「そういう人」と思われてからが、自分の人生なのかもしれない。キャリアもプライベートも。
「そういう人」と認識されると、一気に自分が出せる。むしろ「そういう人」と認識されてからが自分の人生を生きている感じがする。
そんなことってないだろうか。
逆に、職場でちゃんとしている人、家庭でいい妻やいい母親であること、友人関係での頼りになる存在。一度そういう役割に入ると、そこから少し外れるだけで一気にまわりからの視線が変わる。
「え、どうしたの急に?」
と心配されるほどに、自分を出せなくなる。
そういうことって、あると思う。
理由がないと、なにかと許されない空気。言語化しないと誤解される空気。
その空気を吸い続けていると、人はだんだん、「その場に合わせる方が楽」と動くことをやめてしまう。
そんな自分から抜け出したかった私がやってきたことと、その先に見えたことを。今日は、そんな話を。
王道のキャリアでは、満たせなかったもの
数年前まで、まるで普通の理学療法士だった。(それはそれでよかった)
新卒から総合病院で働き、理学療法士としてのキャリアの王道を歩いていたと思う。
王道は、安心で評価の軸もある。まわりも同じ道を歩いているから迷いにくく孤独になりにくい。そして、なにより立場も説明しやすい。
今いちばん聞かれて困るのが「今どんな仕事をしているの?」という質問。
しかし、王道にはその分だけ、枠がある。
病院で働いていると、ある程度の制約がかかる。副業は禁止。院内のキャリアを充実させる以外の選択肢は、表向きには少ない。周りの声も気になる。ちょっと目立つことをすると、すぐ噂になるし上司からはまず、好かれない。
そこまで派手に何かをしたいわけではなかったが、
ただ、もっと自分の人生を充実させたい。
もっと世界の理学療法を見てみたい。
自分にできることに、制約なく挑戦したい。
そんな漠然とした思いがあった。
しかし、組織の中にいると、その「その程度の気持ち」さえも、なんだか異物に思えてしまう。
自分の中で小さく芽生えた好奇心が、周囲の目によって急に「余計なもの」みたいに扱われる。
組織を飛び越えたら、他人は意外と他人事だった
そんなモヤモヤを払拭できずに独立して、理学療法士の王道を外れた今。
そこで気づいたのは、人は思う以上に「他人は他人事」なのだ、というまさかの事実である。
しかしこれは冷たい話ではない。むしろ救いである。
組織の中にいると気づかなかったが、一度“組織という枠”を飛び越えてみると、思いの外、他人はいい意味で人に興味がない。
そして王道を外れた瞬間に、なぜか「ちょっと変わった面白い人」という立ち位置になった。←
私の中身が変わったわけではない。ただ、思うがままにやりたいことを、やり続けただけである。
相変わらず、わりとまともな理学療法士だし(?)、人と関わることが好きだし、学ぶのも好きだ。ただ、環境が変わっただけで、周囲の見え方が変わった。
すると何が起きたか。
普通の理学療法士には飛び込んでこない相談が、飛び込んでくるようになった。
海外の視察の話が来たり、行政とのプロジェクトの話がきたり、書籍の執筆の話がきたり…
病院の枠内では想像していなかった仕事の話がきたのである。
むかしは、ただの異物だったのに。
「あなたなら、その相談にのってくれそう」
「あなたなら、一緒に問題を解決してくれそう」
そんな、なんの根拠もない可能性を秘めた人。つまり私は、いつの間にか「そういう人」になっていた。
そして、「そういう人」になった途端、疑われるより理解されることが増えたのだ。
この辺から、なんだか自分を出せるようになった気がするのだ。
結婚しても、変わらないこと
これはプライベートでも同じである。
結婚しているのに、夫を置いて一人で海外に10日も出かけるなんて、大丈夫なのか。
一時期は、(特に身近な人から)そんなことを言われていた。
たしかに、心配される気持ちはわかる。これは日本の女性像が絡んでいるのかもしれないが。私はそのたびに、心の中で小さく思っていた。
夫は夫である。むしろ私に生活を把握されたり、コントロールされることなど望んでいない。
私だって結婚したとて、自分は自分なわけである。
「結婚」というラベルがついた瞬間に、“妻”という役割が強くなる。すると、誰かが勝手に作ったテンプレの中に押し込まれやすくなる。
旅行に行くことが問題なのではない。「妻なのに」という枕詞が、やたらと重くなるのが問題なのである。
しかし、である。そんなまわりの言葉など気にもとめず(←)自分を貫いて、14〜15カ国も、すきあらば旅をしていると、周りの反応が変わってくるのだ。
「次はどこにいくの??」
驚くほど、心配が興味になり、疑いが「そういう人」という前提になる。
そして私はまた、ひとつ「そういう人」になっていく。
「そういう人」になるごとに、変わるもの
こうやって気づくのが、「そういう人」と思われるごとに自分が自由になる、ということだ。
ここで言う自由とは、何でも好き勝手やる自由ではない。もっと地味で、もっと切実な自由である。
誤解を恐れなくていい自由。
いやむしろ「自分に正直な自分」でいられる自由。
自分を縛っていた謎の制約が、どんどんなくなっていく。
逆に言えば、これまでずっと、その謎の制約を自分で縛っていたのだと思う。
「こう思われたらどうしよう」
「ちゃんとしている人と思われなくなったらどうしよう」
そうやって、周りの期待に合わせて自分をよく見せようとしていたとさえ思う。
たしかに、王道を歩いていた頃の私は、ちゃんとしていた。
しかし、今の私は、ちゃんとしていないわけではない。ただ、もう少し自分らしく生きている気がしている。
それはきっと、私が“自分の選択”を続けた結果、周囲がそれを「いつもの私」として扱ってくれるようになったからであると感じる。
「そういう人」と思われてからが、自分。この感覚は、たぶん多くの人にとっても救いになるのでは、と思うのだ。
淡々と自分を出していくと、たどり着く場所
そんな場所に向かってひとつ行動を起こすとしたら、これを提案したい。
理由を語らずに、淡々とやりたいことをやること。あたかも最初からそうであったかのように。
たとえば。
「今日は定時で帰る」
「週末は一人で出かける」
これらを、わざわざトピックにせず、正当化もしない。
“そうしたいから、そうする”ただそれだけの理由で動いてみると案外まわりは「そういう人」と思う(かもしれない)。
「そういう仕様なので」そのくらいのテンションで、さらっと。
不思議なもので、人は“仕様”には慣れる。繰り返すと、周囲は勝手に「そういう人なんだ」と学習されていく。
最初はやっぱり少しの勇気が必要だけれども、わりと本気で大事なことなのではないか、とそう思っている。
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