伝怪⑪
《誘引》
やがてバスは市街地を経由し、郊外の新興住宅地を目指してゆく。
県道からわき道にそれ、私鉄の線路を潜るアンダーパスを通過するころには、町はすっかり宵闇の青につつまれていた。
部活上がりらしい、足元にスポーツバッグを置いた高校生。疲れた顔で通勤鞄をかかえている、会社帰りのサラリーマン。みんなの帰宅時間が近づいてきたせいもあって、バス停のたびに乗客の数も増えてゆく。聡美はただぼんやりと、その光景を眺めていた。
ここ数日の環境変化で、聡美の精神も擦り切れて限界が近づいていた。
(わたしは一体、なにをしてるんだろう……)
まだほんの少しだけ残っている、頭の冷静な部分で考える。
大丈夫、ここにはもう怪人なんていやしない。
そもそもあれは、聡美の脳が作り出した幻覚だ。どんなにはっきり見えていても、実際に襲ってくることなどありえない。
だから、家に帰ろう。
急いでバスを降りて、スケジュールの遅れを取り戻そう。
でないとまた、父が取り乱す。今度こそ、聡美の帰れる場所がなくなってしまう。
だがそれはわかっていても、頭痛で鈍る頭が行動に移すのを拒絶した。たまに流れてくるバスの車内アナウンスも、まったく耳に入ってこなかった。
(……今、どの辺りなのかな?)
ノロノロまわる思考に戸惑いを覚えつつ、聡美は窓の外に視線を投げる。
そしてふとそこに映り込んだ自分の姿に気づき、ギクリとして身を竦ませた。
憔悴して青ざめた、蝋人形のような顔。
どんよりとうつろな、焦点のさだまっていない目。
バサバサに乱れた髪は額にまとわりつき、昔父の図鑑で見た魑魅魍魎のよう。これではまるで、聡美のほうが怪人ではないか――。
そんなろくでもない妄想にとり憑かれて、聡美は小さく首をふる。
けれどその向こうに透かし見た夜景のおかげで、バスの行き先にはおおよその見当がついた。国立病院の前を通るこのルートなら、国道沿いの県営公園を境にバイパスに入るか、父の勤務する大学のキャンパスにつくかのどちらかだ。
(降りるなら、県営公園の前……)
そう決心して、両手の指先でこめかみを押さえる。
あそこからなら、折り返しのバスもすぐに捉まえられるはず。
それにあまり外出しない聡美でも、そこならある程度は地理に明るかった。
市役所沿いの二区画を使用したその公園はかなり広く、県外にも名が知られていて、テニスコートもあれば野外ステージもある。敷地内には市立図書館もあって、聡美も休日にはよく利用していたからだ。
――とにかく、早く引き返さなくちゃ。
そう思うと気ばかりが焦るものの、やはり体は重くてついてこない。
聡美は大きくため息をついて、バスのシートに背をゆだねた。
すでに渋滞のはじまった対向車線は、テールランプのまっ赤な連なりが延々とつづいていた。この分だと帰りのバスを捉まえたとしも、とても夕食の時間には間に合わないかもしれない。それを考えるとまた憂鬱になって、聡美はきつくまぶたを閉じる。すると当たり前のように、不吉な疑念が首をもたげてきた。やっぱりわたしの頭は、おかしくなってしまったのだろうか?
(違う、ちょっと疲れてるだけだ。きっとそうだ)
必死に否定はしてみるものの、もつれた思考は堂々巡りするだけだった。
じゃあ、この頭痛は? さっきの気味わるい怪人は?
どちらにしろ、幻覚から逃げ出す時点で自分はどうかしている。そんな気もして、そら寒くなって肩を抱いた。そもそも、こんな都市伝説がなぜ怖いのか? 子供だましなおふざけのはずじゃなかったのか?
考えれば考えるほど頭痛は酷くなり、脳裏にノイズのような言葉が蘇る。
……人間は、弱くて脆い……こころのバランスが……そんな時の……緊急回避……昔から……妖怪……都市伝説……通り物……。
――通り物?
たしかこれは、いつか聞いた妖怪の名前だ。ということは、これは父の声。
記憶のひだに、なにかが引っかかっている。引っかかってはいるが、どうしてもそれがなにかは思い出せない。思い出さなくてはいけない気もするし、けっして思い出してはいけない気もする。もどかしさから逃れるようにふたたび窓の外へ視線をそらすと、窓ガラスには相変わらず幽鬼のような自分が映っていた。バスの中の薄明りに青白く浮かぶその姿は、我ながらこの世の住人のものとは思えなかった。
これは幽霊か、それとも……。
またくだらない妄想に囚われかけて、慌てて聡美は目を伏せる。
(そうじゃない。あれは幻覚、幻覚なんだ。だから――)
……早く呼ぶの、あの名前を。
頭痛の痺れにまぎれて、カヨちゃんの声がした。どうしてカヨちゃんは、そんなことを言うのだろう? 怪人の名を呼べば、聡美は救われるとでもいうのか? それよりも頭が痛い。ならばいっそのこと……そこまで思い詰めた時、ポーンとチャイムが鳴った。アナウンスされたのは、ルートが分岐する公園前のバス停の名前だった。
(……そうだ、ここで降りなくちゃ)
とっさに聡美は、降車ボタンを押した。バスはしばらく走って、冬枯れたケヤキが並ぶ歩道に横づけで停車した。
やっとのことで重い体を引き上げると、乗客を掻きわけて降車口へ向かう。ふらつく足でステップを降りた聡美の頬を、冷たい風がひと撫でしていった。
「うぅ……」
思わず顔を背けて乗車口を向くと、バス停には新しい乗客の列ができていた。
バスを降りたのは、聡美ひとりきりだった。
それと引き換えに、またバスはぞろぞろと行列を呑みこんでゆく。ハザードランプが照らし出すオレンジ色の顔は、みんな疲れ切っていた。
仄暗い冬の並木道は、それで不意に人気が途絶えた。
ブザーが鳴り、ふたたび乗車ドアが閉まる。
ゴウンとエンジン音が響き、バスがブルブルと唸りを上げる。
そして夜の中にバスが走り去ると、聡美はとうとう悲鳴を上げた。ようやく灯りはじめた街灯の下を、わき目もふらずに駆け出していた。なぜなら渋滞を挟んだ通りの向こう側――バスの陰から現れた折り返しのバス停の頼りない電飾の光の隣に、無言で聡美を見つめて立っているあの怪人の姿があったからだ。
