あなたが今・ここでやっていることが、そのまま修行である
道元が抱いた、修行への問い
鎌倉時代。
武士の世が始まり、社会の形が変わっていく中で、ひとりの僧が、仏教の意味を問い続けていました。
名は、道元。
のちに、日本の曹洞宗の開祖とされる人物です。
道元は若くして比叡山で学びました。
しかし、そこで一つの疑問を抱きます。
人は本来、仏の性質を備えていると言われる。
それならば、なぜ修行しなければならないのか。
この問いは、道元の出発点でした。
修行とは、何かをあとから手に入れるためのものなのか。
それとも、修行そのものの中に、仏道の意味があるのか。
答えを求め、道元は海を渡ります。
向かった先は、中国、宋。
しかし、中国に着いた道元は、すぐに寺へ入ったわけではありません。
最初の三か月ほど、船の中で寝泊まりしていたと伝えられています。
その船に、ひとりの老僧が訪ねてきました。
禅寺で食事を預かる役、典座。
寺の台所を任された僧です。
老僧は、日本から来た椎茸を買いに来ていました。
道元はその老僧を船に招き、お茶を出し、語り合います。
やがて夕刻。
老僧は言います。
食事の支度があるので、寺に戻らなければならない。
道元は引き止めます。
今夜はここに泊まっていかれてはどうですか。
寺には、代わりの人もいるでしょう。
食事の支度より、座禅をしたり、経典を読んだりする方が、修行になるのではありませんか。
そのとき、老僧は答えました。
あなたは、修行のなんたるかを、まだご存じないようですね。
道元は、深く恥じ入ります。
道元は、修行を特別な時間の中に見ていました。
座禅を組むこと。
経典を読むこと。
仏法について考えること。
しかし、老僧が示したのは別の見方でした。
食事を整えること。
椎茸を買いに行くこと。
寺に戻り、今夜の支度をすること。
その一つひとつが、修行であるという見方です。
修行は、日常の外にあるのではない。
日常そのものの中にある。
この気づきが、道元の修行観を大きく変えていきます。
行住坐臥という、生活そのものの修行
仏教の言葉に、行住坐臥というものがあります。
行は、歩くこと。
住は、立つこと、とどまること。
坐は、座ること。
臥は、横になること。
歩く。
立つ。
座る。
横になる。
これは、特別な動作ではありません。
私たちの一日は、ほとんどこのどれかで成り立っています。
だから、行住坐臥とは、生活そのものです。
道元が老僧から突きつけられたのは、この一点でした。
修行とは、特別な場所で、特別な姿勢をとることだけではない。
今、自分がしていること。
今、自分が引き受けている役割。
今、自分が置かれている状態。
その中に、すでに修行の場がある。
この見方を、現代の暮らしに置き換えてみます。
メールを返す。
資料を作る。
人の話を聞く。
食事をする。
部屋を片づける。
休む。
横になる。
普通に見れば、ただの日常です。
場合によっては、ただの作業に見えるかもしれません。
けれど、問いは一つです。
その時間を、心ここにあらずで通り過ぎているのか。
それとも、今ここにある自分の時間として、静かに引き受けているのか。
体は歩いている。
けれど、心は明日の不安に向かっている。
体は座っている。
けれど、心は過去の後悔を繰り返している。
体は横になっている。
けれど、心は休むことを許していない。
行住坐臥の修行とは、そこに気づくことです。
修行とは、今の自分に気づくこと
今、自分はここから離れている。
今、不安が強くなっている。
今、体が重い。
今、呼吸が浅い。
今、自分を責めている。
まず、気づく。
そして、戻る。
戻る先は、大きな行動でなくてもかまいません。
一呼吸する。
水を一口飲む。
手の感覚に気づく。
相手の言葉を最後まで聞く。
今日は休むと決める。
修行とは、常に前へ進むことではありません。
今の自分に可能な一つへ戻ること。
その一つは、日によって変わります。
ある日は、一通の返信。
ある日は、一つの片づけ。
ある日は、一度の呼吸。
ある日は、横になっている自分を責めないこと。
修行という言葉には、どこか「努力」や「克服」の響きがあります。
しかし、ここでいう修行は、自分を追い込むことではありません。
できない自分を責めることでもありません。
弱さを否定することでもありません。
いつも前向きで、強い自分でいることでもありません。
むしろ、今の自分を正確に見ることです。
今、自分の心と体に何が起きているのか。
今、自分は何に反応しているのか。
今、自分にできることは何なのか。
そこに戻っていく。
それが、日常の中にある修行なのだと思います。
あなたが今ここでしていること
道元は、仏道を学ぶことを、自己を学ぶことだと見ました。
自分を知るとは、頭の中で自分を分析し続けることだけではありません。
歩くときに、焦りが出る。
立って待つときに、苛立ちが出る。
座って聞くときに、評価への不安が出る。
横になるときに、休めない自分が出る。
日常の姿勢の中に、自分の癖が現れます。
そこに気づく。
そして、今ここへ戻る。
これが、行住坐臥の修行です。
修行は、遠くにあるものではありません。
特別な場所にだけあるものでもありません。
強い人だけに許されたものでもありません。
歩いているなら、歩く。
立っているなら、立つ。
座っているなら、座る。
横になっているなら、横になる。
その時の自分に気づき、今できる一つへ戻る。
あなたが今、ここでしていること。
あるいは、今、ここで感じていること。
そこから離れずにいること。
それが、すでに修行の入口です。
