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【自己紹介①】コンプレックスまみれの僕がサッカーで夢を叶え、5000万以上を稼いだ話(海外サッカー編)

こんにちは、かけちです。

今回は、
コンプレックスまみれで
努力しても報われなかった僕が、

サッカー選手になる夢を叶え、
5000万以上をネットで稼いだ話をまとめた

自己紹介記事を書いていきます。


3部作に分けて書いており、


1部作目は、
「コンプまみれで大学時代1試合も公式戦に出ていない僕が、海外プロサッカー選手になった話」

2部作目は、
「2年で11000円しか稼げなかった僕が、月100万円を超えた副業時代の話」

3部作目は、
「鬱にもなった僕が、5000万以上稼いだ話」

という構成になっています。


今の僕は、

1年間勤めていた会社を辞め、
独立して3年目(2026年8月現在)であり、

それなりに好き勝手自由に生活をしています。


主には、XやYouTubeなどSNSを運用しており、コンテンツ販売やマーケティングコンサルをやっています。

シーシャ屋のオーナーなどもしています。

最近はめっきりAI触ってます!楽しい。


とにかく「誰にも何にも縛られず自分の好き勝手自由に生きたい」という思いで、ここまで生きてきました。


ざっくり僕の経歴をまとめて書くとしたら、


・6歳から23歳まで17年間サッカー漬け

・元海外サッカー選手(ポルトガルで1年)

・心臓病で引退→帰国後営業マンとして就職

・会社員1年勤めながら副業で月100万超えて脱サラ

・脱サラ後3年で5000万円以上稼ぐ(SNSでコンテンツ販売・コンサル)

・シーシャ屋3店舗オーナー(下北沢2店舗・阿佐ヶ谷1店舗)

・YouTubeチャンネル登録者8200人

このような感じです。


小1からサッカーを始めて、ずっとサッカー小僧で、

大学もサッカーをガチでやって、
卒業後は海外でプロサッカー選手として

一応サッカーで飯を食っていた人間です。細々ですが。


23年間はサッカー漬けで、
海外ではお金はほぼもらえず苦しくかったけど、

「いつかサッカーで稼いだ金で豪遊するぞ!」と野望を持ちながら、
刺激的な日々を送っていました。



その頃から、ブログやXで情報発信は始めてました。


僕のサッカー人生は、
心臓病が見つかったことにより、
突如幕を閉じて引退することになるんですが、

その後は営業マンとして社会人デビューをして
セールスをずっとしてました。

ゴリゴリ売り込む型のセールス方針だったので、しんどかったしクレーム対応も鬼のようにありました。


正直すげー退屈で、
朝9時から夜19時過ぎまで
刺激のない会社員生活を送っていました。

生きてはいけるけど、

別に死ぬほどの苦しみはないけど、

安定した生活の確保はできるけど、

とにかく刺激がない日々。


別に理不尽なほど不自由ではないんだけど、
「このまま退屈で刺激のない人生がこの先もずっと続いていくのだろうか?」

「このまま死ぬまでこれで後悔ないのか?」

という漠然とした不安や恐怖。


節約のために朝はおにぎりを握り、
昼はそれを食べ、

唯一の楽しみといえば、
商談後のセブンの150円のコーヒー。


それなのに、別に好きでもない商品を毎日ゴリゴリセールスして「もう帰れ!」と言われたり、

「これどうなってるの!?お金返してよ!」
と施工した職人のせいなのに、

僕が夜11時までクレームを言われ、
頭を下げ続ける日もありました。


売ったのが僕なのは重々承知なんですけど、
「うるせえ、こっちもノルマがあんだよ」
と頭を下げながら思っていたりしました。


そんな時です。

僕は、SNSで稼ぐビジネスの存在を知りました。



それまでも海外にいる時から、ブログやWebライターや仮想通貨とかの副業はやっていました。


ただ、1年間ブログを100記事書いて
たったの1000円しか稼げなかった僕は、

「文章だけでこんなにお金稼げるのやべえ!!」

「俺も金稼ぎまくって人生変えてえ!!」

「会社なんてさっさと辞めてえ!!」


という感じで、
このSNSの世界に完全にのめり込んでいきました。


そこから、Xで情報発信を行い、
稼げない時期がまた1年ほどあったのですが、

これじゃダメだと思い、
4万円の教材を初めて買ったり、

30万円のコンサルを受けたり
55万円のスクールに入ったりして知識投資しました。


その甲斐あって、

残業ゴリゴリで休み週1の時もありながら、
副業で月100万とか稼げた
ので、
割といいほうだと思います。

そして、会社員始めて1年経ったくらいで脱サラをしました。

結局1年で1500万円近くを稼ぎました。


そこからさらに、
600万のコンサルを受けたりして、
翌年には2400万ほど売り上げを出したりしました。


誰にも縛られることなく、自分の好きなように好きなことをする生活を実現できて羨ましいと思われるかもしれません。

でも、周りを見れば上には上が当然いて、「自分はなんて雑魚なんだろう」と思う日々です。



と、ここまで気持ちよ〜く書いてきて一つわかったことがあります。


僕は、「自分の人生を自分で切り開いてきた」
と感じて生きてきたけど、

本当は自分の努力では何も成し得ていなくて、
人に助けられて人生をなんとか切り開いていけたということです。

本当にいい出会いのおかげで、
色々予測不能な人生になっています。


僕の努力は今思うと、
本当にことごとく実を結ばないことばかりでした。

そのくせコンプレックスも強く、
承認欲求の塊で、
プライドも高い人間です。

先に言っておけば、
本当は性格の捻じ曲がった人間です。

綺麗に見せるのが癖づいています。



元海外サッカー選手とか言ってますが、

大学時代は学年で唯一僕だけ
公式戦に出たことがないまま4年間を終えましたし、

プライドも高かったので、
チームメイトとも馴染めずいつもバカにされる存在でした。

別にサッカーを海外でしていただけであって、
すごいレベルですごいお金を
もらっていたわけでもありません。


小学生の頃は、両親がよく喧嘩をしていて、

罵倒が飛び交ったり、母親がキレてモノを投げてそれが僕の頭上を飛び交っていたり、

キレて壁に穴が開きまくったりしていました。

そこから僕は人の顔色を伺うようになり、
コンプレックスも承認欲求も強くなっていきました。


これは自分のせいですが、

自分の浅はかさ故に
多くの人が僕の元を去っていったり、
批判が多く出たりもありました。


プライドも異常に高かったので、

自分がビジネスをしている上で、
他の人が売れてるのが気に食わなくて、

1円も知識投資もしないで時間を無駄にしたりしてます。


ただ、心入れ替えて、
100万近くかけて知識を学び、

結果が出て1年で脱サラできたのに、
そこから鬱になったりもしました。

そのせいで多くの人に迷惑もかけました。


脱サラして稼げるようになってから、
口座残高が0にもなりかけたこともありました。

理由は簡単で、
知識を入れるのを怠ったからです。

これまでの自分は、
自分流にやってきた結果全くうまくいかず、
結果を出している人に助けられて結果を出してきたのに、

少し稼げたことによって
「もう俺なら1人で稼げるっしょ」

と調子に乗って知識を入れるのを怠ってしまいました。



自己紹介を書く上で、

僕の手で切り開いたシンデレラストーリーを
気持ちよく承認欲求モリモリで書こうと思っていましたが、

素直に正直に汚いところも全て書いていきます。



これを書くにあたって、

AIに僕の人生の話を入れて壁打ちしていたら、
AIにも言われました。
👇

AIは共通項を見つけるの得意

簡単に言えば、
「お前は1人では何も成し得てないぞ」と。

「周りの人間のおかげだぞ」と。


僕は、すぐ自惚れてしまい

自分1人でいける!
全部自分のおかげだ!

と思ってしまうのを
AIにも見抜かれていました。


油断すると承認欲求が出てしまうので、

それも認めて全部さらけだそうという記事にします。


前置きが長くなりましたが、、

こんな僕でもなんとか人生を好転できていってるので、ぜひ何かの参考や勇気になったら嬉しいです。


僕の発信や生き方の中で大切にしている言葉で、

「Life is contents」

というのがあります。

その文字通り、
人生全てがコンテンツになるという意味で、

自分の成功も失敗も
全て価値のあるものになると思っています。


むしろ人の失敗こそ一番学びになるので、
ありのままの自分を書いていこうと思います。

それでは最後までお付き合いください。



家庭環境でコンプレックスを抱えた小学生時代


小学校低学年の時は、
妹が病気がちで入院をしていたので、
親が家にいることは少なく

完全におじいちゃんおばあちゃんっ子でした。


でも、僕が小1の時に妹は亡くなりました。

葬式で火葬の直前、「燃やさないで!燃やさないで!」と泣き叫んでいたのを今でも覚えています。


そこからは両親が家にいることも増えました。

けど、その代わり両親の喧嘩が増えたように思います。


今ならわかるけど、
両親はすごく大変な毎日だったんだろうなと。

妹の介護とか、
僕の面倒も見ないといけないし、
その上で仕事も当然ある。

ストレスは本当に溜まっていたと思います。


けど幼少期の僕は、
当然そんな背景はわからないので、

「どうしてそんなに喧嘩をするの…」
と黙って見ていることしかできませんでした。


喧嘩もただの口論では収まらず、
それは凄まじいモノで、

自分の頭上をモノがバンバン飛んでいきます。

母親が身の回りにあるものを
手当たり次第に投げるので、

リモコンやら、教科書やら、

終いにはハサミが飛んでいたこともありました。



喧嘩というより災害に近いです。


母が投げたモノは、
家のすりガラスの扉にあたり、
「ガッシャーン!」というガラスの音が鳴り響き、

壁をイライラで蹴り回っていたので、
いくつも穴が空いていました。

今でもデカい音や声は苦手です。


そこには普段は優しい声の両親が
僕の知らない甲高い声と野太い声で
怒鳴りあっていて、

僕はそれを黙ってみていることしかできなかったです。


そして、いつも最後は、
父が玄関のドアを思い切り閉めて
バカでかい音と共に家を出ていく。

そこから父は家の電気が全て消えた
夜の11時とかに家に帰ってくる生活です。

わかりやすく半別居状態でしたね。


でもね仲直りもするんですよ。

僕はそれが嬉しかった。

また3人でご飯を食べるのが嬉しかった。


でもまたすぐに喧嘩が起きる。

怒鳴り合い。

モノを投げる。

壁を蹴る。


ついには、その物音にさすがに黙っておられず、おじいちゃんおばあちゃんが出てきて喧嘩を止める。

でも、母がそのおじいちゃんおばあちゃんをバカでかい声で怒鳴り散らかす。

普段は怒らないおじいちゃんが見たこともない鬼の形相でキレる。

おばあちゃんは悲しそうにしている。

父はそれを止めることもなく、
またバカでかい音を立て
玄関の扉を閉めて出ていく。

勢いが強すぎて玄関の扉は閉まりきっていない。



もう修羅場だった。


でも僕がその時感じていたのは、
自分が喧嘩を止められなかった罪悪感です。

僕はその修羅場をみているだけで、
おじいちゃんおばあちゃんにキレた両親に怒りが湧いても、

何も言えなかった。

怖かったから。


結局一度も喧嘩をとめることはできなかったんですよね。

両親と3人の思い出も
正直喧嘩の記憶しかないです。


そこからかもしれないです。

「自分には価値がない人間だ」

と無意識に思うようになりました。


人間関係が壊れないように、
怒られないようにビクビクしながら生きたり、

人の顔色ばかり伺ったり、

コンプレックスや承認欲求が高くなったのかなと思います。

まあ言い訳でしかないんですが。


自分の素を出して、
価値がないと悟られるのが
とにかく怖くなりました。



17年続けることになるサッカーをスタート


家庭状況はまあそんな感じではあったんですが、

両親は仲悪くとも、
僕にはちゃんと愛情をかけて育ててくれて、

僕は小学1年生の頃からサッカーを始めて、
そこから23歳まで、
17年間サッカーをやらせてもらいました。


小学生の時から、
地元のチームの中では割と上手い存在で、
結構王様っぽい感じでサッカーやってましたね。


小5で初めて少し強いチームに行って、
初めての挫折をしたりもしましたが、

それも当時の鬼暴力監督のおかげで、

努力を続けてチームで10番をつけたりして
県でも準優勝くらいには強くなれました。


そこから高校でも県内でサッカーが強いところへ行き、朝から晩までサッカーづくしでしたね。

高2の時には、サッカーやってる人ならわかる冬の選手権で全国大会にも出て、全国ベスト16とかにもなってます。

僕は、メンバーには入っていて、
15分くらい全国大会のピッチで試合も経験しました。


そして、
そのまま3年生は引退し、


高3になった時、
半ば消去法で僕がキャプテンになりました。


正直僕は、チームを鼓舞して引っ張るようなタイプではなく、カリスマ性もなかったです。

ただ、少し試合に出ていたのと、
真面目だったから、
本当に消去法という感じで選ばれました。


このキャプテンの1年間がマジで地獄でしたね。



一番しんどいのが
去年のスーパーな3年生と比較されるんですよ。

んで、僕らの代は結構弱かった。

僕も、みんなを引っ張っていくカリスマ性なんて
ほぼ皆無だったから部員に文句ばっかり言われ、
後輩にも舐められ、その重圧から試合では全くうまくいかず、

しまいには
キャプテンなのに
ベンチで試合を見てるだけの日々が続きました。



去年のキャプテンも
とんでもないカリスマ性があったので、
めちゃくちゃ比較されました。

「去年のあいつやったらこんなこと絶対なかったぞ、それに比べてお前は…」

と監督や、同級生や、
後輩からも舐められるほど。



「もうやめてくれ、なんでもいいから早く、この1年が終わってくれ。」

ってガチで思ってましたね。
クソキャプテンです。

ストレスでかは分からないですが盲腸にもなりました。

本当に不甲斐ないキャプテンだったと思います。


でも、逃げずに頑張りました。

まあ逃げる勇気がなかっただけですが。


そんなこんなで
最後の大会、冬の選手権。

僕たちのチームは、
当時県内無敗だった
優勝候補の高校をそこで初めて倒し、

勝ち上がって県大会の決勝戦。


チームは惜しくも敗れたんですけど、
最後にスーパーゴールを決めれました。


さらに、この年の県内のベスト11にも選ばれました。

あきらめずに逃げなければ最後には
実るんだなとその時学びました。

監督にも、苦しんで苦しんだけど、
「最後はお前のチームになったな。」って言ってもらえました。

めっちゃ嬉しかったですね。


この高校サッカーでの
キャプテンの経験はマジで宝でした。

責任もって逃げずに何かをやり切るって
当時はクソほど辛いけど、

めっちゃ思い出にも残ってるし経験値として残ってます。


辛いとまじでその時は逃げたくなるけど、

今思い返すと人生において
辛い経験がなかったとしたら、

一体自分はどんな怠惰で何もない人間に
なってしまっていたんだろうと思うと怖くなります。


理不尽にもきっと耐えられないだろうなと。

そうなれば得られるものも絶対に少なくなるだろうし。


文句を言って辞めるのは簡単だけど、
逃げずに必死に食らいつくと得られるものが多い

と学びましたね。


ただ、今思うともっと早くから相談をして解決策を考えたり、

理不尽に耐えるだけでなく
跳ね返してよりよくする方法を
模索すべきだったなとは思います。



まあでも、終わり良ければすべてよし!

って感じで、
大学でもサッカーを続けるんですが、

大学ではもっと大きなコンプレックスを抱くことになります。



二度と戻りたくないコンプレックスまみれの大学時代


大学時代には、
今いくら積まれても戻りたくないですね。

ホントにストレートに言うなら、
「早く4年間が終われ」と願っていました。

そのくらい絶望でした。

高3の時とはまた違うしんどさでした。


ぶっちゃけスポーツしてた方ならわかると思いますが、

サッカーの実力が
そのまま人間関係の序列になるんですよね。


僕はマジで底辺でした。


県大会準優勝している高校のキャプテンもして、決勝でゴールも決めて、県ベストイレブンにも選ばれたので、

それなりに自信を持ってたんですよね。

でも、そんなん何の意味もないとすぐにわからされました。


関東でも上位のレベルの大学にいきました。

同級生にも後輩にも先輩にも
何人もJリーガーがいます。


謙遜とかでも何でもなく
僕のサッカーの実力はマジでカスでした。


「え、お前それで県準優勝なの?〇〇県は楽でいいなw」

「お前おると勝てへんから辞めてくれ。」

「下手すぎ。迷惑やから消えてくれ。」


まあひどく言われました。


でも言い返せる実力も、
コミュ力もないから何も言い返せない。

「こいつさえいなけりゃ・・・」
ってずっと周りのせいにしてましたね。


まあでも、当然で

「え?こいつが高校の時ベンチなの?」ってやつばかりで。

高校時代に涙をのんできた人らだから、
僕みたいな実力のやつが高校でいい思いしてたら
むかつくと思います。


でも、サッカーは
それでもやっぱり必死に頑張りました。

小学生の頃から、
サッカーノートを書いていて、

「プロサッカー選手になる」

とだけはずっと大学時代も書き続けていました。



自主練も強制されるでもなく
メチャクチャやったし、

練習も手を抜かずに毎日どうにか上手くなりたいと思ってやってました。


・・

・・


ただ、結局最後まで
公式戦には1試合も出られませんでした。

1試合も出てないのは学年で僕だけでした。

だいぶ精神えぐられました。


マンガみたいに最後は報われると思ったけど、
一向に報われる日は来ず。


当然、1軍に上がったことすら一度もないです。

あ、唯一出た公式戦が、
引退試合でお情けの出場。

両親や高校時代の友人には恥ずかしくて、
情けなくて言えませんでしたね。

よく4年間辞めなかったな。

と思うくらいです。マジでw


結局、努力は全て結ばれるわけではない。

というか、
自分では努力と思っていたものは、
ただの自己満であって努力とは呼ばない。

今ならわかるけど、当時は分からなかったですね。


「全て周りが悪いんだ。この環境から出れば俺はいける。」

そう思っていました。

最後までコンプまみれで、プライドの塊でした。



コンプまみれの人生を変えるキッカケとなる、後輩の何気ない言葉


そんなこんなで就活の時期が来るんですけど、
僕も例に倣って就活を始めました。

特にやりたいこともなく、
なんとなくで面接を受けたりしてましたね。


そんな時に、大きな転機となるきっかけがありました。


大学に高校サッカー部時代の後輩が入ってきたんですよ。
サッカー部にも入ってました。

実家のような安心感があって仲よく遊んでたんですが、
そいつの言葉が僕の人生を変えたキッカケになったんです。



そいつが、大学入って半年くらいで急に
「僕サッカー部辞めて音楽やりますわ。」
って言いだしました。

「は???」って思い理由を聞きました。

すると、

「音楽がやりたいからです。」

と一言。

ブルージャイアント


そいつの目がもう異様にキラキラしてたのを
今でも覚えてます。


僕はその時、

脳死で就活をしてたので
そいつの決断に対して嫉妬というか、
羨ましいというか、
俺も自分の人生を生きたいというか。

猛烈に胸の高ぶりと後悔を感じました。


「あれ、俺って今なにしてんだろ」って。


僕の本当の夢は
「プロサッカー選手」だったんですよね。

ずっとずっと、下手くそでもサッカー選手になりたい
という気持ちだけは捨てきれずにやってきました。

サッカーノートにも書き続けていたので、
自分の胸にこべりついて離れない夢です。


大学サッカーまでやった人も9割は、

サッカー選手なんかにはなれないと悟って
就活を頑張るのが普通です。

僕は大学で1試合も出ていないので、
当然のことながらプロになれる道は一切ありません。

当たり前に就職です。


でも、

「本当にこれで後悔しないか。」

「このまま何もできなかった自分のまま終わってもいいのか。」

「やりたくもないことをして生きる人生でいいのか。」

そういう思いが沸々と湧いてきました。

書き続けるって大事だなと思います。


僕が好きだったアニメがあります。

宇宙兄弟です。

その宇宙兄弟で、
シャロンという女性が、
主人公のムッタにいった言葉があります。


迷ったら「どっちが正しいか」じゃなく、

「どっちが楽しいか」で決めなさい。


この言葉が僕の心をよぎりました。



そして僕は、
その後輩の発言の時に決意しました。

就職はやめて
自分がずっと夢見ていた
サッカー選手に挑戦しよう

と。

この後輩の出会いと決意がなければ
多分今の僕はいないです。



とはいえ、実力がないので、
色々調べて考えました。

まず国内のJリーグには
実力的に絶対に無理だと諦めました。


他にも、
仕事をしながらサッカーをして生活するという道もありましたが、

あくまで
「サッカーで飯を食う」
にこだわりたかったんですよね。

ただのプライドですw

バイトしながらサッカーやるくらいだったら
リアルに価値ないくらいに思ってました。


そしたら、

なんと海外にはレベルが低くても
お金がもらえて生活できる国がある

ということがわかりました。


そこで僕は、就活を完全にやめて海外サッカー選手になるための努力をスタート。

まず、この腐り切った
コンプレックスまみれの自分を変えるために

「メンタルコーチング」というものを受けます。

6ヶ月で25万円くらい。


コロナかなんかで貰えた支援金をここにぶち込みました。

めちゃくちゃデカい買い物でした。


でも、それくらい本気にならないと
プロサッカー選手にはなれないと
腹を括ったのがこの投資でした。

そのメンタルコーチと一緒に目標を立てたんですよね。


【2022年2月1日までにプロになってサッカーだけで生活できるようになる】


という目標です。


これを立てたのは確か、
2020年の8月あたり。

なので、1年半後くらいまでに達成するべく立てました。


そして、この期限までに達成できなかったらサッカーは諦めると決めました。


覚悟を決めるために周りにも言いましたね。

当然就活している同級生みんなからは無理だと笑われました。

応援してくれる人もいたはいたんですが、
多分「無理だろ」って心の中では思ってたと思います。

だって1試合も公式戦に出てないから、そりゃそうです。

こんな才能のないやつは
さっさと諦めた方が身のためで、
僕も同じように思うと思います。


それでも僕はなぜかサッカー選手になれると思ってました。

マジの根拠なき自信です。


今思うと、後輩の言葉が
僕の人生を大きく変えてくれる
きっかけになりましたね。

「音楽をやりたいからやる。」



この何気ない一言が
僕を奮い立たせてくれました。

いつも僕は誰かに支えられている人生です。


そうして、僕の海外プロサッカー選手挑戦編へと入ります。



人生が180度変わった海外サッカー選手挑戦編


正直、書きたいことが死ぬほどありすぎます。

毎日がイベントみたいな。

それくらい刺激的でした。



僕は、大学卒業前の1月に
海外挑戦のために渡航することに決めました。

海外でサッカー選手になるには、

基本的には「エージェント」というものを使い、
チームを紹介してもらってトライアウトを受ける形になります。


合格すればその場でプロ契約。

不合格なら即帰国、
という超絶サバイバル。


帰国後には新卒カードを蹴ったニート
というハンデのオマケ付き。

こんなに恐ろしく
天国か地獄の挑戦はマジでないです。


そして年が明けた1月、僕はラトビアに旅経ちました。

僕はこの飛行機からの景色が好きです。

本当に、ものすごく、
不安で不安で堪らなかった
飛行機の中だったんですが、

この景色を見たら、なんか人がアリのように見えて、

自分の悩みはなんて
ちっぽけなんだろうと思えたからです。



ということで、ラトビアに到着。


完全に単身での飛び込みです。

英語も喋れません。終わりです。


ただ、海外挑戦にあたって、同じく日本人が一緒に挑戦するということで空港から一緒にいきました。

その日本人との出会いが僕の人生を大きく変えました。


なんというか、

漫画の世界から飛び出してきたような
ネジのぶっ飛んだ超絶ポジティブ人間でした。

そいつはナルトが好きで、
まさにナルトみたいなやつでした。

バカだけど、熱い信念があって
決して弱音は吐かず
常に目の前のことを楽しんでワクワクしている人間。

どんな人にも明るく笑顔で、
たぶん後にも先にも
こんな奴と出会うことはないかもです。


そいつがぶっ飛んでるのを
一発で理解できるエピソードがあって、

そいつは小学校の時にスペインに
サッカー留学をしたらしいんですよ。

そこからずーーーっと海外でサッカーをしていて、
小学校の義務教育も受けてないような奴でした。

幼卒。

ありえなくないすか?


しかもその留学理由が、
「スペインがワールドカップで優勝したから」って。

スペイン全盛期

ぶっ飛びすぎでしょw


普通そんな思考にはならん。
スペインバカです。

彼は、英語はかなり喋れて
めちゃくちゃ頼りになりました。


そんな感じで二人でテスト会場の現場に向かいました。



そこは、一言で言うと、
極限のサバイバルゲームといった感じでした。

僕と同じように、他の国からいろんな人がテストを受けに来てたんです。

10人くらいかな。

1週間練習に帯同して、週末の練習試合に参加して合否を決めるといった感じでした。


でも、翌日また練習に参加すると
違和感を感じるんですよ。

「あれ?昨日いたはずの奴が今日いない・・・?」って。

翌日また行くと、
居なくなっててさらに新しいテスト生が来てる。

そう。

極限のサバイバルゲームです。


明日は自分が居なくなるかもしれない。

継続or帰国。


ヒリヒリってもんじゃないすね。
触れば大やけどの激熱サバイバルでした。

そんな状況でも、スペインバカは
「刺激的で最高おおおおおお」とか言ってました。

そうなるとなんか不思議なもんで僕も、
刺激的な毎日にワクワクした気持ちも芽生えてきました。


結局3週間くらいテスト期間があったんですが、

結果は、、、

不合格でした。


スペインバカも一緒に不合格でした。


絶望でしたね。

「もう終わりだ…出遅れたニートか…」って絶望と、


あとは、

「まあ、挑戦したしもうやりきったかな。いい思い出だったな」って

自分を肯定する感情の2つが流れ込んできました。


もう当然帰るしかないので、
両親にも「落ちたから帰る」
とそう伝えました。

「お疲れ様。頑張ったね。気をつけて帰ってきてね。」

と優しく返してくれました。



でも、ここでスペインバカは何て言ったと思います?

・・

・・

「飛び込みで他のチーム受けに行こうぜ!」

って言ったんですよ。



は????ですよね。
そんなん漫画の中の話でしょって。

僕は固まりました。


そしたら、僕に
「かけちも行くよな!」って言ってきました。

僕は二つ返事で「俺もいく!!」って言いました。


そう。
僕は流されやすい人間なのです。

本当に良くも悪くも。


ただ、この決断が後に
僕の人生をさらに180度変えることになります。



まず、テストに落ちたことで
「翌日には家を出て行ってくれ」とチームに言われたので、
一瞬にして家なき子。

そして金もないので、激安ホテル探しです。

1月のラトビアは−20℃の極寒です。

地獄。


雪の中スーツケースを転がしていたら、

「Japanese Style」
っていう日本人向けっぽいホテルで、

しかも一泊300円とかで泊まれるところを見つけたんです。

神!!!!

って2人で叫びました。


そしたら実態は、
一言で言えば「ヤク中ホテル」です。

明らかに目がイッた人が僕たちに薬くれって話しかけてきました。


怖すぎんだろって思って部屋にこもったんですが、
なんかギリギリWi-Fiが届かなくて何も出来ない。

結局共有スペースで震えながら
次のチーム探しを開始しました。

たぶん3チームくらい飛び込みしました。


でも結局全部テストすら受けさせてもらえませんでしたね


流石に落ち込む・・・かと思いきや
どんな時もポジティブ。

新たに探し始めました。


その最中も一泊1000円くらいの
ホテルで泊まってたんですが、

お湯もコンロもなくてあったかいご飯が食べれなかったです。

1つ50円くらいの長いフランスパン的なのを買って、そこにチョコをはさんだり、ハムをはさんだりして毎日激安生活してました。

毎日何をパンに挟むかを考える生活でした。

やっぱこういう辛かった記憶ばっかり残ってます。


でも、流石にマジで寒くて、
死ぬほどあったかいご飯が食べた過ぎて
現地のラトビア人にナンパしました。

そしたらなんか仲良くなれて、「ご飯食べてない」ことを説明したらなんと作ってホテルまで持ってきてくれました。


これ。⇧

冗談抜きで人生で一番うまかったです。


じゃが芋と肉のよー分からんやつだけど、
久々にあったかい飯食ったら震えました。

人間極限状態になると、
何にも怖くなくなるんだなって思いましたね。


・・

・・


そんなこんなでラトビアでは結局何の成果も得られずに、

隣のリトアニアって国にテストを受けれるチームがあるみたいでそこに行きました。

この時すでに、
1か月くらいは経ってましたかね。


リトアニアでも
マジで色んなことがあったんですが、

結局3チームぐらい受けて1つも合格しませんでした。

この時点で入国して2か月ほど経っていて、もうお金もやれることも万事尽きて帰国しました。


ただ、不思議と気分は晴れやかでしたね。

「もう一回海外挑戦しよう」
と決めて帰国したからです。


半年バイトとサッカーしながら
また挑戦しようと決めました。


僕が目標に立てた期限もまだ先だったし。


この2か月で僕は強烈な体験をしました。
たった2か月ですよ。


この2ヵ月で「失敗しても死なない」って学びました。

これってシンプルだけど
僕の中で人生が少しイージーになりました。

人生を賭ける様な挑戦って価値が高いなって。


でも、これも全部、
スペインバカの日本人との出会いのおかげでした。

絶対に僕だけだったら
あの時諦めて帰国してました。

「努力した。」

「もうやれることはやった。」

と確実に諦めていた。


やった感のある努力だけでは実らない。

僕を導いてくれたこの人との出会いと、
環境があったからこそ学べたことが死ぬほどありました。

少しだけ成長できました。




ってことでこのあと僕は帰国後、

ポルトガルに渡って再度挑戦をすることになります。



天国と地獄を味わったポルトガルの1年


今回は、完全に自分1人の挑戦でした。


日本にいた時に行っていたサッカーチームにポルトガルのチームを紹介できる人がたまたまいて、その伝手で行きました。


ポルトガル語なんて当然知らないので、
僕は、「数字」と「挨拶」だけをとりあえず覚えて入国。


1、2、3!!

おはよう!こんにちは!ありがとう!!!

の言葉で最初生活していました。


前の2ヶ月の海外経験を通して、
少しだけ海外生活に慣れている自分がいて驚きです。

あんなにビビリで顔色伺って生きてきたのに。

人間怖いことも続けてれば慣れるものだなと思いました。


まあ言語は通じなくても
サッカーは基本世界共通なので、
上手けりゃ全部解決しますからね。


ただ、ぶっちゃけ怖かったです。

渡航前に渡されていた写真がこんな感じで、
明らかに強そうで正直心臓バクバクでした。


ただ、いざいってみるとマジで大したことないんですよね。

190cmとかある黒人もいたんですけど、
マジでデカいだけみたいな。

中身を知らないと怖いけど、
いざ中に入れば大したことない

ってことが本当にたくさんありました。


そこでも、
2週間ほどチームに帯同して、手応えも良く、

今回のテストは無事に合格しました。



ポルトガルの5部リーグです。

正直、大学時代のサッカー部のやつらの方が10倍は上手いです。

リアルに同級生の誰が行っても受かると思います。

でも、一応、家と食事はついて、
お小遣い程度のお金をもらえるので
サッカーだけで生きていけます。

そんな環境でした。さすがポルトガル。


契約書にもサインしました。

あなたはプロだよ。おめでとう。頑張ろう。

と。監督にも言われました。

嬉しかったですね。

Professional soccer player

と書いてありました。



ただ、海外というのは非常に適当かつ、
契約が複雑で、
僕の選手登録がなかなか成立しませんでした。

結局、半年くらい僕は公式戦に出られなかったです。

お金ももらえないし、
俺は何をしにきているんだろうと。

それでも、両親の助けも得ながら
なんとか半年耐えましたね。


チームメイトはブラジル人が多かったです。

ブラジル人と5人部屋で寮生活みたいな感じでした。


ブラジル人は最初僕にボールを回してくれませんでした。

「海外行くと日本人は舐められてパスをくれない」
みたいに聞いていたけど、
本当にくれないんだなと思いましたね。

しかも、それは、嫌がらせとかではなく、

本当に勝ちたいから、信用できない日本人にはボールをパスしない、というのが伝わってきたんで余計にムカつきました。


こいつらからパスをもらうには
自分の存在をアピールするしかないと
必死に結果にこだわってプレーしました。

サッカー用語だけはちゃんと覚えて、
必死に指示や要求を繰り返し、

時には仲間からボールを奪ってでも自分を出しました。


そうすると段々認められていくのがわかるんですよね。

マジでパスが回ってくるようになった。


ここでも学びだらけでしたね。

結局、人の力を借りることは大事だけど、
最後の最後は自分のことは誰も助けてくれない。

理不尽も全部最後は
自分の力で跳ね返して解決するしかないんだと。

そんなことを学びました。



そんなこんなで、ついに冬になり初の公式戦です。

僕のデビュー戦。


僕はかなり期待されて試合に臨みました。

結果、大やらかしのボロッボロ。

正直、ド緊張してたんですよ。
メンタル激弱でした。

あれだけ、「メンタルコーチング受けても結局ダメか」って思いましたね。

そのあとの数試合もパッとせず、
練習ではできるプレーが試合で出来ないんです。


相当落ち込みました。

てか、普通に泣いたし、
泣きながら母に電話もしました。

「帰りたいよう・・・」って。

クソ恥ずかしいですが、
弱音はきました。


母も、

「辛かったらいつでも帰ってきていいよ」

と優しく言ってくれました。


でも、僕を踏みとどまらせたのは、
立てた目標があったからです。



何とか踏ん張って
もう一度メンタルと向き合ったんですよね。

結論、「思い込み」をしました。

これです↓


自分はメンタルが強い。
自分はメンタルが強い。
自分はメンタルが強い。


思い込みとか言霊って、
舐めてますが最強なんですよ。

毎日僕は鏡の前で唱え続けました。


人って、自分のメンタルが弱いと感じるのって
全部思い込みでしかないんです。

メンタルが強そうに見えるあの人も、
実は思い込みで隠しているだけかもしれない。

いいほうに思い込むと、
自然とそういう人間であろうと脳が動きます。

逆に悪いほうに思い込むと、
悪いほうに行動しちゃうんですよね。

面白いです。


そしたら、
どんどん試合で活躍できるようになって
ついに初ゴールを決めれました。

めっちゃ見にくいけど動画です


運も良く、
僕自身も全試合にフル出場して、
チームもリーグ優勝まであと一勝

というところでした。



僕は試合の後に突然過呼吸になって、
病院に運ばれました。


そしてそのまま、医者に呼び出されます。

そこで、何やらツラツラと医者が喋ってます。

僕は、ブラジル人がチームメイトに多くて、
「ブラジルポルトガル語」を学んでいたんですよ。

でも、ここはポルトガルの病院で
「ポルトガルポルトガル語」を喋ってきて、
全然聞き取れないんですよね。


でも、ある単語だけは聞き取れたんです。

「Voce nao pode jogar futebol」

日本語で、

「あなたはサッカーが出来ません。」

・・

・・

「は??何言ってんだこいつ」って思って聴き返しました。

「nao posso jogar futebol?」

「僕はサッカーが出来ない??」

すると、

「Sin.」

「そうだ。」

って。



皮肉にも一番聞き取りたくない言葉が聞き取れました。

そう。
僕は、何やら難病指定の心臓病の疑いがあるらしいと。

後でググると、スポーツ選手の突然死の死因ナンバーワンの病気と書いてありました。


キャプテン翼の三杉くんみたいな展開だなと思いました。

どこか他人事みたいで
全然実感が湧かなかったですね。


そのあと、チームの監督とその奥さんが病院に来てくれて、医者が説明をしていました。

その監督と奥さんは話を聞いた後、
僕をギュッと抱きしめました。

そこで僕は大泣きしました。
実感がわいたんですかね。

その後、帰って一緒に食べたラザニアの味は決して忘れません。


そんなわけで、
そのまま僕は残り三試合を残してサッカー強制終了。


次の試合は、勝てば優勝の大一番でした。

僕は、スタンドから見ることしかできなかったです。

本当にマンガみたいだなあとか思ってました。


悔しくて悔しくてたまらなかったです。

でも、その試合でチームメイトがゴールを決めたときに、僕のユニフォームをスタンドの僕に掲げるゴールパフォーマンスをしてくれました。


もう、大号泣。

ウワンウワン泣きました。

サポーターのみんなと一緒になってウワンウワン。

そしてチームはそのまま優勝。

それと一緒に僕のサッカー人生も幕を閉じました。

優勝後の一枚


本当に、
こっから俺のサッカー人生!

というところでしたね。


努力ってつくづく報われないなと。

何で俺なんだろうと思いました。


でも、この挑戦は確実に僕が死ぬ時に思い出す記憶として刻まれました。

挑戦したからこそこの貴重な経験をできたし。


思い出すのは、

楽だった、ストレスのなかった記憶じゃなくて、こういう記憶なんだろうなと身に沁みました。


最初の方にも書いたんですが、

辛いとまじでその時は逃げたくなる。

でも、今思い返すと人生において
辛い経験がなかったとしたら、

一体自分はどんな怠惰で何もない人間に
なってしまっていたんだろうと思うと怖くなります。

本当にいろんな人のおかげでこの経験ができて感謝です。


一応、幼少期からの夢は叶え、第二の人生のスタートです。


ということで、
日本へ帰国し、僕は就活を始めました。

第二の人生に希望を抱いていましたが、
そんな希望はすぐに打ち砕かれることになり、

副業を本気で取り組むことになります。

ただ、それも順風満帆ではありませんでした。


「第二部:会社員副業挑戦編」へ続く

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