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伝怪⑩

《逢魔が時 2》

 手元のスマホで確認すると、ディスプレイに表示された時刻は四時少し前。ほんの数日の間で、冬の日中はどんどん短くなる。
 怯えるだけの生活は、おなじ速度で聡美の精神も化膿させていた。高台から赤く染まった町を見渡し、ぼぅっと考える。黄昏時。たそがれどき。……その由来が〝たそかれ〟だと教えてくれたのは、やはり父だったろうか?

「たそかれの字は〝だれかれ〟。誰ですかあなたは、っていう意味だ。江戸時代は街灯もネオンもなかったから、この時間帯になるとすれ違うひとの顔も見えなかったんだな。それで、誰そ彼……ただし、声をかけてくるのが人間とは限らない。だから――」

 ああ、そうだ。たしかそんな呼び方も父は教えてくれた。
 ――逢魔時おうまがどき。 
 夕焼けは、禍時まがときを連れてやってくる。

 ならば聡美にとってのわざわいとは、父なのか? 怪人なのか?
 いずれにしろ、この急な坂道を下った先にそれは待っているのだろう。
 堀とは名ばかりのドブ川を越え、住宅地の迷路の中へ。ひとつめの角を曲がると、不意に下校中の生徒たちの声が途切れた。耳を澄ますと、死角の向こうにそのざわめきは遠のいて消えてゆく。聡美は静かにつばを飲み込んだ。
 目の前には、さらに曲がり角がふたつ。どちらも先の見通しはわるい。掠れて消えかけた〝止まれ〟の路面標示の上に、薄っすらと宵闇がひそんでいる。
 息を殺してその角をやりすごすと、狭い道なりのカーブの先に、もうひとつの闇がじっとりと聡美を待ち構えていた。

 もしそこに、あの緋色の目が待っていたら?
 それよりも今、首筋に包帯巻きの腕がするりと伸びてきたら?

 ありもしない気配に怯えながら、聡美は背後をふり返る。やはりそこには、傾斜地に並ぶ夕暮れの家々だけがひっそり佇んでいた。そうしている間にも、じりじりと陽は沈んでゆく。ふり返り、角を曲がる。角を曲がって、またふり返る。
 ようやく住宅地を抜けたところで、キィキィとペダルを漕ぐ音がした。
 飛び出しかけた心臓を押さえてふり向くと、時代錯誤な豆腐屋の自転車が、気の抜けたラッパを鳴らしながら聡美を追い抜いて行った。

 ほぉ、と震える息が大きく漏れた。
 乱れた鼓動を落ち着かせながら、ふたたび県道を目指して歩きはじめる。

 きっと、父はもう帰っている。
 たとえ聡美を待っていなくても、そこには帰れる場所がある。
 結局、聡美にはそれしか頼るものがなかった。父との関係が明るみに出れば、父は職を失い、聡美も路頭に迷うことになる。たとえ擁護施設に入れたとしても、そんなものは居場所がなくなるのとおなじだ。
 もし居場所がなくなったら、弱い聡美はどうすればいい?

 父も、聡美も、聡美たちを追い詰めた意地のわるいやつらも、いっそのことみんなみんな消えてしまえばいいとも思うが、それだって現実には不可能だ。
 聡美さえ我慢していれば、きっとそれで全部丸く収まる。だから、急いで帰ろう。父の作ったおでんをふたりで食べ、今夜も人形になって呪われた儀式をやりすごそう。

 ほら、もうそこに歩道橋だって見えてきた。
 この階段を上りきって、県道を渡って向こう側へ。
 足元はだいぶ暗くなったけれど、まだ陽は落ちきっていない。コの字型に折れた踊り場を抜ければ、団地まであとひと息だ。
 けれど――

 やはりそいつは、じぃっとこっちを見つめていた。
 歩道橋の階段の天辺から、踊り場の聡美を見下ろしていた。
 だらりと右手に垂らした日本刀が、鈍色に残光を照り返す。全身に巻かれた包帯は、膿とも脂ともつかないシミでどこと言わず薄汚れている。

「ひッ……」

 反射的に出かかったその名前は、喉の奥で押し殺した。夕日に染まってなお赤い目が、聡美の視線と絡み合う。顔すら埋め尽くす包帯の隙間から覗く、白目も黒目もない、血色の眸だ。聡美は思わず身を引いて、硬直したまま後退る。心臓がギシギシと痛み、左手で制服の胸元をぎゅっと握りしめる。
 その左手を追って、ぐるりと赤い視線が動いた。
 なぜ、と思う間もなく、聡美はその瞬間に身を翻していた。
 今きた歩道橋の階段をひと息に駆け降りると、県道に沿って走り出す。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。わたしばっかり、どうしてこんな目に……誰になく問いかけると、ひさびさの頭痛と一緒に母の声が返ってきた。
 ――だから言ったでしょう?
 いや、違う。そうじゃない。これはカヨちゃんの声か……頭の内側をひっかくその声をふり払おうと夢中で走るうち、ほどなく進んだバス停で折よくバスが捉まった。聡美は行き先も確認せずに飛び乗った。
 ブザー。アナウンス。閉まる乗車ドア。

 息を切らせて顔を上げると、乗客の視線が揃って聡美に向けられていた。混雑というほどではなかったが、車内の座席はすべて埋まっていた。
 その無数の視線に囲まれながら、聡美はどうにか安堵の息を漏らす。これだけの人目があれば、もう怪人も追ってはこれないだろう。そう確信しながら、乗客の間をぬってよろよろとバスの最後尾まで進む。
 すると一段上がった後部座席の窓側から、

「だ、大丈夫かい。お嬢ちゃん……顔色わるいけど」

 と、白髪の男の声がかかった。
 困惑しながら席を譲る男の申し出は、遠慮せずに受けた。それを待っていたように、バスはゆっくりと夕暮れの町に向けて発車する。
 そっと肩越しにふり返った歩道橋には、すでに怪人の姿はなかった。
 ふと気がつくと、窓にそえた左手の包帯が、なぜか緩んで解けかけていた。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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