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伝怪⑧

《影》

 そしてその日から、父はあっち側に行ったきりになった。
 厳密に言えば微妙に異なるが、聡美にとってはおなじことだった。父は聡美をあの忌まわしい母とつねに認識し、〝頭の中の母〟とふたりの暮らしをはじめたからだ。

 朝起きて、朝食の支度をする。
 ふたり分の弁当を詰めて、大学に出勤する。

 夕方には家に帰り、おでんを作って待っている。ふたりでおでんを食べ雑談をし、そのあとは夢中になって研究の話をする。……延々とくり返す一見変わらない毎日。けれど聡美の存在は、はじめからなかったようにそこから抜け落ちていた。聡美を母の名で呼ぶ父は毎夜のごとく儀式を求め、聡美の中で果てるようになった。

「じゃあ、いってくるよ。マサミ」

 ドア越しにかけられる声は、まるで呪いの文言だった。
 聡美はベッドの中で縮こまり、今朝も父のそのうつろな声を聞く。

 もう学校も、体調不良を理由に何日も休んでいた。それでも、「お大事にね……」とだけ告げる電話口の担任の声が、聡美の絶望を余計に煽った。
 お前に手をさしのべるものなど、どこにもいないのだ。そう宣告されたようで、追い詰められた思考がますます深い闇に落ちてゆく。

 ――自分の居場所は、完全に消滅した。

 聡美がそれを思い知るのに、時間はいらなかった。明日こそは、明後日こそはと歯を食いしばってみても、父がこっち側へ戻る気配はなかった。まるで父の中の小さな世界には、母しかいらないとでもいうように。

(うぅん、もしかするとお母さんでさえ……)

 考えるとまた涙があふれ、天井がぼやけて滲んだ。この最後の砦の四畳半ですら、もはや聡美の安全地帯ではなくなった。あのアルバムのころまで時間を巻き戻し、〝母と新しい家族を作ろう〟とする、壊れた父を待つ地獄の窯へと変わり果てたのだ。

 ――そう、新しい家族。
 おぞましい妄想に吐き気をもよおし、聡美はベッドから跳ね起きた。部屋を飛び出すとトイレに駆け込み、へたり込んで便器をかかえる。用意された朝食も弁当も手をつけていない聡美の胃袋は、昨夜から未消化のおでんを吐き出した。

 ようやく、儀式の本当の意味が理解できた。
 聡美を母に見立てた父は、聡美と子供を作ろうとしている。

 結局、父が欲しているのは〝妻〟と〝子供〟という記号だけだった。
 欠けてしまった〝妻〟という記号を聡美で埋め、思い通りにならない過去を封印し、家庭を築くところからやり直そうとしている。
 それが聡美の母である必要はなく、聡美である必要もない。無条件に自分を認め、自分を擁護してくれる場所。それが父にとっての〝家庭〟であり、妻も子供もそれを構成するただのパーツにすぎないのだろう。

 今さら突きつけられた真実が、聡美のこころを打ちのめした。父が守っていたのは、聡美の居場所などではない。父が縋っていたのは、自分のためだけに存在する、空っぽでひとりよがりな城……その残り滓だったのだ。

 ――お願いだから、自分の妄想を押しつけるのはやめて……。

 不意に母の言葉が蘇り、また吐きそうになった。
 お母さん……お母さん、お母さん。
 思わず出かかった声は、左手を強く噛んで押し殺す。今さら母に救いを請うなど、許されるはずもない。では、誰に?

 惑えば惑うほど思考はもつれ、聡美はトイレに蹲ったまま途方に暮れる。
 あからさまに奇異な行動でもあれば、周囲も気づいたのかもしれない。だが父の言動は聡美の件を除けば比較的まともだ。尋ねれば自分の名前も年齢も答えるし、勤務先も大学名まで正確に言う。
 職場での人づき合いが乏しかったことも災いして、大学でも父の異変が悟られた様子はまだなかった。もとより近所づき合いが断絶しているのだから、私生活はなおさらで、聡美以外に父の事実を知るものはいない。

 改めて現実を認識し、聡美の背筋に悪寒がはしった。軽いヒステリーを起こして、左手に立てた歯に力を籠める。

(誰でもいい、助けて――)

 切実にそう念じた時、ほらね、と母の声がした。動揺する聡美が弾かれたように顔を上げると、空け放したままのドアの先に人影が見えた。短い廊下の奥に佇むその影は、リビングから漏れる日差しでおぼろげに揺らぎ、母かどうか判然としない。
 けれど影法師は、はっきりと母の声で言う。

「あなたは、いつだってそう。……自分勝手に人を軽蔑して、困るとすぐに手のひらを返す。本当に、いい性格してるわよね」

 え、と言葉を詰まらせ、聡美は影に目を凝らす。
 影は嘲笑うように、ゆらゆらと揺れた。

「でもまあ、自業自得かしら。あなたが自分でまいた種だし」
「違う、わたしは……」
「なにもしてないって? あはは――」

 心底おかしそうに明滅すると、影は一歩分だけ聡美に近づいた。
 それが現実のものでないことくらいわかっていたが、聡美はふり払うことも目をそらすこともできなかった。

「なんでも誰かのせいにする、って私のこと馬鹿にするけど……あなたのそれは、どこか違うの? なにもしないのは、なにかしたのとおなじなの。まさかとは思うけど、知らなかったって被害者面すれば、全部許されると思ってるわけじゃないわよね?」
「そ、それは……」
「あぁ、思ってるんだ。気持ちわるいわね、それ」

 呆れ果てたようにまた影は揺らぎ、聡美は耳をふさいで首をふる。嫌だ。なにも聞きたくない。なぜ幻覚にまで、自分が責められなくてはいけないのか?
 それでもそれを許さないというように、影の母はさらに一歩分近づいてくる。

「教えてあげましょうか? あなたが酷い目に合うのは、あなたが弱いから。弱さを言い訳にして、強くなろうとしないから」
 ゆらり、また一歩分。
「だから、このまま破滅するの。弱いあなたは、今度も晒しモノになる」

 影が喋るたび、聡美の視界が点滅する。
 視界が点滅するたび、影との距離が縮んでゆく。

「実の父親と関係をもった娘として、死ぬまで蔑まれつづけなさい。だって仕方ないわよね? 今までの噂と違って、これは事実だもの。あなたの弱さがまねいた、否定しようのない事実……でも、それが嫌なら」

 気がつくと、影は目の前に迫っていた。手を伸ばせば届くほどに。
 その位置まできて、はじめて影の全貌がわかる。だがそれは、予想に反して母のものではなかった。蹲った聡美の目線にある、節くれた膝。そこからつづく、筋張った腿。骨盤の形がはっきり出た腰の上には、肋骨の浮いた胸があった。男……それも、全身を血脂じみた包帯で巻きしめている。そしてその上にある顔が――

「任せてしまいなさい、彼に」

 掠れた母の声を合図に、すとんと聡美の鼻先に突き出された。
 包帯の隙間から覗くまっ赤な目が、じっと聡美を見据えてくる。聡美は条件反射で顎を引き、息を詰めて目を見開いた。

「ひ、ぃ……」

 いきおいで仰向けに倒れた聡美は、そのまま白目を剥いて昏倒した。薄れてゆく意識の中で、奇妙な歌声を聞いたような気がした。

 トン……トン……トンカラ……トン……トントン……トンカラトン……。

 それは母の声のようでもあり、またカヨちゃんの声のようでもあり、誰の声でもないようにも思われた。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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