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伝怪⑨

《逢魔時 1》

 聡美はそれから、ひとりで家にいられなくなった。家の中にひとりでいると、どこから母の影……いや、あの怪人に囚われるか、わからなくなったからだ。

 もちろんそれは、聡美が生み出した幻覚なのだろう。

 けれど、玄関の隅の暗がりに、半開きのクローゼットの物陰に、家の中にできたほんのわずかな隙間からでも、いつも男は聡美を見つめていた。風呂で髪を洗っている時も、夜眠ろうと目をつむった時も、閉じたまぶたの裏側にできた些細な闇の向こうから、緋色に充血した目は聡美を取り込もうと狙っている。
 そんな妄想が、聡美の頭には住みついてしまった。

 本当にバカバカしいことだと、自分でも思う。
 ただ、それが無性に怖かった。

 都市伝説の怪人など、現実には存在しない。そのくらい承知していても、どうしても湧き上がる不安を消すことができなかった。もし捕まって斬られれば、聡美は聡美ではなくなってしまう。まじめにそう信じはじめている自分の頭が、なによりも恐ろしくなっていた。

(だから……)

 聡美はまた、父を頼ることにした。
 聡美がひとりでさえいなければ、怪人はあれ以上近づいてこない。その条件を満たすためだけに、壊れた父との関係を利用することをこころに決めた。

 はじめて幻覚が見えたあの日、聡美は父が帰るまでトイレで気を失っていた。揺り起こされた聡美は悲鳴を上げて取り乱し、父の首に両腕で縋りついた。その視線の先――廊下の端にできた薄闇から、まだ怪人はじぃっと聡美を見据えていた。その恐怖から逃れたい一心で、ついに聡美は自分から父を求めた。

 わけもわからず、その場で父を押し倒してまぐわった。
 トイレから半身を投げ出し、父の上でつたなく腰をふった。

 今考えれば、それは死に直面した動物の種の保存本能だったのかもしれない。
 あるいはただ単に、聡美が錯乱しただけだったのかもしれない。
 けれど、そんなことはもうどうでもいいことだった。とにかく聡美は、はじめて自ら父を誘い、あの呪われた儀式に望んで手を染めてしまった。

 行為が終わると、いつの間にか怪人の姿は消えていた。放心状態の聡美を宥めると、父は噛み痕から血が滲んだ聡美の左手を手当てしてくれた。左手に包帯を巻かれながら、聡美は必死に母と怪人のことを話した。要領を得ない聡美の説明に困惑しつつも、父は泣きじゃくる聡美を抱きしめて言った。

「大丈夫……マサミのことは、ちゃんと守るから」

 母の名で呼ばれた不快感より、幻覚をふり払えたことで聡美は安堵した。
 父を恐れて母に助けを求め、今度は母が怖くて父に縋る。そんな自分が汚らわしく惨めに思えたが、込み上げてきた衝動はどうにも抑えようがなかった。

 そうして聡美も、被害者から加害者になった。

 加害者になった聡美は、もう父を責めることはできなかった。一度でも自分から求めてしまった事実が、うしろめたさになって聡美にのしかかっていた。あれほど嫌だった父との姦通も、今では聡美自身の罪となっていた。
 少なくとも、聡美の中では。

(それもやっぱり……)

 自分が弱いせいだからなのかと、聡美は自身に問いかける。教材のテキスト音声のような教師の声は、機械的に耳の外を滑っていた。
 これは数学の授業だったろうか? それとも化学の授業だったろうか?

 あれから数日が経って、聡美は仕方なくまた学校に出るようになっていた。
 なぜなら父が帰るまでの空白の時間、どうにか怪人の目を避けて、人目のある場所で凌がなくてはならなくなったからだ。たとえ〝いないモノ〟扱いだったとしても、ここにいればその心配だけはしなくて済むだろう。いろいろ思案はしてみたが、人生において経験値の低い聡美にはそれくらいしか思いつくことができなかった。

(……でないと、またあの怪人が)
 ――任せてしまいなさい、彼に……。

 まとまらない頭の中に、母の声が入り混じってさらに迷走する。
 自分はこれから、どうすればいい? 担任に打ち明けて、懺悔でもするか? あるいは交番に駆け込み、父の犯されたと泣きわめくか?
 考えれば考えるほど混乱は増し、思考が深い霧の中に埋もれてゆく。焦れて自分の左手を噛みかけて、巻かれた包帯にそれを阻まれ気を取り直す。
 薄汚れた包帯の下で、傷はじくじくと疼いた。無為な時間はたんたんとすぎ、答えは出ないまま午前の授業が終了する。

 給食の時間になると、配膳台が運び込まれて慌しく机の移動がはじまった。

 手近な机が六つ、向かい合わせになるように組み直される。
 申しわけ程度に班の横面ではあったが、聡美も周りにならって机を合わせた。楽しげに響いてくる周囲のざわめきも、今だけはなぜかこころ強い。

 きのこご飯に、肉じゃが。ししゃも焼き、のりあえ、そして瓶の牛乳……。
 粘土の味しかしないそれらのメニューを、聡美は目を伏せたまま黙々と口に運んだ。
 運悪く聡美とおなじ班になった級友から無言の圧力はかかっていたけれど、そんなことも気にしている余裕はなかった。あの赤い視線に怯えながらひとりで父の弁当を食べるより、この方がはるかにマシだった。ただ、父との爛れた生活が放つ饐えた臭いを、周りに嗅ぎ取られてしまってはいないか――。
 それだけが気になって、聡美は闇雲に粘土の味の給食を口の中に詰め込んだ。

 授業がすべて終わると、もう陽は暮れかけていた。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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