伝怪⑬
《閲覧室の老人 1》
著者が漫画家というだけあって、本は絵図……というより、イラストつきで妖怪や都市伝説について解説した、とてもわかりやすい内容だった。
妖怪研究の入門書にあたるのか、専門知識の薄い聡美にもどうにか理解できた。
メインになるのは、やはりイラストつきの妖怪や怪人の解説だったが、まずはじめにおおまかな〝妖怪〟の説明があり、つづいてその役割が記してある。まだ科学という灯りが世界を照らしていなかったころ、代りに〝万物の説明〟をつけるために生まれたのが、〝妖怪という現象〟なのだと書かれている。
たとえば砂地でもない森の中で、風もないのに砂が目に入った時。
それが誰かひとりの体験なら、さした問題にもならないだろう。科学がなかった時代でも、「まあ、不思議なことがあるものだ」で済まされるに違いない。
けれど同一の時間、同一の場所、同一のシチュエーションでそれが何度もくり返されると、ほんの少しだけ状況が変わってくる。現代でも〝理解不能な現象〟が身近につづいた場合、それがどんなに些細なことでも人は不安に思うはずだ。
これはなにかよくないことの、前兆ではないのか?
自分たちは、このままここにいて本当に大丈夫なのか?
そんな時、人は必ず情報を同期して〝現象に形を与えよう〟とする。
今の時代ならインターネットで。一昔前ならテレビやラジオで。集団ヒステリー、プラズマ、ブロッケン現象……とにかく集められるだけの情報を統合して、当面の安心を得ようと奔走するはずだ。
理解できない、ということは、それだけで不安だ。
ないはずの砂が目に入った。その程度の日常の違和感でも、積もり積もれば得体のしれない不安に変わる。
現代ならそれも、気流やなにかの関係で樹の上に堆積した砂が――とか説明もつくはずだろうけれど、あいにくそんな常識がない時代なら? 募った不安は恐怖になり、恐怖は錯覚や幻覚を産む。それは聡美も、我がこととして知っている。
ましてその時代、夜の暗がりは真の闇だ。
現代人ですら闇の中には、ありもしない気配を感じたりする。当時の人たちの身の上で考えれば、なおさらそれは大きいだろう。なにしろこの国の歴史を紐解くと、〝姥捨て〟や〝間引き〟は、どこにでもあった普通の慣習だ。
でも普通だからといって、それをして平然といられたわけはない。
罪悪感。疑心暗鬼……。
闇はそんな負い目の影を、こころの奥底から引きずり出す。
その中で、砂を目に食らったある人が、森の闇に〝山に捨てた己の年老いた母〟の気配を感じ取ったとする。ぞっとして冷や汗をかいたその人は、逃げ帰って、寝ずに待っていた女房に夢中でその話を聞かせるだろう。
「あれはおっ母だ。きっと俺を恨んで、化けて出たに違ぇねぇ」
もしかするとその話は、宵っ張りの子供たちも聞いていたかもしれない。娯楽の少なかった時代だ、つぎの日の井戸端や遊び場は、その話で持ちきりになったかも。そして父の言葉ではないが、かつてコミュニティーの情報同期の手段は〝噂話〟だった。
中にはひとりくらい、「そういやうちの亭主も……」と言い出したかもしれない。
そうなると、「うちもうちも」と同期の連鎖がはじまる。
そうやって噂が人から人へと伝播するうちに、情報から〝どこの誰べえの母親〟は消えて〝老婆〟という単語だけが残ってゆく。気配を感じたのがひとりであれば〝母親の幽霊〟なのだろうが――それが複数人の共有体験ともなれば、もう砂をかけてくるのは〝得体のしれない老婆〟だからだ。やがてその噂話が浸透してゆくと、現象には『砂かけ婆』という名前がつけられる。
まずはそれが妖怪誕生の第一歩目だと、その本には書いてあった。曖昧な事象の偶像化。恐らく著者の独断もおおいに混じっているのだろうが、人間心理や緊急回避などとややこしいことを並べて煙に巻かれるより、聡美はよほど素直に納得することができた。
(つまり見えないものにあえて姿を与えることで、不安を遠ざける?)
そこで一旦顔を上げ、聡美は窓の外の景色に視線を投げる。
昼間なら公園の広場を見下ろせるこの二階の窓も、今は鏡のように反射して、よほど意識しなければ映り込む聡美の姿の方に注意が向く。ガラスの向こうの闇と館内の照明の加減で、そう作用している。
見えなければ曖昧になってしまう自分への意識や体調不良の予感も、この状態だとよく感じ取れた。顔色はどう? 髪の乱れは? 具体的に形がわかることで、事前に対処法も方針も見えてくる。それで体が復調することも、髪が整うこともないけれど、見えることでなぜが不安は解消されて安心する。
(そういう、ことなのか……)
たぶん厳密には違うのだろうけれど、聡美は勝手にそう解釈することにした。現象に形と名前を与えて目途をつけることで、〝わからないもの〟を〝実態のあるもの〟へと変換する。実態さえあれば、得体がしれなくても対処も予防もできる。たとえば聡美は小さいころ、宇宙とか時間とか、そういうぼんやり漠然とした存在に、言いしれない不気味さを感じていたことがあった。もっと明確に、怖かったと言ってもいい。
宇宙はどこまでつづいているのか?
その外側があるなら、外側とはどこまでつづくのか?
外側の外側には、また外側があって……。
そもそも宇宙とは、一体なんなのだろう?
ビックバンがどうとか、エントロピーがとか、そういう難しい理論のお話ではなく、存在するはずなのに正体のないものへの座りのわるさ――。
長さや重さと違って、あるはずなのにそこにない尺度への畏怖――。
時間も空間も、宇宙の中だけに存在する。だから宇宙とは世界そのものだと言われても、じゃあ、その世界や時間とはなんなのか? 今日の前に昨日があって、昨日の前に一昨日がある。そうやってずっとずっと遡って、時間のはじまり以前はどうなっていたのか? 考えると意味もなく不安になって、夜も眠れなくなったことだってあった。けれど誰も、聡美が納得できる形で答えてはくれなかった。
「つまり、それは〝概念〟だな」
思い切って父に尋ねてみると、そう言って盛大に笑われた。
「たとえば、ワンワン鳴くのが犬。ニャンニャン鳴くのが猫。もちろん、それに当てはまらない犬や猫もいるだろうけど、それじゃ不便だから〝これはこういうものとしておきましょう〟っていう便宜上の目安が、いわゆる〝概念〟だ。科学っていうのは、そういうはっきりしないものに〝概念〟っていう輪郭をつけるただの定規なのさ。はっきりしないのに、そこにあったらモヤモヤするだろう? だから、とりあえずの形と名前をつけて安心する。宇宙にしろ時間にしろ、本当に存在するのかなんて誰も知らない。地球の外にあるただの空間とか、時計の中でしか計れない仮想の単位とかに、わかりやすくもっともらしい〝概念〟の輪郭と名前をつけただけのものだ。知らないなら、〝こういうものだ〟で納得するのが一番さ。まあ、難しく考えるな」
苦笑いの父にそう諭されて、聡美は長年の異物感がぱっと解消された。
あやふやなりに実態が見えたことで、不思議な安堵感を得られたのだ。聡美が怖れたのは〝わからないこと〟自体で、宇宙や時間ではなかった。その証拠に、今ではどちらも怖いとはちっとも思わない。
そう考えてみれば、科学もオカルトもたいした違いはないのかもしれない。
そんな風にふと、聡美は思った。
「科学には長年の実証とデータが――」と聞いたこともあるけれど、それだって〝科学からの目線〟で構築された、ただの理屈による言い分だ。オカルトにはオカルトの理屈だって、きっとあるにはあるだろう。
第一その科学にしたって、人間の身近なことすらあきらかにはできていない。
脳の仕組みも八割は解明されていないというし、病気にしたって対処法がわかっていても原因が不明なものはたくさんある。それでもみんなが科学を信じ、説明を受ければ安心する。昔はそれが信仰であり宗教であり、別の根拠で動いていただけ。
(……妖怪も、その一部)
言われてみればなんとなくそんな気がして、絵本やテレビの影響で妖怪をキャラクターのように思っていた聡美は、少しだけ微笑ましくさえなった。
実際、近代以前の日本ではそうだったのだと、図鑑には書いてあった。
それでも元来、妖怪とは文字通り〝妖しく怪奇な現象〟をさす言葉で、いわゆる〝お化け〟限定ではないらしい。擬人化をともなわない、不可解な現象……今でいう異次元や超能力といったものも、そこには含まれるのだそうだ。
知れば知るほど面白くなって、気がつくと聡美は本来の目的も忘れて図鑑を読みふけっていた。ともあれそれでオカルトが、かつて人間が生きる上での安全装置だったことがわかった。理解しはじめてみると、意外と興味深いテーマだった。
そして解説は、ついに〝都市伝説〟へと進む。
いよいよだ。そう思って、聡美はもう一度つばを飲み込んだ。その瞬間、
「ははぁ、これはまた――」
唐突に間の抜けた声がして、聡美はビクリとして顔を上げた。
反射的に目を凝らした正面の窓ガラスには、馬鹿みたいに呆けた自分の顔と、微笑みながら聡美の背後に立っている老人の姿が映っていた。
