『不惑』
前書き
かの孔子は「四十にして惑わず」と説いたという。
だが我々は、四十に手が届こうとしてなお、些末な事柄に心を乱され続けている——。
一、「誘惑」
四十を前にして、物欲は静かになるものだと思っていた。
若い頃のように、流行のスニーカーを追いかけることもない。
給料日に意味もなく服を買い漁ることもない。
そう信じていたのだが、実際には、誘惑はより巧妙になっただけであった。
例えば、古びたラルフローレンのコーデュロイパンツ。誰が見てもただの古着である。
しかし、少し太めのシルエットや、擦れた畝の具合に「これでいいのだ」と思わされてしまう。
気が付けば、深夜のメルカリで値下げ交渉をしている。
二十代の浪費は勢いだった。
四十前の浪費には、言い訳がある。
これは投資だとか、長く使えるだとか、ユニクロより結局コスパが良いだとか。
我々は歳を重ねるにつれ、欲望に理屈を与える術だけが上達していく。
けれど、少し安心もしている。
未だに何かを欲しいと思えること。
心を動かされるものがあること。
それは案外、悪いことではないのかもしれない。
もっとも、その「悪くない」を積み重ねた結果、財布とクローゼットはゆっくりと破綻へ向かっているのだが。
ニ、「魅惑」
四十が近づくにつれ、人は恋をしなくなるのだと思っていた。
少なくとも、若い頃のような熱は失われる。誰かからの返信を待って眠れなくなることも、駅のホームで姿を探すことも、もう無いはずだった。
だが実際には、情熱が消えるのではない。
ただ、形を変える。
例えば、行きつけの喫茶店で、いつも同じ時間に本を読んでいる人。
左手の薬指には指輪がある。
こちらも妻子持ちである。
だから何かが始まる訳ではない。
ただ、雨の日にその人が来ていないと、少しだけ店内が暗く感じる。
若い頃の恋愛は、所有欲に近かった。
しかし四十前のそれは、観賞に似ている。
手に入れたい訳ではない。
ただ、自分の人生の外側に、まだ美しいものが存在していることを確認したいだけなのかもしれない。
もっとも、そういう感情を「美しい」などと言い換え始めた時点で、既に十分危ういのであるが。
三、「疑惑」
四十に近づくと、人は物事を冷静に見られるようになるのだと思っていた。
感情に流されず、事実を事実として受け止める。
若さ特有の誤解や思い込みからは解放されるのだと、どこかで期待していた。
だが実際には、その「冷静さ」というものが、新しい疑いを生むだけだった。
例えば、仕事帰りの電車で、ふと隣に座った同僚が妙に静かだった夜。
いつもなら気にも留めない些細な違和感が、その日はやけに引っかかる。
何かあったのか、それとも自分が何かを見落としているのか。
考え始めると、答えのない問いだけが増えていく。
あるいは、送ったはずの一言が、ほんの少しだけ冷たく感じられたメッセージ。
気のせいだと分かっていながら、何度も画面を開いてしまう。
そこに事実は何もない。
ただ、自分の中の不安だけが輪郭を持ちはじめる。
若い頃の疑いは、たいてい相手に向かっていた。
しかし四十前のそれは、静かに自分へと戻ってくる。自分の記憶は正しいのか。
あの判断は間違っていなかったのか。
そもそも、自分は何を見ていたのか。
そして厄介なのは、その疑いに明確な根拠がないことだ。
だからこそ消えない。
否定しきれず、肯定もできないまま、日常の端にずっと残り続ける。
結局のところ、我々は事実を疑っているのではない。
事実を見ている「自分」の方を、密かに疑い続けているのだ。
あとがき「不惑とは」
孔子の言う「四十にして惑わず」という言葉は、迷いが消えることを指すのではなく、迷いを抱えたままでも歩いていける状態を指しているのかもしれない。
現実には、四十に近づいても迷いは減らない。
ただ、迷い方が変わるだけである。
衝動は静かになり、代わりに理屈が増える。
欲望は露骨さを失い、言い訳を身にまとう。
恋は形を変え、疑いは内側へ向かう。
そうして我々は、以前よりも「わかったような顔」をしながら、以前よりも複雑な自分と付き合うことになる。
不惑とは、惑わないことではない。
惑っていることを、惑っているまま引き受けることである。
