フェイク
1564年、フランス国王シャルル9世は、1月1日を新年とする「グレゴリオ暦」を採用した。それまで3月25日を新年の起点とし、4月1日まで一週間かけて祝祭を楽しんでいた人々は、この急激な変化に戸惑い、あるいは反発した。
彼らは皮肉を込めて4月1日を「偽の新年」と呼び、中身のない箱を贈るなどの馬鹿騒ぎを演じたことがエイプリルフールの有力な起源とされる。この風習はいわば「フェイクの新年」を祝うという反骨心から始まったのだ。
フランスではこの日を「ポワソン・ダヴリル(4月の魚)」と呼ぶ。この時期の鯖は智恵が足りず簡単に釣り上げられると言われ、他愛のない嘘に引っかかる人間を「旬の魚」に例えて揶揄した。仕掛ける側の狡猾さではなく騙される側の無防備さを皮肉る中世以来の冷ややかな視点である。
この4月1日のフェイクには厳格な様式美が存在し、イギリスを中心とした欧州では「嘘は午前中まで。午後は種明かしをして、共に笑い合う」という暗黙のルールが守られていた。
それは期間限定の「共有された幻想」であり、正午という明確な境界線を越えてはならないという理性的な合意があった。いたずらという名のフェイクを許容し合える、成熟した社会の遊戯だったのである。このルールを破り、午後まで種明かしを先延ばしにする者は無粋な人間として蔑まれた。
ところが、この伝統的な制約をあえて無視し、夜の報道番組で壮大な虚構を仕掛けたのが1957年4月1日のBBCである。スイスでスパゲッティが豊作であるという3分間の映像には、木からパスタを収穫する農家の姿が淡々と映し出された。当時のイギリスにおいてパスタはまだエキゾチックな食品であり、多くの視聴者がその栽培風景を信じ込んだ。
大真面目な報道番組があり得ない光景を事務的に報じたことで、苗木の入手方法を問う電話が殺到した。同時に、公共放送が国民を欺いたことへの激しい批判や家庭内での真偽を巡る諍いも巻き起こった。
しかし、現代におけるフェイクの様相は決定的に異なる。デジタル技術の進展により、その製造コストは劇的に低下した。
2021年には、自動車大手フォルクスワーゲンの米国法人が、電気自動車へのシフトを象徴するために社名を「ボルツワーゲン」に変更すると発表した。当初は冗談と受け取られたが、同社が公式に事実であると重ねて主張したため、信じた投資家によって株価が変動する事態に至った。後にジョークであったと釈明したが、市場を混乱させた代償は大きく、経済的な実害を伴う「質の悪いフェイク」として指弾を浴びた。
エイプリルフールではないが2016年の熊本地震の際、「動植物園からライオンが逃げた」というSNSでの投稿が地域社会を混乱に陥れたことは記憶に新しい。当時は既存の写真を転用した稚拙なフェイクであったが、現在の生成AIの台頭は嘘を「偽造」へと変質させてしまった。
現在、画像生成AIを用いれば、日本の住宅街を闊歩するライオンの毛並みまで鮮明な偽画像が数秒で出来上がる。影の落ち方やアスファルトの質感まで計算されたその画像は、もはや人間の目では真偽の判別が困難だ。
さらに昨今の技術向上は、実在する人物の口調や表情までも正確に模倣する。AIが生成するフェイクは、人間味を削ぎ落とした「真実よりも真実らしい」記録として無機質に増殖する。そこには知的な遊びや最後には笑い合える種明かしの余地はない。
いまや、4月1日というフェイクの聖域はその特権性を失いつつある。私たちは365日、精巧なフェイクニュースの海を泳ぐ回遊魚になった。
情報の真偽を確認するために多大なエネルギーを費やし、常に防御的でなければならない現代において、信じることのコストは高騰の一途を辿っている。かつては一年に一度の「解禁」であった嘘が、今や日常を侵食するノイズへと化した。フェイクがユーモアの領域から実害の領域へと完全に移行した事実は、私たちの精神から、かつての「4月の魚」を笑い飛ばす余裕を奪っている。
フェイクの価値は、その内容の巧みさではなく、種明かしがなされた後の「後味」によって決まる。かつてのエイプリルフールが持っていた、誰も傷つかず、正午になれば全員が正気に戻るという贅沢な様式。それは、社会に最低限の信頼と約束事が成立していたからこそ可能な、高度な遊戯だった。
AI時代の現在、私たちは改めてフェイクの質を問われている。単なる欺瞞と知的なユーモアを分かつのはその先に「笑顔」が想定されているかどうか、という一点に尽きるのではないか。真実と虚偽の境界が曖昧になった今、往時の他愛のない、いたずらという名のフェイクに、一抹の郷愁を覚えざるを得ない。
急きょ必要に迫られ冷蔵庫にあるもので弁当を拵えた。「本物の卵」を静かに割りながら、代替卵でないことに安堵した。
