『エイリアン:ロムルス』と籠の中の夢
⚠️ネタバレあり⚠️
鳥籠の中
レイン(ケイリー・スピーニー)は夢を見る。太陽が差す草原にただ一人彼女は腰を下ろしている。その後彼女が目を覚ましたことから、直前の光景が夢であったことを我々は知る。レインにとってその夢とは一体何を意味するのだろうか。使えない物、要するにゴミで溢れた植民地惑星で労働に搾取され続ける彼女にとって、何もない大地は「自由」を意味する。彼女が渇望するものとは、何もない状態であり、物ではない。ただ植民地惑星にはない太陽さえあれば、我々地球人にとって崇高な自然をそのまま享受できさえすれば彼女はそれでいい。労働の目的が、個人の夢から離れ、生存をも捨て、労働のための労働と化した時、友人からの誘いの回答に悩む彼女は、籠に囚われた鳥を一瞬眼差す。自分がその鳥と同じく囚われている状態にあること、そしてその格子から外の世界が見えることに惹かれ、彼女は貨物船に乗り旅立つ。しかし、彼女は気づいていない。再び囚われた場所へと入っていくことに。
フェデ・アルバレスの『エイリアン:ロムルス』(2004)は、シリーズの根底にある「囚われる」ことの主題に最も接近した作品である。
再び眠るために
これまでの『エイリアン』シリーズも、目覚めるところから物語は始まった。コールドスリープから強制的に起こされたクルーは、最初目の前に用意された生活や仕事に順応しているが、エイリアンの出現で秩序は崩壊し、それを倒した頃には元の生は崩壊しており、自身に唯一残った生存を受け入れて再び眠りに落ちる。覚醒から睡眠へと至るお約束の構成が、間に起こる「悪夢」を通して現実(非夢)のままならなさを告げる。夢を見ている間は、最も安全で満たされた状態だ。リドラー・スコットが前作『エイリアン:コヴェナント』(2017)で、ラスト夢を見る直前に最悪の事実を主人公に見せつけたのは、この構成を──まるでエイリアンのように──内側から壊す、最低の発想であったことを思い返す。
エイリアンはなぜ恐怖の対象なのだろうか。それは目の前に用意された秩序を壊す他者だからだ。他者とは、我々の主観、主体性や固定概念を否定する存在である一方で、我々が内側に籠っていた現実とは別の可能性を提示してくれる存在だ。だからエイリアンから逃げるクルーは、同時に別の現実に向かって走る。これまでのシリーズはそうした現実世界の外側への気づきを、全編通してゆっくり描いてきた。それこそ最初の目覚めは出産のように不快で、生まれたばかりの子供達は与えられた生活に順応するが、仕事を経験し、妊娠する頃には、その違和感に気づかされる。出産した子供が自分たちと似ても似つかないイメージであることを受けて、現実──それは我々の認識可能な世界──を超えた存在や場所があることに怯えるのと共に、期待する。しかし、現実を捨てることのリスクもまた恐怖であり、彼等は結局他者を排除し日常生活への回帰を望むが、もうそこには子供の頃の無垢な眼差しは残されていない。最後、リプリー(シガニー・ウィーバー)が宇宙を漂うこととなる脱出艇はまるで棺桶のようで、『エイリアン』(1979)という映画が、起きて寝るまでの1日の出来事であるのと共に、一生の出来事であるかのようにも思える構成が取られている。
生まれ、社会に属し、社会を疑い、しかし離脱を諦め、死んでいく一生を毎回描いてきたこのシリーズだが、いつものクルーより平均年齢が大きく下がった『ロムルス』では、既に彼等は生まれており、社会を疑った状態から始まる点は初々しく感じられるが、それはティーンムービーとしてのジャンル、そしてやはり『エイリアン』シリーズの囚われ性を強調するための省略なのだろう。夢は現実の素材を借りて作られる。つまり、現実を知らない者は夢を見ない。レインが夢見る大地、そこはおそらくこの新シリーズが進んでも、決して辿り着けない場所、または存在しない場所であるだろう。仮に在ったとしても、そこでの脱社会的な生存は難しい。『ロムルス』は「社会を疑い、しかし離脱を諦める」、要するに社会に囚われたまま生きることを受け入れるまでを描いた映画として、如何に囚われることを扱うのか。
囚われていた自由
宇宙に出てからもレインたちは常に囚われている。それまで不可視の労働に囚われていた彼女であったが、今度は可視的に宇宙施設に、その内部の部屋に、エレベーターに、貨物のカーゴに囚われる。特にエレベーターは格子によってできており、序盤の鳥籠の反復である。
自らが永遠に籠から出られないことを知ったレインはエレベーターに戻りエイリアンを退治しに行くが、重要なのは、彼女が格子を上下に開き、それを跨ぐショットだ。籠と籠が永久に連なった生を象徴するかのように、彼女は籠の中から籠の中へ入っていく。また、上下の格子によって作られた枠は、スクリーンを意識させる。彼女を閉じ込めているのは映画もまた同じである。映画の外に出たキャラクターは自由であるが、それは死を意味するからだ。ここでも彼女の跨ぎは外への脱出は意味せず、枠はフレーム内フレームとして永遠に世界=映画が続いていることを示すだけだ。

また、彼女は「主人と奴隷」からなる労働から脱したわけが、宇宙施設内でも彼女は「奴隷」の役割を担う。2体のアンドロイドによる指令は、元々ウェイランド・ユタニ社内における命令であるが、レイン達はその命令に従うことになる。どこか段階を踏むゲーム的なミッションに彼女達が従わざるを得ないのは、その対価としてやはり生存を約束されているかのように見えるからだ。
このようにレインたちは常に囚われている。しかし、もう一人囚われて"いた"存在がいた。それがエイリアンだ。
エイリアンは本能的に殺戮を行う点を含めて、法に縛られない自由な存在であるという見方ができるが、しかしその生殖のメカニズムは非常に不自由だ。母体に閉じ込められるところから始まる生は、その囚われた檻を壊すことを最初の目的とする。その後は、確かに集団で行動する場面はあるが、それぞれか一体の複製であるようなエイリアンは、主人を持たない自由な存在である。一見自由に見えるエイリアンこそ、最初は囚われた存在であり、レインの欲望を投射した存在であったのだ。これまでシリーズでエイリアンが人間に対して完全生命体と呼ばれる時「この黒光りするペニスが?」となる違和感はこのようにして拭うことができる(もちろんそれは羨望されるものとしてのペニスに他ならない)。
「奴隷」による捕獲
自分の望んだ姿であり怪物であるエイリアンを如何に倒すのか。これもシリーズで描かれてきたことだが、『ロムルス』においても罠を仕掛ける。罠とは引っかけることであり、引っかけるとは特定の場所に対象を追いやる必要があり、結果的に限定空間された閉じ込めることだ。これまでもシリーズで多くの罠が描かれてきたが、本作の罠は、一つ一つが籠を用いたものであることに注目したい。
フェイスハガーの大群の間を走って逃げるレインたちは、扉でそれらを閉じ込める。エレベーターのシャフトを登ってくるエイリアンを、レインはエレベーターという籠を使って物理的に退治する。最後に現れたオフスプリングに対しては、貨物船のカーゴにそれを追いやり、籠に入れた状態で宇宙へと放出する。反撃の中での囚われのイメージとしては、レーザー銃でエイリアンの大群を撃ち、無重力状態の中、それらから出た酸を避けながら進む彼女はまるで、格子の間を潜って脱獄しているようにも見える。
以上のように『ロムルス』では囚われた「奴隷」であるレインが、自由で「主人」の方に囚われないエイリアンを捕える「主人」となる方法で復讐が遂げられる。レインは生き残ったものの、仲間を失い彼女が望む場所へと辿り着けるのかもわからない。しかし、それまでと同様に何かしらに囚われている彼女は、この悲劇を通して捕える主人公となったのだ。『エイリアン』一作目が主人公を指定せず進み、最後にリプリーが生き残り主人公となる展開を補強する捕獲が『ロムルス』では重要な要素となる。
レインは夢を見る。
3,295字
文:毎日が月曜日
