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伝怪⑳

《解放》

 老人の言葉は、ゆっくりと聡美の隅々に広がっていった。
 こころだけではなく、体中全体に。耳から脳へ。脳から心臓へ。心臓から胸、肩、手足へと、赤黒い血液と一緒に沁み通ってゆく。

 そうか、そうなのか。よかったのだ、あれで。危うく聡美も、図鑑の女房とおなじように決めつけてしまうところだった。捕らえにきたのではなく、救いに……だから母もカヨちゃんも、任せてしまえと言ったのだ。

 夢うつつのまま考えながら、聡美はガラスに映った老人を見上げる。
 老人は、うんうんとにこやかに頷いている。

 静かに目を閉じ、これまでのことを思い返す。聡美を捨てて去った母も、聡美に呪いの視線を投げつけたカヨちゃんも、理不尽な風評で聡美を苦しめた連中も、聡美を記号扱いして穢した父も、そして――そんな扱いを、甘んじて受け入れた弱い自分も。すべてがバカバカしくなって、自然と笑みがこぼれた。ああ、本当に晴れやかな気分だ。こんなに爽快なのは、何年ぶりだろう。

 こころに立ち込めた霧が、さっと一斉に退いてゆくのが感じられた。
 その向こうの暗闇から、包帯巻きの腕が手まねきをする。
 と、そこで――

「……あの、すみません」

 背後から急に、声がかかった。なにかに怯えたような、少し震えた女性の声。
 はい、と軽やかに答えると、聡美はまぶたを上げる。夜闇を背負った窓には、受付にいた女性職員の姿が映っていた。いつもの愛想のいい笑顔ではなく、不気味なものを見るような青ざめた顔で、やや遠巻きにガラスの中の聡美を覗き込んでいる。

「ええっと、なにか……?」
「いえ、その……」

 聡美がにっこり微笑むと、女性職員は口ごもった。
 閲覧席の方からは、ひそひそとささやき合う声が聞こえてくる。
 そういえば、お爺さんは?
 さっきまでそこに立って、聡美と話をしていたのに。

 不思議に思った聡美がふり返ると、ひっ、と声を殺して女性職員は身を引いた。構わず辺りを見まわすが、やはり老人の姿は見当たらない。職員に驚いて、いなくなってしまったのだろうか? うっかりして、名前を聞くのを忘れてしまった……つらつらそんなことを考えていると、表情を凍らせた女性職員から、たどたどしく警告の言葉が漏れた。やっと絞り出したような、引きつった声だった。

「他の方のご迷惑になるので……館内ではお静かに」

 それだけ言い残して、女性職員は逃げるように去ってゆく。
 聡美はきょとんとしたまま、瞬きをくり返す。

 しばらくじっくり考えて、ここが図書館だということをふと思い出した。いけない。話に夢中になって、とんでもないマナー違反をしてしまった。なるほど、それで老人は職員の姿を見て慌てて逃げてしまったのか。
 勝手に納得して、ノロノロと閲覧席を見渡してみる。
 聡美と目が合いかけた利用者たちが、慌てて顔を背けた。
 まあ、やってしまったことは仕方ない。聡美はぺこりと閲覧席に頭を下げると、鞄を抱いて開架図書をあとにする。

「……まったく、ひとり言なんて」

 その背中にはそんな女子大生風の呟きも届いていたが、特に気にはならなかった。今さら他人の目なんてどうでもいい。誰がなにを言おうと、聡美の目的は果たされた。あの老人のおかげで、こんなに気分が軽くなったのだから。
 そして聡美は、踊るような足取りで最寄りのバス停へと向かった。

 帰りのバスに揺られて住宅街の停留所に着くころには、辺りは真っ暗になっていた。
 バスを降りた聡美は、どこか弾んだ心持ちで顔を上げてみる。
 寒々と澄み渡った夜空には、月も星もない。家々の明かりをつつみ込む、漆黒の夜。魔物が自由に跋扈していたころのような、黒々した真の闇……ポツポツと街灯が歩道を照らしていても、それはまやかしのともしびだ。

 闇は人の外側だけでなく、内側にもある。
 聡美はもう、その闇に恐れを感じることはない。

 まだ浮遊感の残る足取りで、歩道橋の階段を踏みしめた。眼下に横たわる県道も、渋滞が捌けて闇に沈み込んでいる。時折行きかう車のヘッドライトだけが、かすかに文明の息吹を感じさせるだけだった。
 ――なんて、静かな夜なんだろう。
 県道とまじわるわき道をたどりながら、聡美はそう思った。
 遊び歩く子供を叱る声。やたらボリュームを上げたテレビの音。いつもなら耳に障る団地の生活音も、なぜか今夜は聞こえない。
 まるですべてが、聡美のためにお膳立てしてくれているようだった。思わず気分が高揚して、頬が赤らむのがわかった。知らずに早足になって、家へとつづく私道を目指していた。荒くなった息が、白く凍って闇の中に散ってゆく。

 ああ、いい感じだ。
 これならきっと、行き会うことができる。

 そんな予感がして、無我夢中で歩いた。汗ばみはじめた肌にブラウスが纏わりつく。やたらと体が火照ってきて、リボンタイを解いて投げ捨てた。もう、鞄だっていらない。こんなものは、あの植え込みの中に放り込んでしまえばいい。
 だって聡美は、今から聡美ではなくなるのだから。そうして全部が終わったら、つぎは自分のように苦しむ人に救いの手をさしのべる存在になれるのだ。

 聡美のために、母がそうしてくれたように。
 聡美のために、カヨちゃんがそうしてくれたように。

 やがて交差路が見えてくると、キィキィと赤錆びた金属音が響いてくる。
 背後から聞こえるのは、あの奇妙な歌声だった。

 トン、トン、トンカラ……トン。
 ――トン、トン、トンカラトン……。

 聡美は胸をときめかせながら、左手の包帯を解いた。今度こそおまじないで、彼の邪魔をしないように。その間も、けっして歩調は緩めたりしない。あと五メートル……三メートル……もうすぐだ。もうすぐまた彼に会える。すると突然、

「……トンカラトンと、言え」

 耳元で声がした。聡美は解放の歓喜に身を震わせる。
 ふり向いた視線の先には、ただ彼がいた。錆だらけの自転車にまたがって、じっとまっ赤な目で聡美を見つめていた。

 血濡れた包帯で巻きしめた、痩せぎすの体。右手にふり上げた、白々と光る日本刀。全身がどこか歪んで見えるのは、聡美のつたない記憶のせいだろう。父の描きなぐったイラストのまま、聡美の望んだ姿のまま、彼はただ現象としてそこにいた。
 けれど、聡美は彼の要求には応えない。
 応えてしまえば、彼はなにもせず去ってしまうルールだから。

「ありがとう……」

 小さくそう、呟いてみる。
 現象である彼は、たんたんと役目を遂行する。
 頭上で閃いた白刃が、まだ薄い聡美の胸めがけてふり下ろされた。
 聡美は無言で微笑むと、両手を広げてそれを受け止めた。

 そして聡美は、彼になった。
 彼になった聡美も、役目を果たさなければならない。

 私道から団地の敷地に入り、公園をすり抜けて八号棟へ。薄暗い階段を三回折れた先には、ペンキの剥げかけた鉄扉がある。
 音を立てないよう注意して、ドアノブをまわす。
 ダイニングからは、夕食の支度をする音が聞こえている。キッチンでは、鼻歌まじりの男が包丁をふるっていた。聡美だった彼はスカートの隠しポケットを探ると、かつてそうしたように男の背後に近づいてゆく。

 その手のひらの中で、カチカチとカッターの刃が音を立てた。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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