パンデミック・ウォーズ(第5話)人命と経済、果たしてどっちが大事なんだ!
第5章 人命と経済
科学者の集うサロン、サピオフロースに初めて参加した晩、三木谷研究室の助手でサロン事務局を担当している河瀬琉斗からメールが届いた。
《位田君、お疲れ様。サロンはどうだった? 今日のテーマはゲノム治療薬開発のアイディアを得るためのブレインストーミングだったんだが、理解できたかな。とはいえ君はIQ185だってね。しかも位田先生の息子さんか。もしかしたら僕より理解できたのかも知れないな。君も将来は分子生物学をやるの? 何になるにせよ、それだけ賢ければ将来有望だね》
こんな風に誰かとやり取りするのは初めてだった。唯一交流があると言えばツイッターだが、あんなのはコミュニケーションのうちには入らない。みんな匿名でどこの誰とも知らないし、僕にとっては交流相手というより、エビデンスの何たるかを教え諭すオーディエンスでしかなかった。
琉斗はもしかしたら、佐伯先生から「仲良くしてあげてね」と頼まれたのかも知れないと勘繰りながらも、やり取りを新鮮に感じた。
琉斗は佐伯先生と同学年で30歳。お兄さんというにも年齢が離れすぎだが、フランクにやり取りしてくれたので、それほど年の差は感じなかった。
医師には守秘義務があるから、佐伯先生が琉斗に僕の診断名や不登校、引きこもりということまで伝えているとは思えなかった。
しかし、対面でなくメールだったせいで、僕はうっかり饒舌になったというか筆が滑ったというか、ふだんなら誰にも話さないようなことを打ち込んでいた。
《将来有望だなんて買いかぶりです。僕は自閉スペクトラム症のアスペルガーで、小学校に入学してすぐに不登校になり、ほとんど学校には行っていません。いわゆる引きこもりです。佐伯先生から聞いてませんでしたか?こんな僕にどんな将来があるのか、見当もつきません》
僕は変わり者で引きこもりの社会不適合者だ。関わりたくないのなら、今のうちにサッサと消えてくれ。そんな思いをメールの文面に仕込んだ。
カチッ。僕は読み返しもせずにエンターキーを押した。
しまった。よく知らない人間からいきなり不登校で引きこもってるなんて聞かされて、ひょっとしたら引いたかな、と送った瞬間に後悔した。
同時に、琉斗はどんな反応を見せるだろうか、と琉斗を試すというか、露悪的になっている自分も感じ取っていた。
いろいろ思案していると、すぐにあっけらかんとした返信が来た。
《それは聞いてなかった。ゆりから聞いていたのはギフテッドだってことと、分科会長の位田先生の息子さんってことだけ。あ、「弟だと思ってよろしくね」とは言われたかな。ゆりは昔から面倒見よかったからね。この間話した感じでは、君は小学生だけど、しっかりしてるから弟っていう感じがしないな。通っているのは公立小? 学校ってところは、ちょっとでも目立つと面倒な世界だもんな。まして君は天才児だ。想像でしかないが、状況はわかる気がするよ》
僕は拍子抜けした。琉斗は僕が発達障害とか不登校なんてことは、全く気にも留めていないようだった。
それどころか、琉斗は筆まめで、そして共感性に優れた人物らしいことがわかった。
佐伯先生のことを“ゆり”と書いていた部分にはなぜか心に針が刺さったような感覚を覚えたが、それよりも初めて他人から理解を示されたことに、僕は感激していた。琉斗とはついさっき画面越しに会っただけだが、佐伯先生のように思いやりがあって面倒見のよい人物なのだろうと思った。
だからこそ、この二人は友達になったのかも知れない……。そんな思いに、ふととらわれる。
《君は古今東西の論文の目を通していて、まるで歩くデータベースだってゆりが話していたよ。こちらこそ、いろいろ教えてくれよな。じゃあ、また今度》
琉斗のメッセージはそう締めくくられていた。
僕は気を取り直し、次回のサロン内容に思いを馳せた。次回はどんな話題なのだろう。次の議題を想像するだけで、僕は久しぶりにワクワクして、いつもより就寝するのが遅くなってしまった。
翌日、僕は何気なくiphoneを取り出し、ネットニュースを読んでいた。
《政府分科会長位田守氏が本日、ツイッターアカウントを開設。国民にコロナ感染対策の理解を訴えるため》
ヤホーニュースにこんな見出しを見つけて、僕は椅子から転げ落ちそうになった。
あの父さんがツイッターだって?
アカウントを検索するとすぐにヒットした。ほんの数時間前に開設されたのにも関わらず、すでに8万人以上にフォローされていた。確かに父さんは、このコロナ禍で最も有名人だと言っても過言ではない。
父さんのプロフィール画像が目に飛び込んできた。こんなに口角を上げた父さんを、僕は見たことがなかった。
父さんは54歳。生粋の研究者であり、堅物でもある昭和の人間だ。瘦せ型で長身、白髪交じり容姿は紳士的に見えなくもないが、特別二枚目ということもなく、いわゆる「おじさん」だ。年代的にもFaceBookならギリギリやっていそうだが、ツイッターではアウェイ感いっぱいなのが明らかだった。
僕が苦虫を噛み下すような気分に陥ったのを知る由もなく、父はプロフィール画像の丸い円の中でにこやかに笑っている。
じっと見つめていると、証券マンか士業を装った怪しい詐欺師に見えなくもない。
アカウントの開設は政府の要請だったのか、それとも父さん自身の発案だったのだろうか? 一笑に付すべきか、身内として「これ、やめたほうがいいよ」と忠告すべきなのだろうか。
いや、しかしまあ、プロフなんてどうでもいい。大事なのは投稿内容だ。僕は気を取り直し、スクロールして投稿を表示させた。
《新型コロナ感染症政府分科会をご紹介します。分科会とは、政府の新型コロナ対策本部に対して方向性を提言する組織です……》
最初の投稿では、丁寧に分科会とはいかなる組織かの説明が書き込まれていた。140字以内の短文投稿に慣れていないのだろう。投稿の最後には(続き)と書かれ、いくつものツリーが連なっている。はっきり言って読みにくかった。
今朝、アカウントを開設したばかりなのに、すでに何百ものコメントがついている。
《位田ってだいたい何の専門家なの?》
《あなたがワクチン打てっていうから
打ったけど、これでコロナにかかったら
どう責任取るんですか?》
《感染者数を数えるだけなら素人でも
できます。あんたほんとに専門家?》
匿名なのをいいことに、目を背けたくなるような悪質なコメントばかりだ。感染対策について賛否を述べるとか、議論しようなんてものじゃない。投稿内容も読まずに書いたようなコメントばかりだったし、どのコメントも単にストレスのはけ口にしたいだけのとしか思えなかった。しかもどんどんコメントは増えていく。
このわからずやどもめ!
父さんを誰だと思ってるんだ!
父さんは20年前のSARSの時も政府に助言する立場だった。あの時はパンデミックにならなかったからみんなわからないのだろうが、SARSの流行を食い止めたのは父さんだなんだぞ。
エビデンスに基づいた合理的な判断もできず、ただ自分の利益だけを主張するヤツらが、偉そうに父さんに口答えするな!
この国の人間は、科学が何たるかも知らなければ、科学者への尊敬がなさすぎるんだ。
父さんも父さんだ。こんなバカな連中におもねることなんてないじゃないか。バカに何を説明したってどうせわかりゃしないんだ。それよりも父さんはこんなやつらを相手に下手に出て、科学者としてのプライドを捨ててしまったのか。
壁を殴りつけたい衝動を感じたが、理性で踏みとどまる。それでも僕はイライラしながら階段を降り、ドスンとリビングのソファに掛けた。
フー――――ッ。荒い鼻息を吐く。
僕が座るや否や、キッチンから母さんの声がした。
「お父さん、ツイッターのアカウントを開設したんだってね。ヤフーニュースになっててびっくりした」
母さんもアカウント開設のこと知らなかったのか。
「アカウント見た?」
「見たわよ、見たわよ。もうびっくりした。お父さんがツイッターなんて」
トントントントン……。包丁で何かを刻む音が聞こえる。
僕はソファの背を乗り越えんばかりにキッチンのほうに向いた。
「じゃあ母さんもプロフも見たの? 家じゃ、父さんのあんな笑顔、見たことないよね。ってか、家でまともに顔合わせたこともない気もするけど。ニカーッて笑っちゃって、なんかキモかった」
母さんの失笑が聞こえた。
「キモいなんて言っちゃ、お父さんが可哀そうよ。若い人たちが自分たちは若いから大丈夫だろうって、甘く考えて感染対策してくれないから、何とかして若者に伝えようって、お父さん一生懸命なんだと思うよ」
「お母さん、アカウント開設する話、父さんから何も聞いてなかったの?」
「聞くも何も、今月入ってお父さんと話してないわ」
父さんは4日前、深夜に帰宅して翌朝早く出勤した。家族といえども顔を合わせることはほとんどなくなった。父さんの姿はテレビ画面の中で見る方が多いくらいだ。
あまりにもひどいコメントばかりだったので、「コメント欄も見た?」とは聞けなかった。もちろん、母さんも目を通しているはずだ。さすがの母さんも傷ついたろう。
ジャアーーーー。大きな音がして、油の匂いが漂ってきた。
時計を見る。夕飯の時間まであと13分。僕はテレビをつけた。僕がネットの世界に浸るのを母さんはよく思っていないから、リビングではできるだけiphoneをポケットにしまい、テレビを見るようにしている。NHFニュースだと母さんは何も言わないからだ。
いつものキャスターが並んで座っている。「こんにちは」と揃って頭を下げた。
「現在の感染状況について、新型コロナ対策政府分科会長の説明です」
メインキャスターが述べ、画面が切り替わる。
白っぽい部屋に父さんが座っていた。国会の中かNHKの会議室だろうか。テーブルにはいくつものマイクが設置され、父さんにカメラが向けられている。
「国民のみなさん。位田です。みなさんのご協力のおかげで、この夏の第2波を乗り越えることができました。第3波の到来を回避するため、より一層の感染対策をお願いします」
父さんはカメラを真っすぐに見つめて挨拶し、ホワイトボードを掲げて説明を始めた。父さんが手にしているボードには、毎日のように目にする感染者数の棒グラフが描かれていた。
「今日の実効再生産数は0.9でした。この数字が1を切ってくると感染は縮小していると考えられます。みなさんの努力のおかげで感染者は減りつつあります」
すると、手前に座っていたリポーターが挙手して質問した。
「しかし位田先生。それは見かけ上の減少ではないのでしょうか?厚労省は今週から、家族などの濃厚接触者に対して、有症状者のみ検査する方針に変えましたよね。感染者数が減少したのはその影響ではないのですか? 検査対象が変更になったせいで無症状者は検査対象から外れ、本来は陽性かもしれない人たちが感染者としてカウントされなくなっただけではないのでしょうか」
僕は前のめりになった。
盲点だった。急いでMacを立ち上げ、エクセルを開く。
キーボードを叩き、昨日の感染者の分析シートの数式を操作する。これまでの感染者数の増加を基に、今後の増加数を予測した数値と昨日発表された数字とで、差異を補正して「本来の」実効再生産数を算出してみた。
カチッ。エンターキーを弾く。
値が出るまでの数秒がコマ送りのように感じられた。
L列52行目に値が現れる。
1・8
なんてことだ! 父さんが今言った再生産数とは大きく乖離している。0.9と1.8とでは、感染状況の意味が全く異なるではないか。僕が算出した数値では、感染はさらに拡大し、もう第3波のすぐ入口に来ていることを示していた。
これは一体どういうことなんだ!
リポーターも同じ疑問を感じたのか、いぶかしそうな表情で質問を続けた。
「検査数の減少を踏まえても、感染は収まってきていると言えるのですか? 恣意的な操作ではないんですか? そのような発表されるのには、何か事情がおありなのでしょうか?」
マスクをしたリポーターは、目に獰猛な光をたたえ、罪を認めない犯罪者を追い詰めるかのようにまくしたてた。
父さんはリポーターの目をひたと見据え、リポーターの質問を最後まで聞き終えて言葉を発した。
「肝心なことは、感染者が減ったか増えたかではなく、国民の一人一人がきちんと感染対策を講じて、医療機関の逼迫を回避し、一人でも多くの命を救うことです。国民のみなさまにはよくご理解頂き、今後もさらなるご協力をお願い申し上げます」
父さんは一方的とも言える態度で会見を切り上げた。そして、「位田会長! まだ質問があります!」と口々に叫ぶリポーターらを振り向きもせず、スーツを着た数人の男性とともにカーテンの奥に消えていった。
なんだ、この説明は。これじゃあ、まるで政治家じゃないか。
画面がスタジオに切り替わる。
「さきほど国会で行われた政府分科会長の説明でした。今後も引き続き、感染対策が必要だということですね」
スタジオのキャスターが、あっけなく終わった会見を巻き取るようにコメントし、何事もなかったかのように番組は次のニュースに移った。
お盆を持ってテーブルに料理を並べていた母さんがテレビを見てのんきに言った。
「へー、感染、減ってきてるんだ。よかったわー。感染が収まらないことにはお父さんもよ気が休まらないし、もう若くないから体が心配よ。さあ、食べましょう」
時計を見ると時刻はきっかり18時30分。
有田焼に盛られた青椒肉絲がテーブルに並べられた。炒めたばかりで湯気が上がっている。母さんは熱いものは温かいまま、冷たいものは冷えたまま食卓に並べるのをモットーにしている。
食卓に着くのが遅れて料理が冷えると、途端に怒り出すので厄介だ。僕は腰を浮かしてダイニングテーブルに移動する。
父さん、一体なぜこんな数値を公表したの……?
頭の中がガンガンする。
僕は腹わたを煮え繰り返しながらも、しぶしぶと食卓に着き手を合わせた。
風情ある老舗旅館街は、箱根温泉だろう。画面中央を流れるのは早川か須雲川だろうか。どうやらリポーターは、箱根の駅前にいるらしい。
「ご覧ください! ここ箱根温泉は、大勢の観光客でにぎわっています。観光している人に話を聞いてみます」
街路をそぞろ歩く観光客にリポーターが近づき、初老の女性3人組にマイクを向けた。
「どちらからですか?」
「埼玉からです。GOGOトラベルを使ってきました。コロナの前はしょっちゅう3人で集まって旅行してたんですけど、コロナで行けなくなりましてね。今日、久しぶりの旅行だということで、もううれしくてうれしくて、ねえ」
マイクを向けられた女性が答え、隣の女性の顔をみた。
「感染は心配だけど、こんなにお安く泊まれるチャンスなんてないでしょう?普段よりランクアップしたホテルに泊まれたんですよ」
もう一人の女性も嬉しそうに答えた。
3人組の女性たちの首や手にはアクセサリーが光っている。艶のある素材のシャツは量販店のものではなさそうだ。
何がラッキーだよ。家でおとなしくしとけよ。
僕は内心毒づいた。
今月から政府がGOGOトラベルキャンペーンを開始し、割引料金で旅行できるようになったせいで、全国の観光地に人があふれ返り、画面の向こうの箱根もにぎわっていたのだった。
インタビューを終えた3人連れは旅館街に消えていった。次にリポーターは通りの土産物店に入り、店主にマイクを向けた。
「こんなにお客さん来てくださって、本当に有難いです! コロナ禍になってから、箱根もずっと人気がなくがらんとしてましたから、寂しいものでした。バイトさんにも泣く泣く辞めてもらって夫婦だけで店を続けてきたものの、実はもう少しで店を畳もうかと思っていたんです」
店主の顔は蒸気していた。店内はマスクを付けた客でにぎわっていた。
待ちに待ったサロン会の日がやってきた。
僕は部屋のMacから招待リンクを開いた。今日の参加者は31名。前回より多い。いつもながら琉斗が開会の言葉を述べた。
「さて、今日のテーマです。今日のテーマはコロナの後遺症についてです。コロナウイルスに感染した後、呼吸器障害や頭痛、倦怠感が残るのはパンデミックの初期から言われていましたが、変異後は、ブレインフォグや認知機能の低下など、脳機能への障害が残った事例が報告されています」
琉斗がブレインフォグの患者のケースレポートを画面共有した。
「こちらは当院の症例ですので、みなさまに事前にお配りした資料には入っておりません」
共有されたレポートには、基礎疾患の有無、現病歴や治療経過、検査データなどが詳細に載っている。
「ビジーなスライドで大変申し訳ありません」
参加者が画面に近づき、目を凝らしたのを見たからだろう、琉斗が謝った。
参加者がおおよそ資料に目を通したのを見計らったように、三木谷教授が口を開いた。
「これまでのコロナ患者では、ウイルスが脳に侵入したという報告はありませんでした。しかし、第2波を引き起こしたヨーロッパ型では、ブレインフォグなど脳への影響が多数報告されています。ウイルスがどのように脳に侵入したのでしょうか? それが今日の議題です」
僕も先日から、Lancetに投稿されていたブレインフォグのケーススタディが気になっていたので、タイムリーな話題に胸が高鳴った。しかも日本の症例が見られるなんて、有難すぎる。
「これまで感染症は一過性のものと考えられてきましたが、コロナは違う。頭痛や倦怠感、そしてブレインフォグと言った脳機能のダメージなど、慢性的な後遺症が起こっている。これまでの感染症とは明らかに違います」
三木谷教授が述べた。
「後遺症が起こることを踏まえると、感染症は一過性のものではなく、長期的な経過観察が必要だと意識を変えなくてはなりませんね」
三木谷教授のコメントを受け、参加者の一人が述べると、参加者全員が頷いていた。
「しかし、ブレインフォグはどのような機序で起こるのだろうか?」
三木谷教授は眉を寄せた。
琉斗が数枚のスライドのうち、サッと脳のMRI画像を画面共有した。
「ウイルスが脳に侵入した証拠はない。全身性の炎症が脳血管内でも起こり、脳の血流低下を引き起こし、認知機能の低下やブレインフォグが起こったと考えるのが現時点では妥当なのではないだろうか?」
日本医療大学の教授がコメントした。
「コロナ前に全く脳機能に異常がなかった患者なのに、一時的な脳血流の低下でこれほどの急激な変化が起こるものだろうか」
名だたる研究者たちが口々に意見を出し合った。
信ぴょう性がありそうな意見もあれば、仮説レベルの見解、中には突拍子もないコメントもありながら、縦横無尽に意見が交わされた。
すごい。面白い!
様々な意見を聞きながら、僕は興奮していた。夢中で議論を聴いているとあっという間に時間は過ぎ、21時きっかりに会は閉会した。
僕はその晩、ブレインフォグについてさらにデータベースを検索し、コロナウイルスが脳に与える影響について情報収集した。僕は論文や症例報告を、読んで読んで読みまくった。
翌日、琉斗から《この論文読んでみて。なかなか面白かったよ》とLINEが入った。
僕と琉斗はLINE交換してからというもの、しょっちゅうやり取りを楽しむようになっていた。
しかし僕は、慶王大学大学院医学研究室の助教で、忙しいはずの琉斗が、なぜこうも僕にかまってくれるのか、不思議でもあった。
僕は琉斗から送られた論文にさっと目を通すと、《面白そうだね。サンキュ》と返事した。そのついでに、冗談めかして、《琉斗って他に友達はいないの?》と聞いてみた。
すると意外にも《友達っていう友達はいないんだよね》と返ってきた。
琉斗いわく、研究室の人間関係はこれといったトラブルもなく表面的には何ら問題ないが、本音の部分では互いに何を考えているかわからないと言う。
琉斗のLINEのメッセージはこう書かれていた。
《所詮、同じ研究室の人間は、下から上までライバルみたいなもんだからな。ポストの奪い合いっていうか、相手を蹴落としてでも自分のポストを確保しなけりゃ、自分が研究室から出ていかないといけなくなるしね》
僕は親指を動かして文字を入力する。
《結構シビアだね》
すぐに既読になる。
《まあね。研究者って、そもそも任期付きっていう時点で会社員とは立場が違うからな。厳しい世界だよ。任期が切れる前に自分でポストを探さなきゃ、いきなり路頭に迷うことにもなりかねない。俺もそうだけど、多くのポスドクがかなりの額の奨学金の返済を抱えてるしさ。研究資金だって自分で獲得しないといけないけど、科研費は申請した人間が全員獲れるわけじゃないし、あ、科研費っていうのは研究費なんだけどね。これが研究者の大きな資金源なのよ。だからっていうか、研究室のメンバーとは、互いに腹の底は見せない関係でもあるよね》
《へー、ドライな関係なんだ》
僕はiPhoneを握ったまま立ち上がり、ごろんとベッドに寝転んだ。
僕らはあまりスタンプを使わない。しかも一回のやり取りが結構長文だ。チャットにはふさわしくない文章量だった。でもすぐに既読になり、返事がくる。そのテンポは僕にとって好ましいものだった。
《だけど小学校でもそうじゃない? 俺も子どもの頃、学校に仲のいい友達なんていなかったよ。クラスではみんなと仲良くしとかないと担任にいい印象持たれないから、それなりにうまく付き合ってたけど、卒業してから地元離れたから会うこともないし、今じゃ小中高の連中がどこで何してるかわかんないよ》
《ふーん。そうなんだ》
学校での友達付き合いをどう考えているのか、自分以外の人間の意見を聞いたのは初めてだった。クラスメイトと「それなりに付き合う」というという話を聞いて、僕は目から鱗だった。
僕の返事をそっけなく感じたのか、琉斗が追加説明するメッセージを送ってきた。
《他のヤツらはどうだかしらないけどね。だけど、大学卒業してふつうに就職したヤツらも……、企業とか会社での人間関係もそうなんじゃない? 同僚だからって仲いいとは限らないし、プライベートでもそんな付き合いないんじゃないんじゃないかな。今は会社でもコロナで飲み会はなくなってるし、そうじゃなくてもたぶん、仕事終わったらみんな家に直帰じゃないの?》
人間関係ってホントよくわからないな、と僕はため息をついて返信した。
《大人の関係って殺伐としてるんだね。ま、子どもの世界も結構シビアだけど》
僕はLINE画面を見つめて笑った。琉斗も画面の向こうで笑ってるように思えて、うれしくなった。
僕はいつの間にか琉斗に胸の内の思いをいろいろと語るようになっていた。
互いに共通点があり、共感できる。コロナ禍だからとはいえ、オンラインでのやり取りで誰かと分かり合えるとは夢にも思わなかった。もしかしたら、琉斗は人生で初めての「友達」かもしれない。僕は心がほくほくと温まるのを感じていた。
LINEの受信マークがつく。
《そうだ、三木谷先生が「サロンは楽しんでくれてるかな」って聞いといてくれって言ってた》
《「そりゃもう、めちゃくちゃ楽しいです」って伝えて》
僕は即答した。サロン会は非常に刺激的で、エキサイティングだった。誰かと議論することがこんなにも楽しいということを、僕は初めて知った。
すでにもう、月に2回の開催が待ち遠しくてたまらない。今はコロナ禍のためオンライン開催のみだが、以前は三木谷教授の研究室でリアルで開催されていたと言う。僕はこのサロン会なら、リアルで参加してみたいと思い始めていた。
