伝怪④
《記憶の底から》
(どこが、オモチャの町なもんか)
根こそぎの歯車が狂ったこの二年半を思い返し、聡美はきつく唇を噛みしめる。
結局そんなものは、ただの幻想でしかなかった。どんなにうわべだけ整えてみても、町の本質も人間の本質も変わらない。ひと皮剥けば、ドロドロの自己偏愛と自己保身の塊でしかないことを、今の聡美なら誰よりも知っている。
その証拠にあれだけ優しかった母は、聡美が小六の時に不倫をした。
相手はよりにもよって、カヨちゃんの父親だった。
「ごめんなさい、魔がさしただけなの」
母はさめざめと泣きながら、狼狽する父の足に縋りついた。さらに泣き落としが通用しないとわかると、今度は豹変して父と聡美をなじり飛ばした。女として見られないつらさが、母親としてしか扱われない虚しさが、あなたたちにわかるのか――と。
髪をふり乱しつばを飛ばしてわめき散らすその姿は、ひたすら気持ちがわるかった。
そこにはもう、天然ぎみのほがらかな母の顔はなく、甲斐甲斐しく夫の世話をやく妻の顔もなかった。あったのは、どこまでも自分だけを主張するひとりよがりな女の顔。魔物に憑かれたように醜く歪んだ、無様で剥き出しな人間の顔だった。
(この町にしたって、そうだ……)
身勝手な母が聡美と父を捨てて消えたころ、事件に飢えた噂好きの住民たちも嬉々として本性をあらわにした。
団地組だの、金持ち組だの、もともと些末な連帯意識で寄り合っている土地柄だ。「こいつは叩いて構わないよ」と言われれば、気さくで面倒見のいい隣人の仮面をほうり捨てるのに、数瞬のとまどいさえも見せはしなかった。
ましてこれは、都市伝説の怪人みたいな子供だましの戯言ではない。
自分も他人事では――と大手をふって糾弾できる、身近に起こったエンターテインメントなのだ。下世話なゴシップは、またたく間に広まった。マンモス団地一帯はもちろんのこと、小学校の保護者たちにいたるまで。
「いっつも物欲しそうな顔して、前から気にはなってたのよ」
「それにしたって、娘の同級生の父親と……ねぇ?」
「しかも、おなじ団地に住んでたんでしょう?」
どんなに耳をふさいでも聞こえてくる、好奇に満ちたざわめき。
その時すでに、カヨちゃんは母親に連れられてこの町から引っ越していた。あの父親がどうなったかは知らないけれど、去り際のカヨちゃんは無言で聡美を睨みつけた。ありったけの呪いを籠めたあのまなざしを、聡美は今でも忘れない。そうして本来の標的を見失った風評の矛先は、しだいに残された父と聡美に向かっていった。
妻に浮気をさせた、甲斐性のない夫。
不貞な母から産まれた、インバイの血を引く汚らわしい娘。
大っぴらにこそ伝えないだろうが、コソコソささやく親の会話を子供たちだって聞いている。〝さーちゃん〟だったクラスでの呼び名は、すぐに〝市ノ瀬さん〟になり、間を置かず話しかけてくる級友自体がいなくなった。
さすがに中学に上がれば騒ぎも風化したけれど、一度貼られたレッテルは簡単には剥がれなかった。中一の終わりごろには援助交際の噂まで流されたし、今でもサカリのついた一部の劣等生から、すれ違いざまにあけすけな視線を向けられることもある。
これが聡美を取りまく、今の現状だ。もっとも、そんな猿のような男子生徒にとってすら〝やっかいな腫れモノ〟との接触は憚られるものらしく、実際に声をかけてくる度胸を見せるものさえ一人もいなかったが。
「しょせん、現実なんて……」
その程度だと呟きかけて、聡美はこめかみに手をそえる。
つまらないことを考えたせいか、ふたたび〝あの頭痛〟がぶり返していた。
本当に、どうしてしまったのだろう? 今日の自分は、やっぱりどこかが変だ。こんな境遇なんて、とっくの昔に受け入れているはずなのに。父がそう決めた以上、この町でやっていくと決めていたはずなのに。
(だって、わたしは――)
なにしろ聡美は、ただの中学生なのだから。
大人を黙らせる権力も、子供を味方につける人望も、力ずくで世間を従わせる強さもありはしないのだ。
みんな消してしまいたいと思うこともあるけれど、そんなこともできるわけがない。自分ではない〝他のなにか〟にでもなれるなら話は別だろうが。
だから、早く家に帰ろう。
父の作った夕飯を食べ、嫌なことはすべて忘れてしまおう。
朦朧とする意識の中、ジンジンと渋る頭をふって歩道橋に目を凝らす。コの字型に昇る階段の片隅には、すでにぼんやりと闇が落ちていた。
このまま県道を向こう側に渡りきり、私道とまじわる路地を左手へ。団地の敷地内に入ってさえしまえば、公園のわきをすり抜けて最初にあるのが八号棟だ。人目を避けて三階までたどりつけば、それでようやく息がつける。
聡美を問題児扱いする教師の目だって、晒しモノにする女子の目だって、いやらしい男子の目だって、そこまでは届かない。
そう決心して踏み出した時、ズクリと子宮が痛んだ。
「うぅ……」
聡美は眉を寄せ、下腹を押さえる。その瞬間、制服のスカートの奥から、熟した粘液と体臭の混じった、腐った香水のような臭いが立ち昇った気がした。いつもよりだいぶ早いようだが、それは生理の予兆だった。
聡美が女であることの証。母とおなじ、雌である烙印……。
なるほど、と聡美は納得する。鬱陶しい頭痛も、安定しない情緒も、これが原因だったのかもしれない。だとすれば、なおさら急がなければ。出血がはじまって、制服を汚しては面倒だ。けれどその思いとは裏腹に、聡美の足取りはいっそう鈍くなる。
たとえ家に帰っても、今日も父が〝まとも〟とは限らない。
母に捨てられてから、ゆるゆると崩壊してゆく父……誰よりも家族を愛し、またそれを拠りどころにしてきた父……そんな父が、この排卵の臭いを嗅ぎ取ったらどうなるのだろう? もしかすると今夜も、あの現実逃避の儀式が待っているかもしれない。急に込み上げる不安が、階段を踏みしめる足を鉛のように重くした。すると記憶の奥底から、得体のしれない掠れた声がささやいてくる。
「なぁ……トンカラトン、って言ってみな?」
ギクリとした聡美が我に返るのと、不意に身を切るような木枯らしが吹きつけたのは、ほとんど同時のタイミングだった。
