専念寺ネコ坊主さんの投稿から考えたこと
好きで見ている、専念寺ネコ坊主さんの投稿が流れてきた。https://x.com/i/status/2010888827263713313
今日のお寺の掲示板 pic.twitter.com/Iqc1ZbKzOK
— 専念寺/ネコ坊主 (@yabumoto610) January 13, 2026
説教でも断罪でもなく、淡々とした言葉なのに、妙に残るものがあった。
「他人のミスには拡声器。
自分のミスには記憶喪失。」
刺さる言葉だけれど、煽っている感じはしない。
むしろ、現場を見てきた人の静かな実感に近い。
この言葉が刺さるのは、
ここで起きていることが「失敗」や「間違い」ではないからだと思った。
「他人のミスには拡声器。
自分のミスには記憶喪失。」
この言葉が突き刺さるのは、
ここで起きていることが「間違い」ではないからだ。
それは、うっかりでも、判断ミスでもない。
自分に不利な責任だけを消し、
他人に向けた非難だけを大きくする。
その選択が、繰り返されている。
誰かの出来事は、細部まで語られる。
文脈を削り、意図を決めつけ、
「問題」として拡声される。
なかったことも、まるであったかのように。
一方で、自分が与えた影響や傷については、
急に言葉がなくなる。
覚えていない。
そんなつもりはなかった。
よくわからない。
これは混乱ではない。
責任から退くための態度だ。
失敗なら、向き合える。
ミスなら、訂正できる。
でも、他人にだけ説明責任を求め、
自分の番になると記憶を消す人は、
最初から引き受ける気がない。
だからこれは「間違い」では終わらない。
失敗でもなければ、ミスでもない。
意図的な加害だ。
声の大きさを操作し、記憶の有無を使い分けることで、人を孤立させ、立場を奪い、「語る資格」そのものを削っていく。
それを、ただの失敗や不注意として扱うなら、
同じことは何度でも起きる。
誰が記憶操作こんな人を信用するねん。
信用できない理由は、
間違えたからじゃない。
間違いをなかったことにするからだ。
2022年冬、大阪千日前で起きた、
その後も何年も続く加害に繋がった。
