伝怪⑮
《妖怪と伝怪 1》
それでも根気よく聡美の言葉を待っていた老人は、はははっ、と愉快そうに笑い、コツリと杖を鳴らして一歩分だけ聡美に近づいた。
「そこまでとは言いませんが、詳しいですよ。たぶん」
「……じゃあ」
聡美は詰まりかけた喉から無理やり押し出し、わらにも縋る思いで尋ねてみる。
どうしても口にできなかった、あの名前を。
「知ってますか? 怪人トンカラトン、って……」
その時、一瞬だけ老人がニタリと笑ったように見えたのは、気のせいだろうか? 間を置かず「ああ、ああ」と相槌を打った老人は、大きく二度三度頷きながら、あっけらかんとした口調でこう言った。
「知ってますよ。トン、トン、トンカラトン……って、やつでしょう? そうですか、またマイナーな伝怪を。その図鑑にも、載ってなかったのでは?」
「……えっと、はい」
確認こそしていなかったが、聡美はすぐに頷いた。
老人ほどでないかもしれないけれど、父もこの図鑑は熟読しているはず。その父が知らなかったのだから、当然ここには〝トンカラトン〟の項目はないのだろう。思わぬ嘘をついたようでほんの少し気は引けたが、老人にそれを気にしたそぶりはなかった。
「そうですか、お嬢さんは〝あの伝怪〟を――」
どこか楽しげに言うと、老人は小首を傾げて聡美の顔をのぞき込む。
「ときに、もし差しつかえなければ、理由をお聞きしてもよろしいですかな?」
「理由、ですか?」
「いえね、お嬢さんのような方が興味を持つには、ずいぶん地味といいますか……珍しい伝怪だと思いまして、お尋ねになられた理由をお聞きできればと」
「そ、それは……」
思わぬ老人の追求に、聡美はつい口ごもってしまった。
やはり、藪蛇だったろうか? 余計な下ごころを出したせいで、逆に不必要に老人の関心を引いてしまった。
自分の軽はずみな選択に、聡美は唇を噛みしめる。
だが老人はその様子に気がつくと、「あ、これはまた、いらんことを」とうつむく聡美を宥めてくれる。
「爺ぃの戯言だと思って、どうぞ今の質問は忘れてください」
「いえ、そういうわけじゃ……」
自分で呼び止めた上に、不敬な態度を取っている自覚は聡美にもあった。
ささやかな罪悪感が、きゅっと小さな胸をしめつけた。
だからというわけではなかったが、気がつくとぽつりぽつりと、聡美は老人にここまでの経緯を話していた。
幼いころに聞いただけの噂話を、なぜか最近不意に思い出したこと。
その姿が脳裏に焼きついて、夢の中にまで出てくること。
もちろん母やカヨちゃん、父と聡美の関係や幻覚のこと、都合のわるい部分は伏せたまま、聡美はたどたどしく怪人――いや、伝怪のことを老人に語って聞かせた。
そんな端切れをつぎはいだパッチワークのような聡美の話を、老人はまた根気よく「うんうん」と頷きながら聞いてくれた。
「そうですか、そんなことが」
そして聡美の話を聞き終えた老人は、ゆっくりと話を引きつぐ。
「なんとも奇妙はお話ですが、まぁ無理もないでしょう。全身グルグル巻きの包帯に日本刀、錆びついた自転車の音……子供にとっては、どれも怖いものの象徴だ。トンカラトンって伝怪は、そういう〝わかりやすい記号〟の寄せ集めですから、知らないうちにトラウマになっても不思議じゃない」
「そういうもの、でしょうか……?」
「ええ、伝怪なんてのは得てしてそういうもんです。ほかにも昔、注射男なんて伝怪もいました。全身包帯のグルグル巻きで、こっちは校門や電柱の陰で子供を待ち構えて、いきなり毒の注射を打ってくる。これなんかも注射や包帯という、子供の身近にある怖いものから想像が膨らんで生まれた伝怪ですな。この辺りは土地柄的にも、大きな国立病院もあるし、昔は軍の工場や施設も多かった。そういう意味じゃ、包帯だの軍刀だの、トンカラトンの容姿とも相性がよかったのかもしれない」
「……なるほど」
「それに、もともとトンカラトンは出身地不明の伝怪です。もしかすると、案外この地方が……なんてのは、ちょっと都合がよすぎる妄想ですかな?」
そう言って、老人はニカっと笑った。
そんな場合ではないのは承知の上だったけれど、つい老人の口調がおかしくて、聡美の口から本当にひさしぶりにくすりと笑いが漏れた。
この老人と話していると、なぜだか不思議と気分が晴れた。こうやって理解しやすく紐解かれてみると、聡美が考えるほど伝怪も得体のしれないものではないのかもしれない。そんな思いすら湧いてきて、あれだけ気を煩わせていた父のことも幻覚のことも、今だけは気にならなくなってくる。
これも全部、馬鹿にせず聡美につき合ってくれた老人のおかげだった。
(もっともっと、このお爺さんと話がしたい……)
いつの間にかそう思うようになっていた聡美は、それで決心がついて図鑑を閉じてカウンターの上に置いた。
今度はしっかり老人に向き直ると、軽く深呼吸してから切り出す。
「あの、よかったら、もっと教えてもらえませんか? その……伝怪のこと」
すると老人の頬が、待ってましたとばかりにほころんだ。
「もちろん構いませんよ。それでお嬢さんは、どこまでトンカラトンをご存知です?」
快い老人の返答に、聡美はほっと息をついた。
さっそく椅子を勧めると、老人はまぁまぁと身ぶりでそれを辞退した。
少し戸惑ったが、老人がそれでいいのなら仕方がない。対面に老人を見上げる形で、聡美は堰を切ったように伝怪のことを話しはじめた。
わずらわしいことを嫌うはずの自分が、なぜ急にこんな心境になったのか? それは聡美自身にもよくわからなかった。
ただ今は、そうしなければならないような気もしていた。
老人の人柄がそうさせたのかもしれないし、本当は聡美が〝まともな人間との会話〟に飢えていたせいなのかもしれない。なんにせよ、この二年半――自分を押し殺してきた鬱憤を晴らすように、聡美は夢中になってバカバカしい都市伝説の話をした。途中で女子大生風の咳払いが何度か聞こえたが、そんなものもどうでもよかった。気がつくとなにかにとり憑かれたように、聡美はひと通りの知識を老人に披露していた。
