縹渺たる二月の終わり

2026年2月24日、火曜日。冬の湿った空気が、都心のビル群の隙間に重く澱んでいた。
僕のスマートフォンに、一通のLINEが届いた。

「今週末のクルージングだけど、その日は行けなくなった。代わりに、秋葉原で会えないかな。話したいことがあるんだ」

彼女からの連絡だった。
秋葉原。そこは僕たちの住まいのちょうど中間に位置する、事務的な合流地点だ。そして何より、僕たちが付き合い始めた場所でもあった。あの日も、「ちょっと時間あるかな、秋葉原で話そう」と彼女に誘われ、夕食を共にした後に「付き合おう」という言葉を交わしたのだ。

同じ場所、同じ誘い文句。嫌な予感が、冷たい指先のように背中を這い上がった。
以前にも一度、「話がある」と言われたことがあった。その時は、僕が家の鍵をかけ忘れたり、トイレの電気をつけっぱなしにしたりすることへの、生活上の注意に過ぎなかった。今回もその程度であればいい。そう自分に言い聞かせながら、僕は鏡の前で自分の顔を見た。不安を隠しきれない、情けない表情がそこにあった。

彼女は付き合い始める際、「別れる時に悲しい思いをするのが嫌だから、付き合うことには慎重になりたい」と言っていた。そんな彼女が、わざわざ場所を指定して「話がある」という。それは、彼女の中で何かが決定的に固まったことを意味しているのではないか。

僕は彼女に会う直前、爆発しそうな不安をねじ伏せるために、狂ったように筋トレをした。筋肉を追い込み、身体的な苦痛を与えることで、心の痛みを麻痺させたかった。汗を流し、鉄の重みを感じている間だけは、自分がまだ自分の支配下にあると信じることができた。

結局、直接会う前に電話で話すことになった。2月24日の夜、時計の針は深夜を回ろうとしていた。
電話の向こうの彼女の声は、驚くほど静かで、そして冷たかった。

「別れたい」

その言葉が出た瞬間、世界から音が消えた。電話は30分ほど続いた。僕は食い下がった。「何か変われるかもしれない」「もう一度考え直してほしい」。だが、受話器越しに伝わってくるのは、まるで巨大な、びくともしない硬い石のような拒絶の意志だった。

彼女は別れの理由として「もっと自立しなきゃいけないと思ったから」と口にした。だが、僕はその言葉を額面通りには受け取れなかった。自立が必要なら、共に歩みながら自立していく道もあったはずだ。本当の理由は、もっと残酷な場所にあるのではないか。

「つまらなかったんだろうな」

僕は直感的にそう悟った。情けなさと、取り返しのつかない後悔が、喉の奥に苦くこみ上げた。

電話を切れば、すべてが終わる。そう分かっていたから、僕は中身のない言葉を重ねて、30分も電話を長引かせてしまった。しかし、どんなに言葉を尽くしても、石は動かなかった。

電話が切れた。プツッという無機質な音が、僕たちの三ヶ月の終わりの合図だった。
「悲しい」という感情よりも先に、得体の知れない「気持ち悪さ」が襲ってきた。実感が伴わない。三ヶ月という短い期間でさえ、これほどまでに内臓をかき回されるような不快感がある。もしこれが三年、五年という月日だったら、僕はどうなっていただろう。

人は死んだら会えないように、彼女ともう二度と会えないことが、今、確定した。
僕は、死を目前にした人間が「ああ、本当に死ぬんだ」と悟る瞬間の空虚さを、あらかじめ味わっているような気分だった。

翌朝、2月25日。
目が覚めた瞬間、胃の底からせり上がるような激しい吐き気に襲われた。
精神的なストレスが、これほどまでにあからさまな身体反応として現れることを、僕は初めて知った。
「あんなにいい人とは、もう二度と出会えないのではないか」
「どこで間違えたんだろう」
「もっと他にできることがあったんじゃないか」
後悔と不安が、朝の光と共に容赦なく部屋に降り注ぐ。

仕事に行ける状態ではなかった。在宅勤務に切り替えたが、パソコンの画面を見つめていても、文字が滑って頭に入ってこない。それでも、何かに集中していなければ、意識がそのまま暗い深淵に飲み込まれてしまいそうだった。

「これは事実上の『死別』なんだ」

そう思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚になった。いや、それは穴というより、新しく刻まれた癒えない「痛み」そのものだった。昨日まで当たり前に存在していた人間関係が、この世界から完全に消滅した。その事実に、僕は震えるような恐怖を感じていた。

午後、僕は部屋に残されていた彼女の荷物をまとめた。
ピンク色のヘアアイロンと、少し使い古されたタオル。
それらを段ボールに入れながら、僕は彼女がもう僕の部屋に来ることはないのだと、自分に言い聞かせた。

彼女にとって、僕はもう「転校して違う学校に行ったきり、一生喋らなくなる同級生」のような、遠い過去の存在になったのだろう。その割り切りの良さが、今の僕にはひどく羨ましく、そして悲しかった。

僕は段ボールの中に、一枚の手紙を忍ばせた。「体調に気をつけてね」とだけ書いた紙。彼女が最近体調を崩していたのを思い出して、どうしても書かずにはいられなかった。
そして、かつて彼女と「名前くらい綺麗に書けるようになりたいね」と話したことを思い出し、僕は自分の名字である「石澤」の二文字を、今持てる全精力を注いで、丁寧に書き記した。それが、僕が彼女に示せる最後の、精一杯の誠実さだった。

荷物を発送した後、僕は逃げるように街へ出た。
入浴施設と漫画喫茶が一体となった場所へ向かった。550円で漫画が読み放題の、静かな場所。
僕はそこで『呪術廻戦』を手に取り、読み耽った。アニメで見ていた物語の先を追うことで、現実の痛みを一時的に麻痺させたかった。

湯船に浸かりながら、ふと思った。
「意外と切り替えられるのかもしれない」
だが、それは錯覚だった。ふとした瞬間に思い出がフラッシュバックし、そのたびに心は元の場所へと引きずり戻される。

身体の異変は、吐き気だけでは終わらなかった。
僕の中から、あらゆる「欲」が消えていた。
食欲がない。お腹が空かない。
睡眠欲がない。眠りたくても眠れない。
性欲など、影も形もない。
ただ、この現実から逃げ出したいという、それだけの願いが僕を支配していた。
もし今、目の前に「簡単に死ねるボタン」があったら、僕は迷わずそれを押していただろう。それほどまでに、僕の精神状態はまともではなかった。

一番辛かったのは、これほどまでに絶望しているのに、一滴の涙も出ないことだった。
感情をコントロールするのが下手な僕は、悲しみを「涙」という形に昇華させることさえできなかった。この重たい塊が、ずっと胸の中に居座り続ける予感がして、僕はただ立ち尽くしていた。

夜の2時を過ぎても、寝付けないままYouTubeの動画を眺め続けた。
画面の中で笑う人々が、遠い異世界の住人のように見えた。
メンタルのダメージとは、これほどまでに身体を蝕むものなのか。
明日も仕事がある。だが、僕の心は、2月24日の夜から一歩も動けずにいた。

2月26日の朝。
目覚めると、数日続いていた激しい吐き気は、少しだけ収まっていた。
僕は「思い出さないこと」を自分に課した。彼女の顔、声、共有した時間。それらを記憶の奥底に封じ込め、「最初からなかったもの」として扱うことで、ようやく平穏を保とうとしていた。

昨日までの嵐のような感情が嘘のように、心は静かな「凪」の状態にあった。
だが、それは癒えではない。ただの麻痺だ。

在宅勤務を続けながら、僕は気づけば、誰かと話したいという強烈な欲求に駆られていた。
別れてから、僕は誰とも会話をしていない。

「人は、深く傷ついた時ほど、誰かに会いたくなる」

それは本当だった。彼女という唯一の理解者を失った今、僕は自分がどれほど脆弱な存在であるかを、嫌というほど思い知らされていた。

窓の外では、二月の冷たい風が吹き抜けている。
秋葉原の駅で待ち合わせた、あの日の彼女の笑顔。
「慎重になりたい」と言った、あの時の真剣な眼差し。

僕はパソコンを閉じ、誰もいない部屋で一人、深呼吸をした。
空っぽになった胃の奥が、まだ少しだけ疼いていた。
世界は昨日と同じように回り続けている。
けれど、僕の二月は、あの三十分の電話の中で、永遠に止まってしまったかのような錯覚が続いていた。

いつか、この痛みが「ただの思い出」に変わる日は来るのだろうか。
時間という解決策を疑いながら、僕はただ、次の呼吸をすることだけに集中した。

(完)


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