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バンコクの禁忌 〈お礼参り〉

願いが叶ったら、お礼を忘れてはいけない。

バンコクには、そういう決まりのある祠がある。



セントラルワールドの前。

ラチャプラソン交差点の角、トリムーティという神の祠だ。

三柱の神が、ひとつになった姿をしている。

この街では、恋愛の神として知られている。

神が降りてくるのは、木曜の夜、九時半とされる。

供物は、決まっている。

赤いバラを、九本。

赤い線香を、九本。

九は、この国でいちばん縁起のいい数字だ。

「前に進む」という言葉と、同じ音だから。

木曜の夜、祠の前には行列ができる。

若い女が多い。男もいる。

皆、真剣な顔で、恋を祈っている。



この神には、古い話がある。

むかし、この地に、小さな妖精がいた。

人の恋を、見ているだけの妖精だった。

結んでやりたい二人がいても、妖精にその力はなかった。

ある日、三柱の神が人の姿になり、旅の途中に、立ち寄った。

妖精は、あるものすべてで、もてなした。

三柱の神とは、知らないまま。

発つ朝、神は、力を分け与えた。

人の心を、結ぶ力を。

その日から、妖精は、恋を叶えられるようになった。

トリムーティの祠に祀られているのは、三柱の神だ。

だが、願いを聞いているのは、足元の、あの妖精だ。

妖精は、受けた恵みを、忘れない。

だから、叶えてもらった者も、忘れてはいけない。

叶ったら、礼を返す。

祈るときに、九本のバラを。

叶ったときに、九本のバラを。

先に願い、あとで返す。

それだけの、簡単な決まりだ。



ある女の話をする。

彼女は二年前の雨期から、この祠に通いはじめた。

同じ職場の男に、長いあいだ、片想いをしていた。

毎週木曜、仕事のあと、九時半に間に合うように行った。

赤いバラを九本。線香を九本。

三か月目の木曜、男のほうから、食事に誘われた。

半年後には、一緒に暮らしはじめた。

彼女は、幸せだった。

幸せというものは、忙しい。

木曜の夜は、男と食事をする夜になった。

祠のことは、思い出さなくなった。

バラの代金は、化粧品に変わった。

別に、いいだろう。

願いは、もう、叶ったのだから。



一年が過ぎた。

ある木曜の夜だった。

夕食の途中で、男が、ふいに立ち上がった。

「ねえ、どうしたの?」

返事は、なかった。

男は財布だけ持って、何も言わずに部屋を出ていった。

彼女は、後をつけた。

男は、一度も振り返らなかった。前だけを向いて歩いていく。

BTSに乗り、チットロムで降りた。

ラチャプラソン交差点。

人混みの向こうに、あの祠の明かりが見えた。

時刻は、九時二十分すぎ。



男は、祠のそばの屋台で、花を買った。

赤いバラだった。

彼女は、数えた。

九本だった。

男は列に並び、順番が来ると、膝をついた。

バラを供え、線香に火を点け、手を合わせた。

長い、祈りだった。

彼女は、少し離れた場所から、それを見ていた。

そうか。

胸の奥が、あたたかくなりかけた。

私のために、お礼を。

そう思いかけて、気づいた。

男は、彼女がここに通っていたことを、知らない。

一度も、話したことがない。



祈り終えた男の横顔は、彼女の知らない顔をしていた。

恋をしている男の、顔だった。

彼女は、その顔を、見たことがあった。

二年前の、鏡の中で。



男は、その夜、部屋に戻らなかった。

翌朝も。

電話は、繋がらなかった。

職場に行くと、男の席は、片付いていた。

誰に聞いても、要領を得なかった。

同僚の一人が、言いにくそうに、教えてくれた。

男には最近、想いを寄せている人がいたらしい、と。

その人は、毎週木曜、どこかの祠に通っていたらしい、と。



彼女は、その週の木曜、祠へ行った。

九時半。

列の先頭のほうに、若い女が、膝をついていた。

赤いバラを、九本、供えていた。

祈り終えて立ち上がった女の顔は、晴れやかだった。

願いが、叶った顔だった。

彼女は、その顔も、知っていた。

二年前の、自分の顔だった。



あの妖精は、意地悪ではない。

ただ、きちんとしているだけだ。

叶えて、あとで受け取る。

返されなかったものは、引き上げて、次の祈りに回す。

恋人が変わったのではない。

順番が、来ただけだ。

だから、木曜の夜、あの祠の前を通るとき、列に並ぶ人々の顔を、見てほしい。

真剣な顔。祈る顔。

あの中の何人かは、初めての祈りではなく。

誰かが返し忘れたものを、受け取りに来ている。



願いが叶ったら、お礼を忘れてはいけない。





※本シリーズは、バンコクに伝わる禁忌と伝承をもとにした創作です。

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