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伝怪⑭

《閲覧室の老人 2》

 ……いつの間にうしろに?

 面食らいながら体ごとふり向くと、はずみで横滑りした椅子の足がギギッと不快な音を立てる。離れた閲覧机の方から、また女子大生風の咳払いが聞こえた。
 老人は、困った顔で閲覧席を見やると、

「すみません、ご迷惑をかけてしまいましたか?」

 そう言って、見事に禿げ上がった頭をぽりぽりと掻いた。とっくりのセーターの上にねずみ色のスーツを着た、人のよさそうなお爺さんだった。
 着ているものはどちらも着古して多少よれていたが、どこか品のいい感じがした。右手には生成りのコートをかけていて、左手にはステッキ――というか、木目調の節くれだった杖をついている。それが妙に印象的だった。

(誰だろう……)

 顔見知りかとも思ったが、やはり老人の顔に見覚えはなかった。そもそもこんなところで気軽に話しかけてくるような知り合いは、今の聡美にいるはずもない。
 困惑した聡美は、おずおずと老人の問いに問いで返す。

「いえ……あの、なにか?」
「ああ、重ねてこれはどうも……いきなりこんな爺ぃに話しかけられたら、そりゃお嬢さんもびっくりしてしまいますなぁ」

 言いながらもわるびれた様子はなく、「私はただね」と、老人は聡美の手元の図鑑を指さした。一連の所作があまりにも自然すぎて、聡美はついついペースに巻き込まれた。

「その図鑑、お嬢さんみたいな今時の子が読むのは珍しい……というか、奇特な方だと思って、それで嬉しくなってねぇ。いやいや、その歳で妖怪に興味を持ってくれるとは、これもテレビのおかげなんですかな。私も愛読書なんですよ、それ。もう少し上級者になったら、柳田國男や井上円了なんかも読んでみるといい。将来有望だ」

 聡美は、はぁ、と答えるしかなかった。
 それは構わないが、いきなり言われてもリアクションに困る。

 老人もそれで空気を察したのか、あぁこれは、とくり返すと頭を下げた。聡美もつられて、小さく目礼をする。それにしても、どこにいたんだろう? さっきまで、こんなお爺さん見かけなかったのに。本棚の陰にでも隠れて、見えなかったのだろうか? それとも気づかないうち、閲覧室に移動してきていたのだろうか?
 そんなことを考えながら見上げていると、老人は「じゃあ、ごゆっくり」とにこやかに微笑んだ。聡美もなにか返そうと口をパクパクさせたが、老人はいやいやと手をふって踵を返した。ところが、その去り際に、

「おや……」
 肩越しにふり向いた老人の目が、ふたたび図鑑の上で止まる。ほんのちょっと楽しそうに眉を上げると、ぽつりと言った。

「なるほど。お嬢さんが知りたかったのは、〝伝怪〟の方ですか」
「……えっ?」

 聡美は思わず聞き返した。老人のその表情も気にはなったが、それより耳慣れない単語がいきなり耳に飛び込んできたからだ。伝怪……語呂や老人の目が追った先からみて、きっと都市伝説のことだろう。聡美の手元の図鑑は、都市伝説についてのページが開きっぱなしになっている。

「あの、伝怪って――」

 呼び止めるともなく声をかけると、それが口癖なのか「あぁ」と呟いて、老人は照れくさそうに聡美に向き直った。

「どうも、度々失礼を。伝怪ってのは、私が勝手につけた呼び名でして、お察しの通り都市伝説の怪人のことです。伝説の〝伝〟に、怪人の〝怪〟。仕事がらこの手のものを扱うことが多かったもので、妖怪と区別するためにちょっと。はい」

 仕事と言っても、昔のことですが――。
 そう付け足して、老人はまたぽりぽりと頭を掻いた。
 ということは、学者か学芸員……それとも大学関係の? 自分の身近な環境で考えたせいか、聡美が連想したのはそういう職業だった。尋ねると老人は悩ましげに首を傾げ、「まあ、そんなところですかな」とだけ答えた。

「それはそれとして、お嬢さんが調べているのは、その伝怪の方では?」
「そう、なんですが……」

 聡美は、どう説明していいかわからず口ごもった。
 いきおいで聞き返してしまったものの、まさか〝幻覚の怪人〟への対処法を調べていたとは口が裂けても言えない。けれど老人は、この図鑑を愛読書と言っていた。さっきまでの口ぶりからしても、どうやらその手のオカルトが専門らしい。
 ということなら、もしかして……。
 そんな微かな期待を込めて、聡美は老人の顔色を窺った。老人はきょとんとしたまま、聡美の顔を見つめ返してくる。

(どうしよう、この際、思い切って相談してみようか?)

 そんな考えが一瞬、聡美の脳裏をよぎった。
 このままひとりで図鑑を読み進んでも、内容を完璧に理解できる保証はない。
 そうなれば聡美の疑問には、永遠に答えが出ないのかもしれない。

 とはいえ、うかつな尋ね方をしたりすれば、きっと聡美の頭はおかしいと思われてしまうだろう。今さらではあるけれど、それは避けたかった。
 聡美のなけなしの自尊心が、それだけは回避しろと必死に訴えていた。
 期待と不安の板挟みで、聡美の決心はぐらぐらと揺れていた。それでも今ここでこの老人と出会えたのは、聡美にはなにかの運命のようにも感じられた。そして思いあぐねたあげく、聡美の口からおそるおそるこぼれ落ちた結論は、

「その、お爺さんは、詳しいんですか? 都市伝説……伝怪にも」

 という、ぼんやりとした質問だった。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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