ニセモノ
茹で卵のニセモノが出回っているそうだ。
かつては『価格の優等生』と勝手なタイトルを冠され健気に君臨してきたが、近年の高騰を受けて、その代用としての広がりを見せている。
「茹卵風加工品」や「卵加工品」「そうざい」などと記載され、「なんちゃって卵」「茹で卵もどき」とのクスッと笑って許してほしい感漂うネーミングもあるようだが、「フェイク卵」「偽卵」には変わりなく私は全くクスッとできない。
その最たるものが、通称「ロングエッグ」と呼ばれる怪物だ。一見すれば何の変哲もない茹で卵だが、その実態は長さ数十センチにも及ぶ筒状の「工業製品」である。
どこを切っても同じ直径の黄身が顔を出すその姿は、まるで金太郎飴だ。鶏が産み落とした個体差という「生命のゆらぎ」は徹底的に排除され、均一であること、そして無駄を省くことだけを追求して再構築されている。
この歪な卵の起源を辿れば、1970年代のデンマークに突き当たる。茹で卵の両端という「廃棄される端材」を惜しんだ経済合理性が、この異形の卵を産んだ。原材料は確かに液卵ではあるが、形を保つためのゼラチンや増粘多糖類、色を整える着色料が加えられ、一度解体された「命」が工場のラインで再び成形されるのだ。
今やこの「卵加工品」は、コンビニの麺類やサラダ、ファストフードの月見バーガーといった日常の至る所に潜伏している。鳥インフルエンザによる高騰を背景に、堂々とその使用を公表する企業も現れたが、多くはメニューの片隅に「卵加工品」などと小さく記されるか、あるいは無言のまま「卵」という偽名を使い、私たちの食卓に紛れ込んでいる。
思えば、森羅万象、その本性や本質を隠す、誤魔化しやまやかしの類いに対して、私は生理的拒絶感がある。それは「食」に留まらず、何より「人間」において顕著だ。
書き言葉や話し言葉を過剰に盛り、飾り、繕い、装い、「人からこう思われたい」「こう見られたい」という欲求が生む虚像を演じる。 そんな欺瞞に腐心する人間への嫌悪感は、常々綴ってきた通りであり拙稿をお読みくださる諸氏におかれては、既にお気づきかと思われる。
誤解しないでいただきたいのは、私は「模造」そのものを否定しているわけではないということだ。潔くパロディを自称するなら全然構わない。パロディとは、それが「本物ではない」という事実を、作り手と受け手が互いに了解した上で成立する高度な遊びだ。そこには元ネタへの敬意や、偽物であることを逆手に取ったユーモアという「誠実な開示」がある。
しかし、フェイク(偽物)は違う。それ本物のふりをして沈黙し、受け手の無知や信頼に乗じて牙を剥く。利益や効率のために「真実」を覆い隠すその不誠実さは、パロディとは似て非なる、卑怯な偽装に他ならない。
連れて行かれたその店は、いかにも現代的な、お洒落な和食店だった。
色とりどりの前菜が、大きなダークカラーの土物プレートに、計算され尽くした配置で「映えて」いる。その視覚的な完成度は、まさにSNSの喧騒のなかで「私に喝采を浴びせない人なんているのかしら?」と言いながら、完璧な装飾を見せびらかし挑戦的に煌めく。
ひと足早く季節を取り入れたという、冷製の小さな茶碗蒸し。その天面には、宝石のような輝きを放つイクラとキャビアが鎮座している。
一口。そして一口。さらに一口。
生命の鼓動を私の舌が感じない。
違和感が走った。
性格の悪い私は、誰にも気づかれないよう、チェイサーのグラスの縁から箸先で水を一滴、プレートの隅に落とした。そこに、茶碗蒸しの上の「宝石」をおもむろに運び、箸の先でゆっくりと、こっそりと、水に馴染ませる。
案の定、白濁しない。
本物の魚卵であれば、含有されるタンパク質が水に反応し、白く濁るはずだ。しかし、目の前のそれは、どこまでも透き通ったまま、冷ややかに私を見返している。
ああ、ここにもフェイクか。
私のこの卑屈な実験を隣に座るAは見逃さなかった。すべてを察したという、共鳴と共感の静かな視線を受けながらそっと箸を置いた。
出汁巻き卵を拵えた。銘柄卵でもなく最寄りのスーパーで買い求めたごくごくありふれた、ありきたりの卵だ。けれど、偽りのない本物の命の味に感謝と安堵に包まれた。
