生きてこそ / 響き合う記憶
深夜2時を過ぎ、
部屋に響くのは、
鍵盤を叩く小さなカチカチ音だけ。
モニターの光は、静かにコーヒーカップを
ぼんやり照らしている。
今僕はキーボードにあの時の記憶の音を刻んでいる…。
脳裏に映し出しながら…。
何度も何度もストリングスを打ち込み直す…。
記憶と音符♪達は何度も僕の中を出入りしている…。
ほんの少しの強弱、音の入り方…
その一つ一つで曲がもつ感情の見え方が変わってしまう。
神経質になるDTMerの腕の見せ所なのかもしれない。
Abbey Road Two の音源はとても繊細で、
脳と指先に敏感に反応する。
まだまだ未熟な僕ときたら、
いやはや…。
それ相当の悪戦苦闘から逃れられないのである…。
…現実は厳しいのである。
RUMS(UJAM)をリバーブで少し後ろへ下げる。
イントロ部分のピッコロの抜ける空気感を、
優しく静かに重ねていく。
ピアノの余韻、残響を微調整…。
バイオリンの揺れ…。
クワイアの呼吸…。
人が奏でる“間”のようなものを
鍵盤だけで表現しようとすると
自分の未熟さを何度も思い知らされる。
この楽器チョイスと打ち込みにはかなりの時間を費やす。
確かにDTMは便利だ。
しかしながら、覚えることの多さは、
まるで終わりの見えない音の迷宮のようで…
たびたび迷子になる。
そんな時、130ccのコーヒーは
心を癒してくれる…。
君は僕にとって、欠かせない存在…。
心の中にある表現音を、
プラグイン音源とマッチングさせるには、
まだまだ時間が必要である。
“音を楽しむ”
字のごとし、その領域へ辿り着くには、
それなりの前提があるのかな…
って感じッ!
窓の外の世田谷が、まだ静かに眠っている…
そんな朝よりの夜中に作っていたのが、
今回アップしたインストゥルメンタル、
「生きてこそ/ 響き合う記憶」。
この曲は、父のことを想いながら作曲した。
音を重ねるたび、僕はなぜか、
父のことを思い出していた。
父は去年の十二月に他界した。
言葉では言い表せないくらい、とても優しい人だった。
でも…
僕との宗教的な事情もあり、
十年以上コンタクトを取っていなかった。
父は熱心な宗教家であった…。
去年の十一月、病室で再会した。
10数年ぶり…。
重度の脳梗塞と認知症だったため、
おそらく僕のことは
認識できていなかったと思う…。
それでも、
何かがどこかで繋がっている気がした。
親子だから当たり前と言えば、それまでだが…。
そう何かが…。
父は、僕が生まれる前からホテルなどで
ハワイアンバンドを組み、
ウクレレで弾き語りをしていたらしい…。
僕が三歳の頃、父は…
脊髄腫瘍という病に襲われ、
その後は車椅子の人生となった。
僕の母親という名の人はその頃、姿を消した…
どこからともなく風の便りが届いたが…
そんなもの、文字にもしたくないッ!!
母親がわりの祖母は、
僕の面倒を本当によく見てくれた。
というか…育ててくれた…
そして父のいた中伊豆リハビリテーションへ
月1位のペース連れていってくれた、
さながら毎月じいちゃんとばあちゃんとの
小旅行…楽しい小旅行…ロマンスカーにも乗れた。
そしてリハビリテーションでは父とのふれあい…
帰りは、くったくたで電車で爆睡だった…。
そういう期間が何年も続いた…
そしてある時、父の話を聞かされた…
当時の医学では治せない病の話…。
11時間以上もかかった
大久保病院での大手術だったのに…。
…そんな父であったが、くじけなかった…
益々の生命力で世の中を車椅子で渡り歩いていた…。
そして決して音楽をやめなかった…
むしろ、音楽を人生として生きていた人だった。
父の心髄であるエネルギーを音楽に当てはめ…
日々、命を輝かせていた…
僕が小学生の頃、明治神宮会館で行われた
三笠宮殿下主催の催しで、最優秀賞を受賞した。

受賞の瞬間、僕は嬉しくて嬉しくて…
ステージ下まで駆け寄り、大きな声で、
「パパやったねッ」
と声をかけた…会場でたくさんの拍手が鳴り響く中
父は車椅子で僕の方に来て僕の手をとって…
父の瞳から涙がたくさんこぼれ落ちていた…
父の涙は色々な種類の涙だったに違いない…
…拍手がずっと鳴り響いていた…。
その時の様子を女性セブンの雑誌が取り上げたためかどうか…
おそらくその流れで、「TBS 奥さま8時半です」に出演した。
ハワイアンバンドをバックに、
2曲のハワイアンを熱唱していた…
父はかっちょよかった…


しかし、どうして、なぜか…
僕も、父と一緒に出演した。
正直なんでって思ったよ…。
幼かった僕は、スタジオの独特な空気に、
妙な緊張感を覚えていた…
大きなテレビカメラの横で
司会者アシスタントの宮崎総子さんが、
しっかりと僕の手を握ってくれていた。

とても優しく、
小学生の僕を気遣ってくれていた…。
前のコーナーを終えた大きな人が、
ポンッと僕の肩を叩き、楽屋の通路へ消えていった。
後で、岡田真澄さんだと父から聞いた。
もう一つ、面白い記憶がある。
出番待ちで緊張した僕は、
おどおどした足取りでトイレへ向かった。
そこで用を足していると、黒ぶち眼鏡の男性が、
これまた用を足すために隣の便器へ立った。
そして一言…
「あれっ? 誰の子供さん?」
一瞬、黒ぶち眼鏡の男性を見上げたが、
それが中本工事さんだと気づいた僕は、
半ズボンのチャックを上げ、
逃げるようにトイレを後にした。
ドリフターズというより、「8時だョ!全員集合」の
中本工事さんを隣に見上げて、びっくりして逃げた…
…っていう感じかな。
毎週楽しみに見ていた番組の中の人が
トイレで横に立っているんだもん、
はずかしいったら、ありゃしない。
済ました後だったので良かったけれど…。
その日は豪徳寺駅前まで、
TBSのキャデラックが送り迎えしてくれた…。
デカイ外車だった。
後部座席にチョコンと座ると、
外が見えにくい、ドアのへりに両手をかけ、
顔を半分覗かせる感じで、テレビ局まで外を眺めていた…。
そんな父との、あの日の思い出や風景は、
貴重な体験として、
…今でも鮮明に覚えている…。
とっても大事な、心の財(たから)です…。
後にも先にも、キャデラックに乗ったのは、
あれが最後だと思う。
若い頃の僕もまた、父の影響を受けるように、
ライブハウスでブルースハープとギターを抱え、
弾き語りをしていた。
ステージ前の薄暗い照明、開演前のざわめき…
マイクに触れた時の…少し冷たい感触…
小さなライブハウスだったけど、
本番が始まり、お客が入ると…
リハの時とPAがまったく違う感じに思えた…。
実際は変わってないんだけどね。
ライブ終了後に食べた、
マスターの作るカレーライスは絶品だった。
アルフィーさんとかも若かりしき頃、
このステージを踏んだとの…マスターの話に、
カレーの味のうまさが倍増した…。
ここのカレーは有名だったらしい…
あの上馬ガソリンアレイでのライブの記憶も、
永遠に心に刻まれている…。
気づけば僕も、そうやって音楽の中に
居場所を探していた。
たぶん、父と同じように…。
去年、父のために2曲作った。
1曲は、フォーク寄りの弾き語り…
そしてもう1曲が今回のインストゥルメンタルだ。
僕は素人だけれど作曲は自分なりに
独自のやり方で続けている…
ジャンルに関係なく、時間さえあれば、
音を拾い集めている、そっと心に…
まだまだ全然未熟だけれど…
いや、間違いなくこの命は誰かの色と同じだと…
いつも心に秘めている…
作曲は…創作は楽しいッ。
クリエイティブに時を刻むと
なんか心が救われるんだ…
そして去年、危篤との連絡が入り、エールを心に秘めて…。
曲を作り始めた…。
亡くなる数か月前、病室で再会した際、
僕は作った曲をヘッドフォンで父に聞かせた…。
意思の疎通はとれない。
それでも、それでも…それでもそれでも…
ヘッドホンに包まれながら、
静かに音を聴いている
小さくなった父を見て、
涙がこぼれた…。
ちょっと驚いたことがある。
この曲のクライマックス手前あたりで、
父の眼光が変化したことだ…。
僕は、それを見逃さなかった…。
帰りの松戸から代々木上原へ向かう
千代田線の車内で僕はその2曲を聞き返した…。
父との思い出にふけりながら、
涙をこらえるのが大変だった。
でも涙は、頬を流れ落ちた…
その一か月後、父は85年の人生を無事に終え
大宇宙へと帰っていった…
間違いなく、父親と母親の待つあの星へねッ…
父がよく弾き語りしていた『小さな竹の橋の下で』を…
YouTubeで流し…父との思い出をビールで飲みこんだ…
相棒だった父の大切なテナーウクレレは、
今、僕の部屋にある…。
ケースを開くと古い木の匂いが少しだけ残っている。
たまに砧公園へ行き、そのウクレレをつま弾く…。
そして、ふと思う…
このウクレレで、父はどんな景色を見ていたんだろう…
ってね…。
今の僕はパソコンと鍵盤に向かいながら、
必死に“音”を探している…
時代も、作り方も違う…。
でも、音楽だけは不思議なくらい途切れることはない…
宇宙を埋め尽くす勢いが如く…
過去~現在~未来へ~ と鳴り響く…。
そして、父との記憶も永遠に宇宙に響きわたる…
生きてこそ…
その言葉の意味を僕は今少しずつ理解し始めている…
そして…そっと、伝えます…。
「 あ り が と う 」
生きてこそ / 優しかったあなたにそっと捧ぐ…/ インスト ➡♪mp3
The sounds passed down through time
still live quietly inside me.
