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【泥と蓮】神眼|9. 功徳

サベルネが洋館に戻った時、苗子の気配は消えていた。地下室で見つけたのは、傷だらけのサラと、砕けた招き猫の破片。サラの口から、最後の命を捧げた女中の正体が告げられる。タイの山で自分を救ってくれた、あのシャム猫だった。サベルネの琥珀色の右目が、海の向こうの男を視た。第二章「神眼」最終話。

───

洋館の門を潜った。

静かだった。

夕暮れの光が、白い壁に斜めに差している。蝉の声だけが響いている。風はない。木々も揺れていない。庭の松も、枯山水の砂も、サベルネが三日前に出ていった時のまま、止まっているように見えた。

それが、おかしかった。

苗子のいる洋館は、いつも、どこかに小さな音があった。茶を淹れる音。障子を開ける音。和装の衣擦れの音。足音そのものはしないが、苗子がいる気配は、館全体に染みついていた。

その気配が、消えていた。

サベルネは玄関の扉を開けた。

「苗子」

呼んだ。

返事がなかった。

廊下は薄暗い。いつもなら、苗子が灯りを点けている。だが、今は消えている。畳まれていない着物が、廊下の隅に置きっぱなしになっている。苗子なら、決してそうしない。

足を踏み出した。床板が軋(きし)む。自分の足音だけが響く。

その時、声が聞こえた。

微かな声。祈りの声。

地下室の方角から。

イダン・メー・プンニャン

ミツコ・マートゥヤー・ホートゥ

スキター・ホートゥ

パーリ語の祈り。カルナーの声。

サベルネの足が止まった。

右目の金剛雷火眼(こんごうらいかがん)が、熱を感じていた。地下室から立ち上る熱。だが、生きている者の熱ではない。残り火のような、消えかけた熱。乾いた血の温度と、土に還りかけた何かの温度が、混じり合っている。

嫌な予感が、胸を締めつけた。サベルネは、その予感を振り払えなかった。むしろ、自分の中の何かが、それをすでに知っているような気がした。

地下室へ向かった。

───

階段を降りた。

匂いがした。

血の匂いではない。泥の匂い。赤い泥の匂い。チェンマイの夜の匂いに似ている。だが、もっと古い。何かが終わった後の、乾いた静寂の匂いだった。

地下室に入った。

惨状だった。

棚が倒れている。呪物が床に散乱している。白熱灯が割れ、薄闇が広がっている。壁に亀裂が走っている。サベルネが何年もかけて蒐集(しゅうしゅう)したものが、一夜にして崩れ落ちていた。

セメントの床に、黒い染みが広がっていた。乾きかけた泥。だが、泥の中に、赤い筋が残っている。かつては血だったものが、時間を経て、泥に変わりつつある。

棚の隅に、白い破片が散らばっていた。周囲の闇の中で、そこだけが白く浮き上がっている。煤(すす)けた招き猫の破片。粉々に砕け、床に散乱している。かつて逆手を上げていた腕の欠片が、泥の中に半ば埋もれていた。

サベルネは、その破片から目を逸らせなかった。

逆手の招き。厄災(やくさい)を招き寄せ、身に引き受ける呪物。その招き猫が、ここまで砕けるほどの何かが、起きたのだ。

そして、泥の中に、人影があった。

うつ伏せに倒れている。黒い髪。紺色のワンピース。傷だらけの腕。傷だらけの足。

サラだった。

サベルネは駆け寄った。巨体が、倒れた呪物を踏み越えていく。胸の奥で、何かが叫んでいた。間に合ってくれ。生きていてくれ。

膝をついた。サラの体に触れた。

温かい。

息をしている。

生きている。

サベルネは目を閉じた。安堵の波が、巨体を貫いた。だが、その安堵の底に、すぐに別の感情が滑り込んできた。

サラが生きている。なら、苗子は。

胸の奥から、カルナーの祈りが続いていた。

ひたすら祈っている。他には何も言わない。ただ、祈り続けている。

その祈りが、答えだった。

「サラ」

サベルネが呼んだ。

低い声。だが、優しい声。娘に呼びかけるように。自分でも、こんな声が出せるとは思っていなかった。

サラの瞼が、微かに震えた。

「サラ」

もう一度、呼んだ。

サラの目が、ゆっくりと開いた。

鈍色(にびいろ)の瞳が、サベルネを見上げた。焦点が合っていない。だが、見えている。

「師、か」

掠(かす)れた声。

「動けるか」

サラは首を振ろうとした。だが、動かなかった。体が言うことを聞かない。

サベルネはサラの体を起こした。泥まみれの体を、自分の膝に乗せた。傷の深さが、巨体の指先に伝わってきた。肩。脇腹。太腿。何度も、何度も、噛みちぎられた跡。サラはこれを耐えて、生き延びたのだ。

サラの目が、サベルネの顔を見つめていた。

眼帯がない。

いつもの黒い眼帯がない。代わりに、右目がある。

琥珀色に輝いている。見たことのない目。深い黄金の中で、赤い炎が脈動している。まばたきをするたびに、微細な火花が散っている。

だが、サベルネだと分かる。

「苗子は」

サベルネが問うた。

ある程度は、分かっているような声だった。

サラは口を開いた。だが、声が出なかった。喉が、まだ言葉を覚えていなかった。

「苗子は」

もう一度、問うた。

サラの唇が、震えた。

「苗子は」

ぽつりと、言葉が出た。

「消えました」

沈黙が落ちた。カルナーの祈りだけが、続いている。地下室の闇の中で、その祈りだけが、生きている音だった。

「九つ目の命で」

サラの声が、少しずつ強くなっていく。一語ずつ、自分に確かめるように。

「私を守ってくれました」

吐き出すように。

「ダムが仕込んだものを、全部抱えて」

涙が、目尻に溜まっていく。

「消えました」

声が震えていた。

「最後の命で、私を守ってくれました」

涙が、頬を伝った。サラは泣いていた。自分が泣いていることに、今度は気づいていた。地下室で初めて流した涙の続きが、今、サベルネの前で零(こぼ)れていた。

「霧のように淡いグレーの。細い体。青い目」

サラは続けた。

「タイの猫でした」

サベルネの動きが、止まった。

時間が、巨体の中で、一瞬、流れを変えた。

やはり、あのシャム猫だ。

遠い昔の、あの夜。インドラの雷に焼かれた日。瀕死の体で麓の寺に落ちた時。傍らにいた猫。霧のように淡いグレーのシャム猫。傷だらけの自分を見つめていた、青い目。

あの夜、自分は死にかけていた。全身を焼かれ、麓の寺の庭に落ちた。もう終わっていた。だが、インドラの最後の雷は落ちてこなかった。雨の中、誰かが自分を守ってくれた。後にインタキンの祠に身を寄せた時、一匹の猫が現れた。霧のように淡いグレーのシャム猫。その猫に導かれ、天上の蓮の妖精のもとへ辿り着いた。あの猫は、深く疲れた目をしていた。まるで、命を削った後のような。

あの猫が、自分を救ったのだ。そう悟った。だが、猫はすぐに姿を消した。追う力もなかった。

その後、日本に渡り、覚王山の洋館に住み着いた。気づけば、苗子という女中がそこにいた。足音のしない女。シャム猫のような青い目をした女。雨に濡れた毛並みのような、少し寂しくて温かい匂いのする女。

薄々、気づいていた。

だが、確かめなかった。確かめることが、怖かった。

問えば、苗子はこの館から消えてしまう気がした。それが、苗子のためなのか、自分のためなのか、サベルネには分からなかった。ただ、確かめないことが、二人の間の暗黙の約束のようになっていた。

九つの命を持つ猫。タイの伝承にある、聖なる猫。一つの命を使うたびに、少しずつ消えていく猫。

あの夜、自分を救うために、八つ目の命を使ったのだ。

そして今、サラを救うために、最後の命を。

サベルネの巨体が、微かに震えた。

声は出さなかった。だが、琥珀色の右目に、熱いものが滲んでいた。雷神の試練を受けても流さなかった涙が、今、零れていた。

もっと早く、確かめていれば。

もっと早く、帰っていれば。

インタキンの時と同じだ。あの時も、間に合わなかった。義兄弟が泥に還される瞬間に、自分はそこにいなかった。すぐに駆けつけていれば、何かが違ったかもしれない。今度もまた、間に合わなかった。

守るべき者を、また守れなかった。

サベルネは目を閉じた。琥珀色の右目と、翡翠の左目が、同時に閉じられた。

カルナーの祈りが、続いていた。

闇の中で、その祈りだけが、苗子という存在をこの世に繋ぎ止めているように、サベルネには感じられた。

───

サベルネはサラを抱き上げた。

軽かった。傷だらけで、泥まみれで、それでも軽かった。サラがこんなに小さかったとは、知らなかった。

階段を上り始めた。一段。また一段。サラを抱いたまま、地下室から出ていく。倒れた呪物の山を踏み越え、亀裂の走った壁の間を抜け、薄闇から、上の世界へ。

サラは何も言わなかった。サベルネの胸に顔を埋めていた。涙が止まらなかった。

廊下に出た。窓から光が差し込んでいる。夕暮れの光。茜色が、廊下の床板に細く伸びている。

苗子が掃いていた廊下。苗子が灯りを点けていた廊下。今は、誰もいない。

サベルネは、ゆっくりと歩いた。サラを抱いたまま。一歩ごとに、自分の足音だけが響く。苗子の足音のしない足音は、もう、どこにもない。

サベルネが口を開いた。

「よく生き残ってくれた」

低い声。掠れた声。涙の滲んだ声。

「もういい。休め」

その言葉で、サラの目から新しい涙が溢れた。止まらなかった。声を上げて泣いた。生まれて初めて、誰かの腕の中で泣いた。サベルネの胸が、サラの涙で濡れていく。サベルネはそれに気づいていた。気づいていたが、何も言わなかった。

サベルネは何も言わなかった。ただ、サラを抱いていた。

胸の奥から、カルナーの声が聞こえた。

──イダン・メー・プンニャン。

──ミツコ・マートゥヤー・ホートゥ。

──スキター・ホートゥ。

パーリ語の祈り。慈悲の経典の中の、功徳廻向(くどくえこう)の一節。功徳を、母なる存在に捧げる祈り。サベルネの胸に抱かれたサラの中で、カルナーは、消えた苗子のために、その祈りを唱え続けていた。

───

夜が訪れた。

洋館は静まり返っている。苗子のいない洋館。

苗子が茶を淹れていた台所。苗子が朝餉(あさげ)の膳を運んでいた廊下。苗子が髪を整えてくれた縁側。苗子が「主がお戻りになるまで、私がお傍におります」と微笑んだ玄関。すべての場所に、苗子の不在が、薄く沈殿している。足音のしない足音は、もう、聞こえない。

だが、三人が、残されていた。サベルネ。サラ。そして、胸の中のカルナー。

カルナーの祈りは、まだ続いている。功徳を母ミツコに捧げる祈り。その祈りが届く場所は、もう、ここにはない。

祈りは止まらない。届かない祈りこそが、最も深い祈りなのだと、サラはぼんやりと感じていた。

サベルネは縁側に立っていた。サラを部屋で休ませてから、独りで、夜の庭を眺めている。

琥珀色の右目が、西を向いていた。

何年も見ることのできなかった右側の世界。その視界の遥か向こうに、海がある。海の向こうに、タイがある。チェンマイがある。そこに、あの男がいる。

ダム。

サベルネの右目の奥で、赤い炎が脈動した。金剛雷火眼。不浄を焼き尽くす火の力。

インタキンを失った。苗子を失った。同じ男の手で。同じ手のひらの上で踊らされて。

二度は、許さない。

声には出さなかった。だが、巨体の奥で、低い声が響いていた。山が唸るような、岩が軋むような、サベルネ自身にしか聞こえない声。

サラもまた、自室の窓辺に座って、西を見ていた。傷だらけの体で。苗子が用意してくれていた寝間着が掛かっていた。最後の世話だった。袖から覗く腕に、噛みちぎられた跡が幾筋も残っている。だが、それより深い場所に、別の傷があった。

舌の奥に、微かな味が残っていた。地下室であの仕込みを浴びた時に染み込んだ味。冷たく計算された呪術の痕跡。湿った土の匂い。土留めが崩れる前の匂い。

ダムの匂い。

サラの胸の奥で、カルナーの祈りが続いていた。母ミツコのために。安らかでありますように。

その祈りに、サラは静かに加えた。声には出さず、ただ心の中で。

苗子のために。インタキン様のために。

そして、ダムを赦さない、わたしのために。

窓の外で、蝉が鳴いている。

夏は、まだ終わらない。

だが、夏の先に、何かが待っていた。

───

第二章「神眼 」了

第三章「蓮華」に続く

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