【コラム】弱者男性と弱者女性は、同じ「弱者」ではない。
はじめに
「弱者」という言葉は便利だけれど、かなり雑な言葉でもある。
なぜなら、同じように社会の中で不利な立場に置かれていても、男性と女性では苦しみ方も、見られ方も、救済のされ方も違うからだ。
この話をすると、すぐに
「男のほうがつらいのか」
「女のほうがつらいのか」
という対立になりやすい。
でも本当に見るべきなのは、どちらが上か下かではない。
そうではなく、同じ“弱者”でも、圧迫のされ方が違うということだと思う。
弱者男性は放置されやすい。
弱者女性は保護される代わりに管理されやすい。
この違いを見ないまま弱者を語ると、現実をかなり雑に切り取ってしまう。
どちらも生きづらい。でも、生きづらさの形が違う
まず前提として、弱者男性も弱者女性も生きづらい。
経済的に苦しい。
社会の競争からこぼれやすい。
人としての尊厳を傷つけられやすい。
その意味では共通している。
ただ、その苦しみの出方が同じではない。
女性は、弱い立場に置かれると「守られるべき存在」として見られやすい。
一見するとそれは助けてもらいやすいということでもある。
けれど同時に、「一人では難しい存在」として扱われやすく、対等性を失いやすい。
一方で男性は、弱い立場に置かれても「自分で何とかするべき存在」として見られやすい。
だから助けを受けにくい。
支えられる前に、まず立て直せと求められやすい。
つまり、どちらも楽ではない。
ただし、苦しみ方が違う。
弱者男性は、放置されやすい
弱者男性の苦しさは、社会から助けてもらいにくいことにある。
困っていても、こう言われやすい。
頑張れ。
モテるために努力しろ。
稼げ。
強くなれ。
自信を持て。
これらの言葉自体が全部間違っているわけではない。
でも、弱っている人に対して最初にそれが返ってくる社会は、かなり厳しい。
男性には昔から
「支える側であれ」
「守る側であれ」
「一人前であれ」
という役割が強く求められてきた。
そのため、弱い男性は単に困っている人としてではなく、役割を果たせていない人として見られやすい。
無職の男性が厳しく見られやすいのも、その一つだと思う。
恋愛で弱い立場の男性が“対象外”になりやすいのも、同じ構造にある。
男性は、苦しいときに助けを求めても、寄り添われるより先に「まず価値を示せ」と言われやすい。
この意味で、弱者男性の地獄は放置と孤立に向かいやすい。
弱者女性は、保護される代わりに管理されやすい
それに対して、弱者女性は「保護の対象」として見られやすい。
困っていれば助けてもらえる。
支えてくれる人が現れる。
守ってもらえる。
そうした救済の物語が、文化の中に比較的残りやすい。
ただし、これは単純な救いではない。
保護されるということは、同時に
「危ないからやめたほうがいい」
「一人では難しいだろう」
「誰かに頼る前提で生きる存在」
と見られやすいことでもある。
つまり女性は、助けられる可能性がある一方で、対等な主体として扱われにくくなることがある。
保護と引き換えに、不自由さや依存や管理が入り込みやすい。
さらに、女性は身体的・性的な危険や搾取にもさらされやすい。
弱い立場にあることそれ自体が、利用される理由になってしまうこともある。
だから弱者女性の苦しさは、助けられやすさの裏側にある不自由さや危険に向かいやすい。
男性は「無価値化」、女性は「客体化」されやすい
かなり単純化して言えば、こうも言えると思う。
弱者男性は、無価値化されやすい。
弱者女性は、客体化されやすい。
男性は、稼げない、頼りない、魅力がない、結果を出せない、となったとき、存在そのものの価値まで低く見られやすい。
「役に立たない男」として扱われやすい。
女性は、能力や意思よりも、見た目や若さや従順さや“守られやすさ”で見られやすいことがある。
人として尊重されるというより、条件つきで扱われやすい。
どちらもつらい。
ただし、圧迫の方向が違う。
男性は「いないもの」にされやすい。
女性は「誰かのもの」のように扱われやすい。
この差は大きい。
恋愛では、この違いが特に出やすい
この構造は恋愛の場面でかなりわかりやすく出る。
女性は文化の中で、少なくとも「愛される側」「見つけてもらう側」の物語を持ちやすい。
もちろん現実はそれほど単純ではないし、女性にも厳しい競争や傷つきはある。
それでも、「誰かに助けられる」「愛されることで状況が変わる」というイメージは残りやすい。
一方で男性は、「まず価値を示す側」として扱われやすい。
経済力、行動力、自信、安心感、会話力。
そうしたものを持っていて初めて土俵に立てる、と感じやすい。
そのため、弱い立場の男性ほど
「まず自分を立て直さなければ恋愛に参加する資格がない」
と感じやすい。
しかも、その苦しさをそのまま出すことも難しい。
弱っている姿を見せるほど、さらに不利になるからだ。
ここが、弱者男性のきついところだと思う。
日本では、男性の“弱さ”は特に許されにくい
この傾向は、日本では特に強い気がする。
今でも日本には、男性は働き、支え、責任を持つべきだという感覚がかなり残っている。
だから男性が無職であること、収入が低いこと、恋愛で評価されないことは、単なる状態ではなく、人格や価値の問題にされやすい。
「ちゃんとしていない」
「頼れない」
「情けない」
というふうに見られやすい。
一方で女性は、もちろん別のしんどさを抱えるけれど、
「いまは休んでいる」
「家事や別の役割がある」
「誰かに支えられることもありうる」
という説明の余地が比較的残りやすい。
ここにも、弱者男性が放置されやすい構造が出ていると思う。
だから比較する意味がある
こうして見ると、弱者男性と弱者女性を比較する意味ははっきりしている。
それは、どちらがより不幸かを競うためではない。
同じ“弱者”でも、何に苦しみやすいかが違うことを明らかにするためだ。
弱者男性の問題は、助けが来ないことだけではない。
助けを求めること自体が尊厳を削りやすいことにある。
弱者女性の問題は、助けがあることだけではない。
その助けがしばしば支配や依存や危険と結びついていることにある。
つまり、
弱者男性は、放置されやすい
弱者女性は、管理されやすい
この対比で見ると、かなり整理しやすい。
本当に見るべきなのは、誰が悪いかではなく構造だ
この話を、女性が悪いとか、男性が悪いとか、そういう方向に持っていくのはあまり意味がない。
多くの場合、それは個人の悪意というより、長く続いてきた社会の期待や役割分担の名残だからだ。
女性は守られる存在として見られやすい。
男性は守る存在として見られやすい。
この構図がある限り、女性には保護と引き換えの不自由が生まれ、男性には自力救済の圧力が生まれる。
だから必要なのは対立ではなく、理解の更新だと思う。
男性の弱さはもっと自然に支援の対象になっていい。
女性への支援も、保護や管理ではなく、対等な尊重を前提にしたものであるべきだ。
そうでなければ、どちらの苦しさにも届かない。
終わりに
弱者男性と弱者女性は、同じ弱者ではない。
共通して苦しい立場に置かれやすいとしても、圧迫のされ方が違う。
弱者男性は、放置されやすい。
弱者女性は、管理されやすい。
弱者男性は、無価値化されやすい。
弱者女性は、客体化されやすい。
この違いを見ないまま「みんな同じように大変」で済ませてしまうと、現実の痛みを取り逃がしてしまう。
本当に必要なのは、どちらがより不幸かを争うことではない。
それぞれの苦しみ方の違いを見て、それに合った支え方を考えることだと思う。
弱者を語るなら、まずそこから始めるべきであるかもしれない。
