見出し画像

「言葉にできない違和感」をごまかさないための一歩と、有料化できないnote。

10年後、その先と、この職場で働く自分が想像できない。かといって、今すぐどうこうしたいわけでもない。

そんな釈然としない気持ちを抱えたまま、働き続けていた時期がある。

ここ最近、同僚や先輩との会話の質が、少しずつ噛み合わなくなってきた。
前はあれほど楽しかったのに、今はなんだか「大切にしているもの」がずれてきている感覚がある。

時間がきたら、一刻も早く帰りたいと思ってしまう、この感じ。

こうした「言葉にならない違和感」は、気づかないふりをすればするほど、なぜか、大きくなっていく。

よく「一度嫌いになった人は、どんどん嫌いになってしまう」と言うが。
私も割とそのタイプだ。一度そうなると、嫌なところばかりが目についてしまう。

そういう自分が嫌になる。だから一旦、遮断する。考えないようにして、その場だけをやり過ごす。誤魔化して、感覚を麻痺させる。

そんな自分に、いよいよ嫌気がさしてきた。

その「言葉にならない違和感」に、ちゃんと向き合うようになったのは、些細なことがきっかけだった。

「何者か」になりたい自分と、余裕のない現実

理学療法士として、医療・介護の現場で働いていたころの話である。

当時は、医療従事者たるもの、年功序列のその現場で職務を全うし、時期が来たら管理職になり、やりがいを感じながら安定した暮らしを回していく。
そんな未来を、ぼんやりと思い描いていた。

時期がきたら結婚して、子供を産んで「安定したくらし」を回していく。
そういう未来も悪くない。なにせ、みんなしているし、それなりに幸せそうだ。

けれど、その「ぼんやり」とした未来と現実とのあいだに、少しずつズレが生じてきた。

「時期が来ないと開かない未来」で、その曖昧なタイミングが一向に見えない。その一方で、仕事は忙しくなり、責任も増える。
それなりに評価はされている。割と信頼もされているし、できることは着実に増えている。

それなのに、心が前に進んでいる感覚が、なぜか、あまりなかった。

そんな2010年代後半〜2020年代前半の時期。周囲では、独立する人や自分のやりたいことを叶えていく人が少しずつ増えていった。

大学院に進学し「やりたいこと」を突き詰める人。自費でサービスを始める人。SNSで発信を強めていく人。フリーランスとして自由に働いているように見える人。

みんながキラキラして見え始めるそんな流れの中で、「今の自分ではない何者かになりたい」そんな気持ちが、ふと私の中にも顔を出すようになった。

とはいえ、現実はそんなに余裕がない。

定時で帰れることはほとんどなく、帰宅すれば家事が待っている。
ようやく一息ついたら、ソファでゴロゴロしながらドラマや映画を無心で見る時間も欲しい。
気の合う同期と、ただぐだぐだと飲みに行く夜も。

独立するような、いわゆる「ガチ勢」は、そういった余白の時間をすべて自分の「やりたいこと」に注ぎ込める人たちなのだと思っていた。

「今の私には、そこまで頑張る気力はないなー。」

そう思っていた。

頑張れない、わけじゃない。でも、人生を賭けるほどの覚悟もない。中途半端な場所で、ずっと足踏みしている感覚だった。

そんなことを、ぼんやり考えていた時期があった。

「どう生きるか」と「どこで、どう働くか」。後者は、その世界に入った後で、ある程度やり切ってから見えてくるものなのかもな、と思うと、就活って確かに難しい。

日経新聞を読んで

なんとなく「書くこと」にした。

そんな矢先に訪れたのが、「書くこと」との出会いだった。

きっかけは、本当に些細なものだった。
すでに独立して、軽やかに働いている先輩とたまたま飲んだ日のこと。
会話の流れから、

「そういえば、noteっていうブログみたいなのがあってね。使いやすくて最近ハマってるんだけど。これから流行りそうだし面白いから、長島もやってみなよ。無料だし。」

「へー、なにそれ。note?アメブロとかじゃないの??」と軽い気持ちで見てみることにした。

背中を押された、というほどの出来事でもない。未来が変わる予感がしたわけでもない。

ただ、文章を書くという行為そのものに、自分でも気づいていなかった興味があったのかもしれない。

「どうせ誰も読んでいないしな」と思うと、なんだか自由に書ける気がした。(いや、普通は読んでもらうために工夫をするんだけど。←)

それまでの私にとって、文章を書くことは、勉強の一部や仕事の記録、説明のためのものだった。誰かに正確に伝えるための文章。

それが、正解も、評価もないまま、好き勝手に自分なりに言葉を並べていい場所になる。

その感じが、思っていた以上に新鮮だった。

もちろん、文章を仕事にしたり作家になりたかったわけではない。
当時、流行っていたアメブロ界隈の人のように、キラキラしたくらしのカケラもない。

ただ、理学療法士として働く中で大切にしてきたことや、違和感を抱えながらも引き受けてきた日々を、一度、自分の言葉で外に出してみたかった。

今の仕事を辞めるでも、大きく変えるでもなく、今いる場所は大事にしながら、やっている仕事や学びを言語化してみる。
そういう居場所を、そっと作ってみる。

それくらいの感覚だった。

なんとなく「書く」の5年後。

気づけば、あれから5年が経っている。私のnoteも、本格的に書くようになって5年以上経っている。

noteを続けたことで、「書くこと」のスキルが上がったのはいうまでもない。なんでも経験が物を言う部分は確かにある。

いろんなことが重なって、結果的に著者になった自分がいる。ここだけを切り取れば、ちょっとキラキラしてみえるかもしれない。

しかし、である。
「書くこと」が仕事になっている今でも、正直、まだぐるぐると迷っている。

だから今でも、どんなに薦められても、noteは有料化できないでいる。
ここには、自分が書きたいことしか書いていない。
誰かの役に立つとか、価値があるとか、そういう整理ができないままの雑多なエッセイだからである。

しかし、こう言う「自由に書ける場所」というのは、5年前の私にとっても今の私にとっても、割と重要な場になっている。

言うなれば、「正直な自己表現の場」である

変な肩書きや自己紹介を並べるくらいなら、今日もこのnoteを読んでくれている人たちのほうが、私のことを、ずっと濃く理解してくれている気がする。

人生の2つの挑戦

仕事にするための挑戦と、自分の世界を広げるための挑戦

どちらも大切にしたいと思っている。ただ最近は、後者の輪郭のほうが、少しだけ濃くなってきた。

「何者かの自分」になろうとして、ぼんやりした影を追いかけるよりも、自分としての表現を、少しずつ外に出していく。

迷っている自分をそのままにして、心が向くほうへ、一歩だけ足を出してみる。

挑戦という言葉は、なぜか、すぐにキャリアと結びつけたくなる。
目に見える結果を求めてしまうのだ。
でもそれは、後からついてくるのが、おそらく私の人生のようである。

キャリアを掴みにいく一歩もいい。けれど、そこまで意図しない、気ままな一歩も、案外、悪くない

と思うのだ。

理学療法士としての視点や、独立後にキャリアを広げる途中で感じた「忘れたくないこと」や「学び」(たまに雑談)をnoteに書いています。「いいね」やフォローもぜひ、お願いします。

ぜひ!

『高齢者のくらし図鑑』Gakkenメディカルケアサービスより。
3刷が決定しました(ありがとうございます)

Amazon ベストセラー1位となりました『高齢者のからだ図鑑』も、ぜひ覗いてみてくださいね。


いいなと思ったら応援しよう!

長島佳歩|理学療法士 最後まで読んでくださりありがとうございます^^! チップはいりませんので、良いと思った記事は、ぜひシェアしていただけると大変喜びます笑 理学療法士として、体のこと、心のこと、高齢者介護のこと、はたまた趣味の海外のくらしのことなど、体験からの学びをシェアしていきますね^^