明でき、次年度に戻る。
そこまでつながって、はじめて一過性ではない水路になる。
OKB体操アリーナという参照点
たとえば、岐阜にはOKB体操アリーナがある。
大垣共立銀行OKB体操クラブという名前があり、OKB体操アリーナという場所があり、そこで新体操の公演が毎年行われている。
ここで見えるのは、銀行が名前を出しているという事実だけではない。
育成の場所がある。
競技の場所がある。
発表会の場所がある。
保護者や地域が見る場所がある。
企業や支援者が関与できる形式がある。
活動が外に見える形で残る。
銀行の名前が、体操クラブやアリーナの名前として見えている。この事実は大きい。
それは、体操や新体操が、単にクラブ内部の活動ではなく、地域の中で支えられる形になっていることを示している。
もちろん、同じものをそのまま真似する必要はない。銀行名をつければよい、という話でもない。
重要なのは、育成から競技、発表会、記録、支援、次年度更新までが、外から見える形になっていることだ。
支援者が名前を出せるだけの場所がある。
活動を説明できる資料がある。
発表会がある。
記録がある。
責任主体がある。
次年度に戻る形式がある。
そういう床があるから、企業も銀行も地域も関与しやすくなる。
この見え方は、KAGURAにとって現実的な参照点になる。
帰ってこられる場所は、考えているだけではできない
アーティストを目指す子がいる。
サーカスで働きたい子がいる。
外へ出てみたい子がいる。
そのとき、必要なのは入口だけではない。
帰ってこられる場所がいる。
挑戦したあとに戻れる場所。
競技を終えたあとに身体を置ける場所。
アーティストを目指して、うまくいかなかったあとも社会から切断されない場所。
一度外へ出た身体が、また地域や教育や舞台や仕事へ接続できる場所。
これは、考えているだけではできない。
場所がいる。
運営がいる。
お金がいる。
責任主体がいる。
支援者が説明できる形式がいる。
地域に残る記録がいる。
発表会が行われる。
活動が記録される。
支援者が名前と責任範囲を明示して関与する。
報告書として返される。
次年度に更新される。
この一連の流れがあって、はじめて支援は一回きりの善意で終わらなくなる。
舞台に立つ前に、事務と運営の床がある
上原ひろみさんの言葉で、ずっと残っているものがある。
ツアーにかかる事務作業を自分で進める。
そして、自分が演奏するのは、そのごほうびのようなものだ。
その発言を聞いたとき、かなり残った。
演奏や出演は、最後に見える部分だ。
その前に、会場がある。
移動がある。
宿泊がある。
連絡がある。
支払いがある。
資料がある。
広報がある。
音響確認がある。
当日の段取りがある。
そこが整って、はじめて舞台に立てる。
これはサーカスでも同じだと思う。
技がある。
身体がある。
表現がある。
でも、それだけでは本番には立てない。
誰が呼ぶのか。
どこでやるのか。
いくら払うのか。
どう移動するのか。
どこに泊まるのか。
誰が連絡を受けるのか。
どこまでが責任範囲なのか。
その床がないまま、アーティストに「頑張れ」と言うことはできない。
舞台に立つことは、床が敷かれたあとに起きる。
だから、事務局費や運営設計費は、飾りの費用ではない。
出演者が落ちずに本番へたどり着くための、床の維持費である。
支援は、一回買って終わりではない
18歳のころ、障がいのある自分について考え始めた。
ぼくはたまたま裕福なところに生まれて、育ったから、一つ30万円という補聴器を与えられて育った。
だけど、それは当たり前じゃない。おれがたまたま恵まれていただけだ。
だから、財をなして、財団をつくりたいと考えた。補聴器の購入費用を支援する財団。これはいい、と当時は思った。
しかし、どうやって稼ぐ? 買うのを一回補助して、それで終わりなのか?
違う。継続的な支援が必要なんだ。
補聴器も、身体も、技術も、生活も、一度支えれば終わるものではない。
調整がいる。
更新がいる。
修理がいる。
次に必要になる費用がある。
相談できる場所がいる。
使い続けるための環境がいる。
支援するなら、続く仕組みがいる。
そのころ考えていたことと、私が今考えていることは、別々の話ではない。
サーカスで働きたい子の前に床を敷くこと。
競技を終えた身体が切断されないようにすること。
帰ってこられる場所をつくること。
支援のために外部からお金が流れ込む水路をつくること。
それらは、すべて同じ問いの上にある。
支援したい。
でも、支援を一回きりで終わらせたくない。
そのためには、稼ぐ必要がある。
ただし、稼ぐために支援を利用してはいけない。
支援するために稼ぐ、そのための水路
この床を敷き、維持するためには、外部からお金が流れ込む水路が必要である。
それは、単なる寄付や広告枠の話ではない。
外部からの資金が入り、何に使われ、誰に届き、どのように記録され、支援した側へどう返され、次年度へどう戻るのか。その往復が見える状態でなければ、支援は一回で止まる。
ここで線を引かないと、支援と利用が混ざる。
支援するために稼ぐ。
稼ぐために支援を利用しない。
お金の話を避けると、支援は善意に寄っていく。
善意そのものが悪いわけではない。でも、善意だけに乗せると、継続条件が見えなくなる。
誰かが無理をする。
誰かが黙って時間を出す。
誰かが交通費を負担する。
誰かが夜に資料を作る。
誰かが報告を後回しにする。
誰かが「子どものためだから」と言って引き受け続ける。
その状態は、長くは続かない。
支援を続けるには、誰かの無償稼働だけに乗せない設計がいる。
そこに事務局費が発生する。
資料作成費が発生する。
報告書作成費が発生する。
運営設計費が発生する。
それを隠さない。
これは飾りの費用ではない。床の強度を保つための維持費。
収益の場所を見えやすくすることで、支援と収益を混ぜない。
まだ床は敷けていない
支援するために稼ぐ。
稼ぐために支援を利用しない。
ただ、この線は、言葉にしただけでは保てない。
実際に動かせば、必ず濁る場所が出る。
子どもたちのため、という言葉で誰かの無償労働が増えるかもしれない。
支援企業への報告を優先しすぎて、選手が広報素材のように扱われるかもしれない。
競技後の支援と言いながら、結果のある子だけに光が当たるかもしれない。
事務局費を明記した瞬間に、支援の純度を疑われるかもしれない。
逆に、事務局費を隠せば、支援は続かなくなるかもしれない。
だから、これは宣言ではない。
まだ敷けていない床の設計メモだ。
次に見るべきものは、きれいな理念ではなく、実際にどこが詰まるか。
どこにお金が流れるのか。
誰の手間が増えるのか。
誰が説明できなくなるのか。
誰が戻ってこられなくなるのか。
どの記録が残れば、次年度に接続できるのか。
そこから始める。
競技を終えた身体が、競技と一緒に切断されないために。
サーカスで働きたい子の前に、まだ床がない。
まずは、小さな床を一枚敷いてみる。
