あなたが落としたのはこの「新しくてきれいなオタク文化」ですか? それとも――
藤田直哉さんの連載記事『フェミニズムでは救われない男たちのための男性学』が最新回でオタク文化を扱っている。
ぼくはこの連載をずっと追いかけて読んでいるので、この回を楽しみにしていた。藤田さんが構想する「新しい男性学」のなかで、オタク文化がどう位置付けられるのか。期待半分、不安半分というところ。
で、さっそく読んでみたのだけれど――うーん、これはどう咀嚼するべきなんだろ。まず、藤田さんはこれまでの連載の内容を踏まえたうえで、こう書く。
前回までに、二〇世紀の惨劇こそが、「男性性」と核戦争や大量虐殺とファシズムを結びつけ、男性性に対する極めてネガティヴなイメージを形成したことを確認した。そのような男性性への「傷」「汚点」を踏まえた上で、「男性性」「男らしさ」を回復し擁護しながら、「新しい男性性」を構築していくことが私たちには必要である。そのために、現代日本のオタク文化の可能性を検討するのが、今回の内容である。
そして、オタク文化を、敗戦によって致命的なまでの「傷」を負った「敗者の文化」として描きだすのである。
これは、理解できる。アニメや特撮といった当時は「子供向け」だった文化が、敗戦のダメージによってストレートな勧善懲悪を描きだすことができず、さまざまな陰翳を感じさせるものとなった点は、ぼく(たち)なども同人誌でさんざん検討してきたことだ。
少なくとも戦後のあるところまではオタク文化は「敗者性」を強く刻印され、そのために作中の男性ジェンダー(「男らしさ」)が歪んでいることもその通りだろう。その複雑な屈折は、やがて『機動戦士ガンダム』のアムロや『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジといったキャラクターたちを生み出すまでに至る。
藤田さんはその敗者のねじくれた文化としてのオタク文化に、しかし新たな可能性を見る。オタク文化には第二次世界大戦(の敗戦)という「傷」を負った文化であるがゆえの可能性があるというのだ。
「戦後日本のオタク文化における優れた作家は、このような「傷」を扱い、かつ、両性具有的な傾向があるように感じる」。ここまでは良い。問題はこの続きである。
かれは書く。
そのような作り手たちを「国民的作家」にしてきたのが戦後日本であり、その作品が世界に高く評価されている。オタク文化の中には、批判される側面もあるが、このような系譜もまた存在しており、筆者は、高く評価されるべきはこの系譜ではないかと思う。これらの作品群は、「男性」たちが「新しい男性性」を構築し、男性性を肯定し誇り、自尊心を回復するために有用なロールモデルを提供しているのではないかと思われる。
まあ、わかる。わかるのだが、ちょっと警戒感をも感じる。どうしても、ここでかれがオタク文化一般を「批判される側面」と「このような系譜」に分け、前者を否定されるべきもの、後者を肯定されるべきものと定義しようとしているのではないか、と疑いが感じてしまうわけだ。
藤田さんはさらに綴っている。
男性性や性欲それ自体を喜びとして誇れるようにするためには、戦争、搾取、暴力、支配などを批判するような男性性でなければならないだろう。ファシズムや兵器の破壊などに「力」「支配」の代理満足を感じるのではない、真に平和を志向するような、ケア的=女性的な性質をも併せ持つ、両性具有的な男性性になるのが望ましいのではないか。
うーん? ここでいう「両性具有的な男性性」とは、これまで男性的とされてきた強さと、女性的とされてきた優しさや穏やかさの両方を兼ね備えた人間になるということだろう。
換言するならロールズ的な「正義の倫理」とギリガン的な「ケアの倫理」を併せ持つ存在となることが望ましいということなのかもしれない。ようは「男女の良いとこ取り」をしよう、という発想なわけで、それができればたしかにいちばんかもしれない。
ぼくもエックスで日々くりひろげられているような男女のそれこそ本質主義的な対立にはげんなりしているほうである(まともな人間ならだれでもげんなりするのではないかと思うのだが)。で、この先でさらに気になるところが出てくる。
改めて、男性性を、自分自身を肯定し、誇り、互いの自由意志と歓びを持って男性性・女性性の誇示をも楽しみ、性や愛を歓びを伴った肯定的なものと寿ぐためには、その負の面をどうしても除去する努力が必要だろう。それ抜きに、負の側面も含めた男性性を全肯定することは困難である。
除去。この言葉で、ぼくはさらに警戒をつのらせる。
ここでいう「負の面」とは、一般にフェミニズムの文脈で批判されるような「支配や暴力」のことだろう。
支配的で暴力的な「古い男らしさ」を手放し、優しさや穏和さを兼ね備えた「新しい男らしさ」を手にする。たしかにシンプルに良いことであるようにも思えるが、その「除去」の内実が問題である。
それは結局、外部からの「批判」をそれこそ無批判に受け入れ、政治的に都合が悪いところは取り去って「きれいなオタク文化」を作り出そう、ということではないのか。
その「きれいなオタク文化」こそ日本が世界に誇れるカルチャーなのであり、「古くて汚いオタク文化」は過去のものとして乗り越えられるべきものである、と主張しているのでは、とどうしても思ってしまう。
邪推かもしれない。だが、「除去」といった言葉を使う以上、たとえば「暴力的な」エロマンガなどはどのように扱われるべきであるのか、明確に示してほしいと感じる。
それはオタクにとっても男性にとっても「除去」されるべき汚点なのか。それとも来たるべき新しいオタク文化のなかに一席をあたえられるべきなのか。どちらなのだろう?
ぼくは藤田さんが書いていることに大筋としては賛成できる、と思う。たしかにクラシカルにマッチョな男らしさを回復させようなどとは、時代錯誤もいいところで、現実のオタク文化もそちらの方向へは向かっていないように見える(『少年ジャンプ』のバトルマンガですら現在はマッチョな「強さ」を指向していない傾向がある)。
しかし、「負の面」を「除去」するというのなら、具体的にどのような作品、あるいは描写がその「負の面」にあたるのかを明確に示してほしいと感じる。そうでなければ、危なくてとても賛成できない。
フェミニズムや左派イデオロギーに対立する箇所はまとめて「除去されるべき負の面」とみなされるのではないか、という懸念を払拭し切れないのだ。
さて、この文章を読まれているあなたはこの「きれいなオタク文化構想」を支持できますか? ぼくは違和感を禁じ得ません。
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
