『SUPER HAPPY FOREVER』と幸福のVターン
正直Uターンでも良いのだが、画面の中で、また画面を通過する形で劇中の登場人物がV字に移動しているのでVターン。五十嵐耕平監督作 『SUPER HAPPY FOREVER』(2024)のVターンに関して指摘したい。
⚠️ネタバレあり
同じ場所は既に違う場所
人けのない伊豆半島の観光地を友人の宮田(宮田佳典)と訪れた佐野(佐野弘樹)は赤い帽子を探している。どうやらそれは、1ヶ月前に亡くなった佐野の妻、凪(山本奈衣瑠)が5年前、2人が出会ったこの場所で失ったものらしい。特に手がかりもないまま妻の亡霊を追っているような廃人である佐野は、ホテルの従業員アン(ホアン・ヌ・クイン)が口遊む歌を頼りに妻との出会いを想起する。

浴場で倒れた老人をロビーで運ぶ救急隊員を追い、偶然出会った宮田の怪しげなセミナー仲間との気まずさから逃れ、赤い帽子と思わしきものを店の中に取りに、佐野はVターンを繰り広げる。フレーム──時にフレーム内の遮蔽物や線によって演じられる──アウトとインにより構成されるVターンは、何の変哲もない風景をその外側を意識させる強烈なショットに変えてしまう威力があるが、このターンは決して画面内に限定された快楽のために用意されたものではない。
そのターンは中盤、物語が過去に戻り、エピローグに現在の続きが描かれる本作の構成をなぞるようなVターンなのだ。やはりそれをUターンと言い切れないのは、彼の移動が決して辿り着きたい過去へと到達できない、厳密には過去に戻ることができないからだ。佐野は画面内だけでなく、別の画面・時間における移動を再び反復・反芻する意味でもVターンをしている。現在の彼が訪れる場所は、過去に凪と訪れた場所であるが、当たり前のことだが、人は同じ場所に行ったからといって過去の出来事を再度経験できるわけではない。同じ場所へ戻っても、そこは実際は違う場所だ。そして、その差異は本作のテーマとも言える記憶の"忘れ易さ"を補強する。
カメラという記憶装置

5年前、凪は携帯を忘れたままホテルに着く。一緒に来るはずだった友人との電話の約束も忘れ、またホテルにカメラを置き忘れクラブへ行ってしまう。更に、出会った日に佐野からプレゼントされた帽子をどこかに忘れ、そして彼との朝食の約束を忘れる。彼女の忘れ易さとは一体なんだろうか。
彼女が持つカメラは、よく言われるように記憶を固定化する装置として、写したものを未来にかけて保管する。だからこそ、忘れっぽい彼女のアイテムがカメラであることが理解できるが、彼女が具体的に撮影したものとして我々が知る、帽子を被る自身の鏡像と、スマホを今にも落としそうな女性の断片的記憶は、同時に佐野にとっても明らかな記憶である。
一方で、本作を撮影しているはずのカメラは2つの時代の夏を撮っているわけだが、我々観客はカメラによって映されたことしか知り得ず、この観光地の外で彼らがどう生きているのか、また5年の間に何があったのかは具体的には示されることはない。また言及があっても──宮田がハマるセミナーの怪しさが顕著だが──その信憑性は薄い。よって、逆説的にカメラに撮られたもの、画面内の出来事は真実であることが強調される。

観光地の外、画面の外にあるものは、信用ならないのと同時に劇中人物たちにとって信じたくないもの・出来事でもある。具体的にそれは死である。凪の死、宮田の父の死、凪の友人の祖母の死、タクシー運転手が語る幽霊。浴場で倒れた老人だって画面の中では生きていることが説明されるが、外に出た後、元看護師の宮田によれば彼は死ぬと言う。映画とは生の世界であり、フレームの外は死の世界であると繰り返し描き続けるのはウェス・アンダーソンである。
佐野は自分に背中を向ける宮田に、凪の死んだ姿を思い出すからやめるように言う。信じたくないことは忘れたいものでもある。この映画の冒頭で佐野は携帯を海に向かって投げるが、外界との接触手段を捨てても彼は外界の死に囚われてばかりだ。忘れたいものは、楽しいヴァカンスの間も思い出されるばかりで、逆に信じたいもの、そこにあって欲しいものはいつまでも見つからない。
そして、何より画面の外に消えてしまったのは赤い帽子だ。回想の中で凪が、海岸で写真を撮るショットから次のショットへ切り替わると、すでにそこに帽子はない。帽子は画面の外へ追いやられてしまったのだ。凪も帽子を失ったあとに海岸をVターンして探すが、その帽子を再び画面の中に探しても見つからないだろう。繰り返すようにそれは画面の外にあるのだから。
Vの谷間
だからこそ、帽子は画面の外、記憶の外、空白の5年間の間に見つかっていた。凪に、もし帽子を見つけたら被っていて欲しいと約束されたアンは一体何者だろうか。ベトナムから日本に出稼ぎに来た彼女は、運良く差別的な労働の犠牲にならず、ホテルでのルーティンをこなしてきたことは想像に難しくない。ルーティンとは日々の行動の繰り返しであるか、それもまた未来へ向かった反復、Vターンである。彼女のVターンが佐野によるそれと異なるのは、その先に目的がないからだろう。彼女の反復は彼女が止めない限り永遠に続く。彼女こそ本作のVターンを象徴するかのようなキャラクターである。
であれば、彼女は目的を持たなかったからこそ、帽子を見つけたのかと言われればそれも違う。彼女はあらかじめ、物語全体を進め、そして終わらす力を持つ存在として描かれていた。彼女が出稼ぎに来た期間は5年間であると説明があり、それは大体この映画で扱われる5年間と一致する。また彼女は何気ないVターンの間や終点にいる。ホテルのフロントで佐野に帽子の落とし物の有無を聞かれた支配人と思わしき男性は、バックヤードを確認をしに行き戻ってくるという往復──これもやはり時間が進んでいるためVターン──をするが、その間にアンが初登場したことを思い返してみる。また、過去と現在を繋ぐ歌に引き寄せられた凪は、カラオケの予行を終えたアンを呼びかける際に階段を降りるが、アンとはその終点で再会する。そして、佐野が写真を超えて映像によって凪を想起できたのも、もちろんアンの歌によるものであるのと同時に、彼はそれを聴くために煙草をドアの間に差し込むが、そのドアこそがV字を形成していることを見逃してはならない。

永遠の海、幸福な映画

佐野を置いて、カメラはアンを追い、帽子の元まで我々観客を運ぶ。佐野は結局帽子を見つけられなかっただろう。しかし、佐野はそれまで写真でしか出会えなかった凪、過去に生きる凪に、アンの歌を通して再会することができたのだ。
劇中人物の歩行以上の速さで映画は進む。映画こそ巻き戻すことはできないというか、それをするのは御法度だ。しかし、佐野は彼が知り得ない凪の映像を、我々観客と共に見る経験をした。彼の知らない凪の視点の記憶、それは同じ過去、偶然を眼差しても、他人の視点に立つという、一つの対象を眼差すこと、視点のVを形成することから始まった恋の、Vターンの結果なのだ。やはりそれも一度きりの経験だが、それまで彼の外にあった経験で、求めていた幸福である。
そしてカメラはカップラーメンを食べる二人を平等に眼差して見せる。二人による視線が一つに一致した偶然から、二人を同時に眼差す瞬間に我々観客は立ち会う。目の前にある二つの対象を同時に見ることは可能なのだろうか。二人を背中越しに、凪にとって最も幸福で、永遠であってほしかったこの瞬間、我々観客は一つの定位置からV字に二つの対象を見る。叶わないVターンの果てに辿り着いた別のV構図による幸福、フレームの外にいる我々が視線を通してフレーム内と共犯関係を結ぶ奇跡が、ここで起こる。
本作は幸福な映画であり、佐野は永遠の海、映画の外へとフレームアウトし、アンは映画を終えたのだ。
また見つかった、
──何が、──永遠が、
海と溶け合う太陽が。

3,365字
文:毎日が月曜日
