野良犬は「指差し」を理解できる——都市環境が犬の行動と性格を形作る仕組み
Free-Ranging Dogs Are Capable of Utilizing Complex Human Pointing Cues
書誌情報
Bhattacharjee, D., et al. (2019). Free-Ranging Dogs Are Capable of Utilizing Complex Human Pointing Cues. Frontiers in Psychology, 10, 2818.
DOI: https://doi.org/10.3389/fpsyg.2019.02818
Published: 2020年1月17日(オンライン公開:2019年11月29日)
この記事はこんな人に向けて書いています
これからドッグトレーナーを目指している方
犬の認知能力や社会的行動に科学的な根拠をもって向き合いたい方
「なぜ犬は人間のジェスチャーを理解できるのか」という問いに興味がある方
保護犬・野良犬支援に関わっており、行動科学的な背景を学びたい方
犬のしつけを「感情面」から捉え直したいトレーナー・飼い主の方
注)論文読解にAIを利用しています。表記のゆれや訳の間違いがあるかもしれません。正確な内容を知りたい方は必ず原文をご覧ください。
はじめに:「指差し」という、ヒトと犬をつなぐ言語
「指を差してあの方向を見てごらん」——人間の子どもが1歳前後でこのジェスチャーを理解し始めるように、犬も人間の「指差し(ポインティング・キュー)」に反応できることが、多くの研究で明らかにされてきました。
家庭犬においては、このポインティング追従能力(point-following behavior)はほぼ確立された事実として受け入れられています。しかし、ドッグトレーナーを目指す立場から考えたとき、重要な問いが残ります。それは、「その能力は訓練によって形成されたものなのか、それとも犬という種本来の能力なのか」という問いです。
この問いに答えるために、本研究は非常に巧妙なアプローチをとりました。飼い主も訓練もない「野良犬(free-ranging dogs)」を対象に、人間の比較的複雑な指差しジェスチャーに反応できるかどうかを検証したのです。
研究の背景:なぜ「野良犬」を研究するのか
家庭犬による研究の限界
これまで犬の認知能力に関する研究の大部分は、家庭犬を対象としたものでした。家庭犬は日常的に飼い主と密接な関係を築き、言語・非言語を問わずさまざまな人間のコミュニケーションに繰り返し晒されています。すなわち、間接的な条件付け(indirect conditioning) が既に多く生じている状態です。
この条件付けが関与している以上、「家庭犬が指差しを理解できるのは犬本来の能力なのか、それとも学習の結果なのか」を純粋に検証することは困難です。
野良犬という「理想的な実験系」
これに対して、野良犬(free-ranging dogs)は人間の直接管理下に置かれず、人間との相互作用は日常的に存在しながらも、体系的な訓練は一切受けていません。そのため、ポインティング追従能力が「学習に依存しない」かたちで存在するかどうかを検証する「理想的な実験系(ideal system)」として位置付けられます。
さらに、研究チーム(インド・インド科学教育研究所コルカタ校)が指摘するように、野良犬は世界の犬個体群の中でも最大の亜集団を占めており、特に発展途上国において人間との複雑・多面的な相互作用を日々経験しています。インドでは人が犬に食べ物を与える際、「身体を前傾みにして渡す」か「食べ物を遠くに投げながら指で場所を示す」という2つの典型的なパターンが観察されており、後者は 遠位ポインティング(distal pointing) に相当します。このような生態学的文脈は、研究設計に自然なリアリティを与えています。
研究デザインと方法論
対象と実験設定
本研究では、インド・コルカタ市内の都市部に生息する成犬160頭を対象としました。いずれも見知らぬ実験者(unfamiliar human experimenter)との接触は初めての個体です。
実験は2種類のポインティング・キューを用いて設計されました:
1. 動的遠位ポインティング(Dynamic Distal Pointing)
実験者が指差しを続けている状態で被験犬が選択を行う。指が「目標」の近くに位置するわけではなく、1メートル以上離れた距離から方向を示す。
2. 瞬間的遠位ポインティング(Momentary Distal Pointing)
実験者が一瞬だけ指を差した後に中立姿勢に戻り、その後、犬が選択を行う。記憶と空間認知を要する、より高度な課題。
比較対象として、先行研究(Bhattacharjee et al., 2017a)で用いた 近位ポインティング(proximal pointing) のデータ(同じ個体群の成犬を対象)が参照されています。近位キューとは、指が目標物の直近に位置するため、空間的な近接性が手がかりになり得るより容易な課題です。
慣れ(familiarization)のプロセス
重要な点として、本研究は 慣れのフェーズ(familiarization phase) を設けています。被験犬が実験設定(2つの餌の入った容器と実験者)に十分慣れた後に本試行に移行します。これにより、単なる新奇刺激への回避反応が誤って「指差しを理解しない」と誤判定されることを防いでいます。
しかし、問題は慣れに成功した犬でも約半数が「参加しない(non-participating)」という結果を示したことにあります。
主要な結果
1. 野良犬は遠位ポインティングを理解できる
慣れの段階を通過し、実際に実験に参加した犬のうち、多くが遠位ポインティング・キューに従って正確に正しい容器を選択しました。これは、直接訓練を受けていない野良犬であっても、比較的複雑な人間の参照的ジェスチャーを理解・活用できることを示す初の知見です。
2. 遠位キューは近位キューより「正確に」追従された
先行研究との比較において、興味深い逆転現象が観察されました。一般的な予測とは反対に、遠位ポインティングへの応答正確率が、近位ポインティングを有意に上回っていたのです。
著者らはこれを、遠位ポインティングが生態学的に意味のある文脈(食べ物を遠くに投げながら指示する人間の行動)に近いためではないかと推察しています。野良犬が日常的に経験してきた「人が指す方向に食べ物がある」という現実的な経験が、課題への適応を促した可能性があります。
3. 約半数が「参加しなかった」——その理由は不安行動状態
慣れのプロセスを経た後でも、被験犬の約半数が本試行への参加を示しませんでした。詳細な行動観察により、これらの犬が「不安行動状態(anxious behavioral states)」にあったことが明らかになりました。
分析では、一般化線形モデル(GLM)を用いて「性別」「行動状態(friendly / anxious)」「ポインティング・キューの種類」が接近反応に与える影響を検討しています。その結果、最も強力な予測変数となったのは 「行動状態」 でした。すなわち、不安状態の犬は実験への参加自体を回避したのです。
この発見は、以前の研究(Bhattacharjee et al., 2017b)で、野良犬が見知らぬ人間との直接の身体接触を集団レベルで回避する傾向があることを示した知見とも一致します。
考察:人間との経験が犬の「性格」を形成する
生活経験が個体差を生む
著者らは、野良犬における参加率の個体差を説明するために「生活経験(life experiences with humans)」という概念を重要な媒介変数として提示しています。
インドの都市部に生息する野良犬は、人間から食べ物を与えてもらうという正の経験だけでなく、追い払われたり、叩かれたり、毒餌を与えられるなど、深刻な負の経験も日常的に受けています。研究チームは別の論文(Paul et al., 2016)において、野良犬の早期死亡の63%が人間に起因することを示しており、その環境的圧力の大きさが窺えます。
こうした対照的な経験の蓄積が、個々の犬の「性格(personality)」——特に人間に対する接近傾向や回避傾向——に影響を与え、それが指差しジェスチャーへの反応性という行動として表出すると著者らは結論付けています。
「能力」と「意欲」は別物である
ドッグトレーナーを目指す方に、この研究が示す本質的なメッセージをお伝えしたいと思います。それは、「能力(capability)」と「参加意欲(willingness to participate)」は切り離して考える必要がある、という点です。
この研究では、実際に参加した犬は遠位ポインティングを相当な精度で理解していました。しかし、参加しなかった犬の半数が「理解できないから参加しなかった」のではなく、「不安を感じたために参加しなかった」のです。
これはトレーニングの文脈においてきわめて重要な示唆です。犬が指示に従わない・課題をこなせないように見えるとき、その理由が「能力の欠如」であることは、実は意外と少ないかもしれません。むしろ 「情動状態(emotional state)の問題」である可能性が高い ということを、このデータは示唆しています。
不安状態と認知パフォーマンスの関係
認知行動療法(CBT)の枠組みで考えると、この結果は非常に腑に落ちます。不安状態(高覚醒状態)においては、前頭前野の機能が低下し、探索行動・問題解決行動が抑制されることが、ヒトを対象とした研究でも繰り返し示されています。犬においても扁桃体が主導する回避・防御システムが優位になると、「課題を解く」という認知的処理よりも「危険から逃れる」という生存行動が優先されます。
したがって、不安状態にある犬がポインティング課題に参加しなかったことは、行動神経科学的な観点からも整合的です。犬が「できない」のではなく「今の状態では動けない」のです。
ドッグトレーナーとして考える:この研究が示す実践的含意
1. 情動状態の評価を最優先に
指示を出す前に、目の前の犬がどのような情動状態にあるかを評価することが不可欠です。尻尾の位置、耳の向き、身体の重心、視線の避け方——これらのボディランゲージが「不安・回避モード」を示しているとき、いくら明確な指示を繰り返しても犬はそれに従えません。この状態で「わかるように何度も教える」ことは、犬の不安を悪化させるだけです。
まず情動状態を安定させること。それがすべての出発点です。
2. 参加しない犬を「頑固」と決めつけない
本研究で参加しなかった犬の多くは不安を抱えた個体でした。保護犬や慣れていない犬がトレーニングに参加しない・反応しないとき、「やる気がない」「頑固だ」「理解力がない」という解釈は適切ではないことが多いです。環境・人間・過去の経験との関係性が、犬の行動の文脈を形成しています。
3. 「遠位指差し」への感受性は野良犬にも備わっている
これは裏を返せば、家庭犬も含め、適切な情動状態にある犬であれば、言語的・行動的コマンドの訓練がなくとも 人間の空間的ジェスチャーに対しても高い感受性を持つ ということを意味します。「指差し」を含む非言語コミュニケーションをより意識的にトレーニングに組み込むことで、犬との協働の精度が高まる可能性があります。
4. 「種間コミュニケーション」の進化的基盤
本研究が示すように、野良犬がポインティングに反応できることは、この能力が純粋な訓練の産物ではなく、少なくとも部分的には犬という種の進化的・生態学的な産物であることを示唆します。人間と共存してきた数万年の歴史の中で、人間のジェスチャーを読む能力が生存上有利であった可能性があります。
本研究の限界と今後の課題
著者ら自身が認めているように、本研究にはいくつかの制約があります。
第一に、個体の過去経験の詳細な記録がない点です。各野良犬が人間からどのような扱いを受けてきたかは推定に留まり、「生活経験が性格を形成する」という仮説の検証は間接的なものに留まっています。
第二に、文化的・地域的な特殊性の問題があります。インドの都市部の野良犬は、人間との特定のパターンの相互作用(食べ物をめぐる遠位ポインティング)に馴染んでいる可能性があり、他地域の野良犬個体群への一般化には慎重さが必要です。
第三に、「参加しなかった個体」の詳細な行動記録の継続的分析が望まれます。不安行動状態の正確な定義とスコアリングについて、さらなる標準化が求められます。
まとめ
本研究は、人間との直接的な訓練関係を持たない野良犬が、動的・瞬間的な遠位ポインティング(複雑な参照的ジェスチャー)を理解できることを初めて実験的に示しました。
同時に、約半数の個体が「能力の欠如」ではなく「不安行動状態」によって参加を回避したという発見は、犬の行動を「能力の問題」と「情動状態の問題」に分けて考える重要性を改めて浮き彫りにしました。
人間との生活経験が犬の性格を形成し、その性格がコミュニケーション行動の反応性に影響を与えるという視点は、ドッグトレーナーとして日々現場に立つ私にとっても、非常に重要な理論的枠組みです。
「犬が言うことを聞かない」「課題をこなせない」——その背景には、常に情動状態という変数が横たわっています。その変数を無視したトレーニングは、長期的な信頼関係の構築を妨げ、犬の行動をかえって硬直化させるリスクがあります。
参考文献(当該文献のReferenceに載っていない引用文献)
本論文のReference欄に掲載されていない、本記事を読む際に参照した関連文献は以下のとおりです。
Paul, M., Majumder, S. S., Sau, S., Nandi, A. K., & Bhadra, A. (2016). High early life mortality in free-ranging dogs is largely influenced by humans. Scientific Reports, 6, 19641. https://doi.org/10.1038/srep19641
Rugaas, T. (1997). On Talking Terms with Dogs: Calming Signals. Dogwise Publishing.(邦訳:カーミングシグナル)
Beck, A. T., Rush, A. J., Shaw, B. F., & Emery, G. (1979). Cognitive Therapy of Depression. Guilford Press.(認知行動療法の原典として参照)
関連ブログ記事(kairosdog.info)
本論文の内容と関連する、Suzyのブログ「カイロス時間」の記事を3点ご紹介します。
1. the飼主力:愛犬の才能を伸ばす「伝え方」「接し方」
本論文の主旨である「人間との経験が犬の性格・行動を形成する」という知見を、しつけの実践に落とし込んだ内容と親和性が高いです。
2. カーミングシグナルをおぼえよう!
犬の「不安行動状態」を読み取るために不可欠なカーミングシグナルについて。本論文で「参加しなかった犬の行動状態」として記録されたものと直結する内容です。
3. やってはいけない:正しくない犬へのあいさつ(ヒト編)
人間からのアプローチが犬の情動状態に与える影響を解説。野良犬が不安状態になる要因として「見知らぬ人間との接触」を本論文が挙げていることと深く関連します。
