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青空に消えた羽音と、心を照らす懐中電灯


今年も暑い季節がやってきた。
夏といえば、かき氷、スイカなど
楽しみがたくさんある。
全て食べ物になってしまったのは、私が食いしん坊だからではないと、念の為伝えておきたい。

でも、食べ物以上に私の夏を象徴するのが、「カブトムシ」だ。
我が家には一人だけ、カブトムシを好んでやまない人がいる。それは夫だった。

家族でのカブトムシ捕りは、息子が幼稚園の頃から始まった。
夫が自分の相棒として息子を連れて行けるタイミングが来たことを喜び、嬉々として準備に励む。
虫取り網や虫カゴ、懐中電灯、長い棒。
クヌギ、コナラなどが生い茂る雑木林へ行くため、服装は長袖、長ズボン、帽子も欠かせない。

出発は朝5時、息子を起こす。
眠たい目をこすりながらも、楽しみなのかすぐに着替え始めた。少しずつ目が覚めてきたようで、息子からワクワク感が滲み出て、口数も多くなる。
玄関に行くと、息子は小声で言った。
「ママ、いってきます」

小さな声で話すこと。
これは父親との約束の一つだった。
まだ寝静まっているご近所の方と、二階で寝ている小さな妹への配慮だ。

他にも約束がある。
広い雑木林は危険がたくさんだ。父親と離れて、一人でどこかへ行かないこと。
もう一つはトイレに行きたくなったら、すぐに言うこと。万が一、間に合わなければ大惨事となる。

約束を守れないと連れて行くことはできない、と言う父親との誓いを、しっかり守ってくれることを祈るのみだ。
私は車で出発する二人に手を振り、二階で寝ている下の子と一緒に、再び眠りについた。


日が昇り、辺りは明るくなってきた。
自然と目が覚め、夫と息子のことが気になりながら、ひと通りの家事を終わらせる。
そんな時、ちょうど二人が帰って来た。

息子は車から降りるなり、満面の笑みで虫カゴを見せてくれた。大きいカブトムシが二匹とクワガタが一匹。捕れた中から自分でこの三匹を選んだのだ、と誇らしげに語る。

夫は息子が残り二つの約束を、しっかり守れたことを報告してくれた。

帰り道、朝ごはんを買うためにコンビニに寄り、そこで無事にトイレも済ませることができたそうだ。
息子にとってご褒美に買ってもらったお菓子とジュースは特別美味しかったようで、充実した男旅になった。

大惨事を免れた夫は、無事に子供の笑顔とカブトムシをゲットし、父親としての面目を保てたに違いない。



新しく大きめの飼育ケースを購入し、持ち帰ってきたカブトムシを育て始めた。
しかし、息子は私の予想に反して、餌やりなどの日々のお世話を全く行わない。
「カブトムシ捕りのお出かけ」は楽しかったが「命を育てる」ことへの興味は、まだまだこれからなのだと、私は薄々感じ始めていた。

一方、カブトムシの日々のお世話を率先してやる人がいた。やはり夫だ。
仕事から帰ってきては真っ先に、餌が切れていないか、元気にしているかと健康状態をチェックする。土が乾いていたら欠かさず霧吹きも行っていた。
これこそが、私の知っている夫の「好き」の表現だ。



ある日、夫がカブトムシの相撲大会が開催されるという情報を得てきた。
カブトムシとのお出かけなら、息子も喜ぶはずだ。
車を走らせること40分。
瑞々しい深い緑に囲まれた場所。
空気が澄んでおり、心から癒された。
これだけでも来た甲斐がある。

思っているよりたくさんの親子連れがいて驚いた。みんな我こそはと、自慢のカブトムシを手に携えている。



大会が始まった。
真ん中に丸い大きな木の株が、土俵に見立てられて置かれている。そこへトーナメントで指定された通りにカブトムシを置き、どちらが投げ飛ばすかを、じっと見守るのだ。
お互いの角を使って、静かに闘いが始まる。
勝負は意外と早くついていき、あっという間に息子の順番がきた。

土俵に置いた時に気がついたのだが、うちのカブトムシは結構大きかった。角での小競り合いも、体格差で圧勝だった。

これはいいところまでいけるのではないか?
そう思っていたら案の定、決勝までいってしまった。
決勝ともなれば、相手も大きめだ。
夫、息子、下の子を抱いた私、全員が小さな土俵に釘付けになった。

カブトムシはお互いの様子を見合っている。
相手が先に動き出した。
突かれて押され、少し下がる。
大丈夫か‥? 
またひと突きされる。
うちのカブトムシがどんどん下がる。

突かれてばかりでとうとう怒りが爆発したのか、動き始めたと思った瞬間、相手のカブトムシを一気に投げ飛ばした。
「おおおっ!」
見事な投げっぷりに地鳴りのような歓声が上がった。

優勝してしまった。 
見つめ合って喜ぶ、息子と夫。
夫が息子の頭を撫でている。

その姿を横目に、我が家のカブトムシは
『オレ仕事は終わった』
と言わんばかりに、ブォンと力強い羽音を残して青空へ飛び立っていった。

とても自由に見えた。

そしてとても綺麗な空だった。



「あぁ……」 
地を這うように低く、力が抜けるような見物客の声が上がった。近くにいた人は息子と夫に気の毒そうな視線を送っていた。

泣き出すかもしれない……
息子の心のケアを思案している私の目の前で、息子は大会のスタッフの方から、優勝景品をしっかりと受け取っていた。

息子は私に駆け寄って来て、景品を見せてくれた。
「優勝したね!すごいね、良かったね」
「カブトムシさん飛んで行ったけど、またいつでも取りに連れて行くからね」
夫も私も必死にフォローするが、思っているより息子は平気そうに見えた。

そうだった。この子はカブトムシを育てることには、まだあまり興味がなかったことを思い出した。それに優勝できたことが良かったのだ。
片手に景品を持ち、もう片方の手は夫とつないで歩き出した。
心の切替えが早く、私の方が置いていかれている気分だった。


あれから息子が成長し、家の中が静かになった頃、夫の中で、カブトムシ捕りへのかつての情熱が再燃した。
早く仕事を終えた日は、新しい相棒を連れて出かけて行く。

その相棒とは
何を隠そう、この私だ。


春頃から、私は運動不足解消のため散歩をし始めた。夜の一人歩きは危ないと、夫はいつも付き添ってくれていた。

暑い季節になり、散歩の途中でふと方向を変えれば雑木林があることに、夫は気がついてしまったのだ。
こうして夏の間の散歩は、雑木林へのお付き合いと変化したのだった。

ただ完全に忘れていたことがある。
長袖と長ズボン、帽子の着用だ。やはり身を守るためにこの服装は欠かせない。
しかも手には虫カゴ、懐中電灯と長い棒。
この装備で夜道を歩く私たちは、側から見れば怪しく映っているに違いない。
「どうか誰にも会いませんように…」そう願いながら家を出発する。

徒歩20分ほどで、近所の雑木林に到着する。
その日はちょうど、先客がいた。
孫を連れたおじいちゃんだった。
手に持っているのは、短い虫取り網と虫カゴだけだ。夫からすれば、それは丸腰も同然だ。
カブトムシは簡単に手の届くところにはいてくれない。

夫は目星をつけた場所へ向かい、新調した懐中電灯で木の上から下まで、くまなく照らした。見逃さないよう、一本ずつ丁寧に。

それにしてもこの懐中電灯は本当に明るい。
実にいい仕事をする道具だ。
夫の面目のために付け加えておくと、彼は職場でも懐中電灯を使う。しかしここまで高性能でなくてもいいはずなのだが……

「あ、いた。」
私は懐中電灯を受け取り、夫の代わりにカブトムシを照らす。
夫は持参した長い棒を器用に使い、カブトムシをスッと落とす。
落ちた場所を見逃さず、私がさっと光を当てる。そこで夫が拾いあげる。
この連携プレーこそ肝心であり、私も懐中電灯係としていい仕事をしていると自負していた。
夫の腕は衰えていないようだが、側から見ている大人二人は、実に地味な作業に没頭しているように見えたはずだ。

「オスのカブトムシだね」
夫の方へ光を向けると、手元のカブトムシを私に見せる。
光の輪の中で嬉しそうな夫の顔を見ていると、「ついてきて良かった」と毎回思ってしまうのは不思議だ。
これは自然が持つ、不思議な力のせいかもしれない。

捕りたてほやほやのカブトムシ。
夫はそれを虫カゴには入れず、先ほど丸腰で来ていた、おじいちゃんと孫に目をやった。
夫は声をかけ、男の子が持つ虫カゴにそっと入れ、プレゼントしたのだ。

「やったー。オスだ!」
歓喜する男の子。
「え?ほんとにいただいていいんですか?」
無事にカブトムシを手にでき、ホッと安堵の表情を浮かべるおじいちゃん。

おじいちゃんというものは、孫のために手ぶらで帰るわけにはいかないのだ。
これで、安心して家族の元へ帰ることができる。夫はかつての自分とおじいちゃんの姿を重ね合わせていたのかもしれない。

夏休みに入ると、子連れの親子がさらに増えた。
夫は自分の出番だといわんばかりに、まだ捕れていない親子を見つけては、カブトムシを配ってまわる。まるで夏のサンタクロースだ。

「あの林には、カブトムシを配るおじさんがいるみたいだ」と変な噂になっていないか心配になるほどだったが、喜ぶ親子を見ていると、そんな心配より夫への誇らしさが勝っていた。

来客のない日は、捕れたカブトムシの行き先は夫の職場になる。
虫好きの子供を持つ後輩へ渡すのだ。
子供が虫好きでも、親もそうだとは限らない。子供のために捕って来て欲しいと頼まれているらしい。
職場でそんな話をしているなんて、本当に仕事をしているのか、少し心配になったが、夫の優しさが誰かの役に立っているのは確かだった。

ある日、持ち帰ったカブトムシを職場へ持っていくため、スーパーのお惣菜用の透明のタッパーを利用することにした。
空気が入るように穴を開け、腐葉土とゼリーを入れる。そこへカブトムシをそっと置き、しっかりと蓋に輪ゴムをかけた。
次の日忘れないように、と下駄箱の上に置き、その日は就寝した。


カサカサ、カサカサ……。
時折交じる、ブーンという鈍い音。
なんの音だろう。

翌朝、私はこの微かな音で目が覚めた。
階段を降りて行くと、足元にカブトムシが
いらっしゃる。
「え?なんでここに?」
すぐに昨夜のタッパーを思い出した。
下駄箱の上を確認すると、隙間から上手く脱出したようだ。
あの小さな体からは想像出来ない力強さを持っていることを、かつての相撲大会で学んでいたはずなのに、すっかり忘れていた。

あいにく私はカブトムシを触ることができない。移動する前に確保しなければ…

私は階段にいるカブトムシを踏まないように、慎重に二階へ戻り、寝室のドアを開けた。

「大変、カブトムシが逃げてる。早く捕まえて!」
私は全力で夫の体を揺り動かした。
夫はすぐに理解したようで、すぐに回収に向かった。

「階段にいるから、踏まないでね」
悲劇が起こらないように、背中に向かって声をかけた。
今度は蓋を、輪ゴムとセロテープの二重にした。

後日、同僚から
「子供が名前をつけて、毎日眺めています」
と報告を受けた。
あんな小さな体で、タッパーをこじ開けてしまう力強さだ。きっと新しい家でも元気に過ごしているに違いない。


そんな賑やかな日常が、この先もずっと続いていくのだと、私は信じて疑わなかった。

夫専属の懐中電灯係も、悪くないな。
来年も再来年も、こうして二人で並んで歩き、横からそっと、光を照らし続けよう。
そう心に決めていた。



しかし、その『来年』が訪れることはなかった。

私のささやかな願いは
予期せぬ形で幕を閉じてしまったのだ。





夫は私を残して
あちらの世界へ
一人、旅立ってしまった。 





あの時、羽音を立て青空へ飛び立った
カブトムシのように
夫も空へ飛び立ち
自由になったのかもしれない。


振り返れば、あの夏
「カブトムシ捕り」という名のデートを重ね、
私たちは本当によく話し、たくさん笑った。

最後に一緒に過ごせた私の誕生日には、花束だけでなく、私への日頃の感謝を綴った手紙も渡してくれた。とても幸せだった。


夫の魂は、自分の残り時間が少ないことを知っていたのではないか。そう思わずにはいられなかった。
私が一人になっても寂しくないように、最後に一生分の思い出をプレゼントしてくれていたのだ。



虫の羽音や風に揺れる木のざわめき。
そしてどこまでも続く綺麗な青空。
それらを目にするたび、私はあの夏の出来事を思い出す。


きっとあちらの世界でも、懐中電灯を片手に、いいクヌギの木を探していると思う。


『私たちを見守っていてね』
と心の中でお願いしながら
今日も仏壇の前で、一人
心静かに手を合わせる。



夫が遺してくれた思い出は
あの夏の懐中電灯のように
今も私の隣でそっと
心を照らし続けてくれている。




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