伝怪⑤
《悪夢 1》
鉄製の玄関ドアの前に立つと、やはり家の中には父の気配があった。
ほんの少しだけ逡巡した聡美はノブを握りしめ、音を立てないよう注意しながらドアを開ける。さっきの不気味な幻聴も気にはなったが、今は父の状態を確かめるのが先決だ。
上がり框の先にはダイニングの入口が見えていて、すでに忙しく夕食の支度をする音が聞こえていた。ゆっくりと靴を脱ぎ、聡美は鞄を胸に抱いて近づいてゆく。
おそるおそるキッチンの様子を窺うと、ふり向いた父がにっこりと微笑んだ。
「ああ、おかえり〝聡美〟」
「た、ただいま……」
ちゃんと自分の名前が呼ばれたことで、ほっとして息を落とす。
……よかった、今日の父は大丈夫だ。
それが確認できただけで、ひとまずは安心できた。そうなるとおかしなもので、あれだけしつこかった頭痛も、嘘のように鳴りをひそめていた。
気分もいくらか軽くなり、包丁をふるう父の手元をそっと覗き込む。
下処理された牛すじ。丸のままのちくわ。練り物もいろいろ。
半月切りの大根はたぶん、ガス台に用意されている米のとぎ汁で下茹でするところだろう。予想通りの、幸せだったあのころの夕食の味……。
「は、はは、今夜はおでんでいいかな?」
「うん、お父さんのおでん……大好きだから」
「そうか、そうだよな」
バツがわるそうな父の笑顔には、曖昧な笑みを返しておく。
なぜなら献立がおでんになるのは、〝今夜は〟ではなく〝今夜も〟だったから。それでも不器用な手つきで母の味を再現しようとする父に、涙があふれかけた。気取られないように踵を返すと、聡美は背中越しに小さく声をかける。
「……その、毎日ありがとう」
「いいから、早く着替えてきなさい」
でもきっと、肩越しで照れくさそうに手を振る父には、今の言葉は届いていない。
明日の夕方にはまたおでんを作り、聡美に困り笑いでこう尋ねるのだ。
――今夜は、おでんでいいかな?
毎晩父の作ったおでんを食べ、おなじような笑顔を貼りつけ、まったくおなじ世間話をくり返す。聡美はこの二年間、そんなうつろな毎日をすごしている。
もっともその時の会話は、図書館で見つけた小説がとか、昔読んだ詩集がとか、父にとってあたり障りのない話題だけに限られているのだが。
父のこころはずっと、母のいたあのころに留まったままでいた。だとしても〝こっちの父〟でさえあってくれるなら、聡美はそれで幸せだった。
大学講師である父は、この家族ごっこのためだけに自分の講義を午前に集中させてくれている。市の郊外にある総合大学の分舎も、都内にある文系大学の本校舎も、かけもちしているふたつの職場、そのどちらもをだ。
もちろん理由は、ひとり娘である聡美の面倒をみるため。
教員の娘である以上、それがどんな意味かは聡美だって知っている。教授や助教授への出世の道も、そのための研究や学生の信頼も、父はすべてを諦めたということだ。そこまでして、聡美の居場所を守ってくれている。
専門にしている文化人類学というのが、どんな学問なのかまでは詳しくわからなかったけれど、かつては父の習慣だった休日のフィールドワークすら、今は家事や聡美の相手をするためにやめてしまっていた。そんな父の献身は聡美にとってもありがたかったし、少なからず感謝だってしている。
ただ、一度トラウマのスイッチが入ってしまうと……。
とりとめもなく思考を巡らせて、その先を聡美は放棄した。不吉な想像をして、もし今夜もそれが現実になったらどうするというのか。
自室に戻ると、手探りで蛍光灯のスイッチを入れた。
チカチカと点灯した青白い光が、ほどなくつつましい四畳半の洋間を照らし出す。
強引に押し込んだベッドに、勉強机がわりのパイプデスクがひとつ。縦長のスリムな本棚には、教科書や参考書のほかに、いつの間にか集まった文庫本や文芸誌が並んでいる。友達と話を合わせる必要のない聡美は、漫画の類はほとんど読まない。
およそ中学生らしくない部屋だが、ここは聡美にとって最後の安全地帯だった。この殺風景な空間に身を置くだけで、全身の緊張が緩んでゆく。
鞄を下ろして部屋着に着替えると、どっと疲れが出てベッドに倒れ込んだ。
ゴロゴロした違和感はしつこく下腹部にまとわりついたが、ナプキンをする余裕もない。もうなにも考えるのが嫌になって、天井のクロスに目を泳がせる。
やがて聡美は、うつらうつら眠りに落ちた。
うたた寝の浅い夢の中で、聡美は小学三年生の子供に還っていた。
