伝怪⑰
《妖怪と伝怪 3》
それから老人は、ただし――と人差し指を立てる。
はい、と背筋を伸ばし、聡美も聞く姿勢を改めた。打って変わった老人の口調は、いよいよここから本題だよ? そう言っているようだった。緩急をつけられたことで、聡美はすっかり老人の調子に乗せられていた。
コツコツと杖を二度鳴らして、老人の講義が再開する。
「それでも伝怪には、妖怪と変わらない側面もあると思うんですよ」
「……それは?」
「うぅん、上手く言葉にできませんが、救済のための役割。とでも言いましょうか? たしかに寓話から神話性は失われた……ただ失われたからこそ、妖怪より浮き彫りになった人間の本性に関わるもの。たとえばそう、妖怪は畏怖や教訓の具象化だった。そこから解放されたからこそ剥き出しになった、欲求の受け皿とでもいいますか……そんな役目が、伝怪にはあると思うんです」
そこで一区切りして、「そうですなぁ」と老人はぽりぽりと額を掻く。
しばらくそのまま考える間があって、今度は聡美もおとなしく待った。これはさっきのような溜めではないだろう。きっと。
そう予測して待ちつづけると、ポンと額を打ち、老人はカウンターの図鑑をさす。
返ってきたのは、予想外の答えだった。
「そうだ、お嬢さん。それの〝通り物〟の解説を開いてみてください。たぶん、五百ページ辺りに載っていたはずだ」
「……え?」
はじめは聞き間違いかと、聡美は自分の耳を疑った。ざわ、と首筋を撫でてゆくものがあった。「とおり、もの……?」そう老人に聞き直してみると、「そうです、通り物」と老人はこともなげに答えた。
「でも、それって妖怪の名前なんじゃ……」
「ほほぉ、通り物も知っている。これは本当に将来有望だ」
「いえ、そういうことじゃなくて」
「まあまあ、変だと思われるでしょうが、説明はちゃんとしますから」
その方が早いですし、と老人は促すが、聡美は躊躇せずにはいられなかった。
通り物……これは、記憶に刻まれた呪いの一部だ。
父に彫り込まれた、禍の文言だ。
ついつい鈍る聡美の手に、老人の表情が訝しげに曇る。
「どうしました?」と尋ねられ、聡美は返答に困って、「ああ、いえ……」としか答えられなかった。もし今、ここでこの図鑑のページを開いたら? もしそれで、なにかよくないものが解放されてしまったら?
そんな不吉な考えが浮かんで、背筋を嫌な汗がつぅっと伝ってゆく。
だとしても、もう向き合うしかないだろう。
それに今なら、この老人だってついていてくれる。
ここまできたのだからと覚悟を決めて無言で頷くと、聡美は老人に背を向けてカウンターに向き直った。
静かに深呼吸をして、ゆっくりと指定されたページの付近を探してみる。
老人の言う通り、目的の解説は図鑑の真ん中辺りにあった。
乱れた和服の女性と、杖をついた不気味な老爺のイラスト……白髪の老爺は、柄のない薄汚れた着物を羽織っている。遠い記憶のまま切り出された、得体のしれない浮世絵風の図。聡美は息を殺して、じっとそれに目を凝らす。
「まずは、読んでみてください」
「……はい」
老人に勧められるまま、聡美は解説を読み進めていった。
内容を掻い摘むと、つぎのようなものだった。
時代は江戸。ある女房は、ぼんやりと借家の庭を眺めて亭主の帰りを待っていた。
すると夕暮れ、いつの間にか庭先に、白髪の老爺が立っている。ニヤニヤ笑いながら長い杖に縋る、気味のわるい老爺だった。しかも季節は秋だというのに、着ているのは薄汚れた長襦袢一枚だ。顔も土気色で、とてもこの世のものとは思えない。
女房が身構えると、つっと老爺が近づいてくる。
とっさに女房は両眼を閉じ、うろ覚えのお経を唱えた。
こころを静めてお経を唱えつづけ、そっと目を開いてみると、すでにそこには老爺の姿はない。女房は、ほぅっとため息を落とす。
ところが間もなく、数軒先の屋敷で騒ぎが起きた。聞けばその家の細君が、狂って刃傷沙汰に及んだそうだ。ぞっとした女房は、先刻の老爺の姿を思い出す。あれはきっと、よくないものだ。人にとり憑き狂わせる、通りすがりの魔物だ。
――通り物。通り悪魔。
一説には、縋っているのは杖ではなく槍だともいう。こころの弱いものは、その槍で突かれるのだ。魔にさされてしまうのだ。現代でいう『通り魔』の由来も、ここにあるのかもしれない。そう、解説は結ばれていた。
「……読み終わりましたか?」
また絶妙のタイミングで、老人が聞いてくる。
小さく頷き、聡美は図鑑を閉じた。
目をつむり、今読んだ内容を反芻する。夕暮れ。魔物。魔にさされる……なにかが聡美の頭の中で、ぎしぎしと音を立てて繋がりはじめた。また現実と妄想の境目が、曖昧になってゆく。それともさっきから、ずっと夢でも見ているのだろうか? ざらついたテレビ画面のような、ノイズだらけの映像。じょじょに焦点がさだまってくると、唇を尖らせる小学三年の聡美の話を、父は興味深そうに聞いている。
「うぅん、こんな感じかな……?」
聡美が差し出した色鉛筆を取って、父はすらすらと雑な絵を描き出した。
包帯を全身に巻いた、気味わるい怪人の絵だ。
(……これはあの幻覚の)
上手いのか下手なのか、勝手なアレンジを加えた父の想像図は、微妙にねじくれて歪んでしまっている。それが逆に、生理的な嫌悪を掻き立てた。聡美とカヨちゃんが学校で聞いたより、何倍も何十倍も……。
すると今度は、耳の奥で母の声がした。
「ごめんなさい、魔がさしただけなの」
不貞が発覚した時の、呆れかえるような言いぐさ。
その虫唾がはしる言い訳を、小六の聡美は首をふって拒絶した。弱い母はいつも誰かのせいにする。魔物のせいにして、父のせいにして、最後は聡美のせいにする。
わたしは絶対、そんな風になるもんか。魔にさされたりするもんか。叫んだのか呟いたのか、自分でもよくわからない。けれどその答えを待っていたように、どこかでコツコツと杖が鳴る。そして、
「どうです? 通り物……似ているでしょう、例の伝怪に」
過去の父の言葉に、耳元でささやく老人の声がピタリと重なった。
