「ポピュリズムは何を起こすのか?」│お金をかけない選挙の会
「ポピュリズム」をもっとわかりやすく
皆さん、こんばんは。お金をかけない選挙の会です。
今回のテーマは「ポピュリズムは何を起こすのか?」です。
前回は、「ポピュリズム」の記事でしたが、かなり長くなった上、全体のまとまりが、わかりにくくなってしまいました。
そこで、今回は、前回の記事の内容を踏まえて、その要点をまとめます。
まず、前回の記事で、わかったことを、箇条書きにしましょう。
1."大衆"とは、世に名を知られていない、大勢の人々のことである。
2.「ポピュリズム」には「大衆主義」と"大衆迎合"、2つの意味がある。
3.「大衆主義」とは、"大衆"の利益を最大化することを
目指す、「政治思想」のひとつである。
4."大衆迎合"とは、みんなが納得してしまう"政治手法"のことである。
ここからは、「ポピュリズム」の2つの意味、すなわち、「政治思想」としての「大衆主義」と、"政治手法"としての"大衆迎合"の、それぞれについて、まとめていきます。
「大衆主義」と「反"エリート"」
まず、「大衆主義」についてです。
「政治思想」としての「大衆主義」は、"大衆"の利益を最大化することを目指しています。
そして、その前提には、社会を支えている"大衆"には、社会を変える力があるはずだ、という確信があります。
だからこそ、"大衆"の力で、"大衆"のための政治を実現しよう、という「政治思想」が生まれ、一定の支持を得ているんです。
一方で、「大衆主義」は「反"エリート"」という思想的傾向も持ち合わせています。
「大衆主義」の主張を裏返してみると、今の社会は"大衆"ではない人たちに運営されていて、"大衆"の利益は、彼らに奪われている、ということになります。
この、今の社会を運営している、"大衆"ではない人たち、というのが"エリート"であり、彼ら"エリート"から、権力を取り上げて、利益を分配しよう、という考えに至るわけです。
ところで、この"エリート"の内容は、"国"によって違います。
ある"国"では、独立前の旧宗主国に留学して、帰国した人を"エリート"とみなします。
別の"国"では、軍の高官を"エリート"とみなします。
同じ"国"の中でも、"エリート"が変わることがあります。
アメリカ合衆国では、東部の"エリート"は、伝統校出身のエスタブリッシュメント、西部の"エリート"は、理系先端校出身のリベラル、といった感じです。
その"国"の政治制度によっても変わります。
もし、その"国"が共産国なら、"エリート"は、共産党幹部です。
一方、その"国"が自由主義諸国なら、"エリート"は、政官財の有力者、ということになります。
つまり、「大衆主義」は、今、社会を動かしている、有力な"エリート"を敵視する傾向が強い、ということです。
アメリカ合衆国の大統領選挙では、トランプ氏が、民主党寄りのリベラル"エリート"を批判し、支持を集めました。
その一方で、バーニー・サンダース氏は、ウォール街に代表される、東部エスタブリッシュメントを批判し、学生の支持を集めていました。
彼らはどちらも、"政治手法"ではなく、「政治思想」として、"エリート"を批判し、"エリート"は"大衆"によって置き換えることができる、と主張しています。
それが具体的な形になったのが、第2期トランプ政権の「プロジェクト2025」であり、「DOGE」であり、「ICE」であるわけです。
このように、「大衆主義」は、"大衆"の同質性を強調するあまり、"大衆"と違い過ぎる"エリート"に対して、過剰な敵視をする傾向が、強く出てしまいます。
そのため、普段なら、「排除ではなく共存を」と素直に言える人が、突然「奴らを社会から叩き出せ!」なんて言い出してしまうんです。
要は、"大衆"同士は共存できても、敵である"エリート"とは共存できない、というわけです。
「大衆主義」とは、要求すること
加えて、「大衆主義」には、「政治思想」として、少し特殊なところがあります。
それは、他の「政治思想」と、簡単にくっつけられる、ということです。
例えば、「自由主義」と「大衆主義」をくっつけることもできますが、「全体主義」と「大衆主義」をくっつけることもできます。
他には、「共産主義」や「社会主義」とくっつけることもできますが、「保守主義」や「ファシズム」ともくっつけることができます。
要は、「大衆主義」には「政治思想」としての"こだわり"がないんです。
「大衆主義」がくっつくことのできない「政治思想」もあります。
それは、「絶対君主制」とか、「貴族寡頭制」のような、一部の権力者が支配する政治制度を認める「政治思想」です。
「大衆主義」は、「民主主義」がなければ、成立しない「政治思想」ですので、「民主主義」を否定する「政治思想」とは、一緒にやっていけない、という"こだわり"を持っています。
逆に言えば、「民主主義」を認めている限り、どんな「政治思想」とも、一緒にやっていけるわけです。
そして、「共産主義」や「ファシズム」、「権威主義」のような、「全体主義」の「政治思想」であっても、最初に権力を握るまでは、「民主主義」の"ふり"をするので、権力の座に登る前には、「大衆主義」を掲げて、政治的な力を蓄えることが、常でした。
そうやって、支持"だけ"を「大衆主義」で手に入れて、権力の座に収まると、本来の「政治思想」、例えば、「共産主義」や「ファシズム」といった「全体主義」を推し進めて、"国"のあり方を変えてしまったんです。
だから、今でも、「大衆主義」は警戒されてしまうんですね。
「政治思想」としての「大衆主義」が持つ、3つの特徴をまとめます。
1.「大衆主義」は、"大衆"の利益を最大化することを目指す。
2.「大衆主義」は、"大衆"の敵である"エリート"と戦う。
3.「大衆主義」は、「民主主義」にはこだわるが、他の
「政治思想」には、こだわりを持たない。
ここで注目したいのは、「大衆主義」がこだわるのは、「民主主義」という「政治思想」であって、"民主政治"という政治制度ではない、ということです。
例えば、いわゆる独裁者であっても、"大衆"の人気を背景として、「大衆主義」的な政治を行っていれば、「大衆主義」の立場からは、問題は無い、ということになります。
独裁者が、「私は"大衆"の支持でここに立っている。」と演説し、喝采が起こるようなら、その独裁者の立場は「民主主義」的だ、という"いいわけ"ができる、というわけです。
本来、「政治思想」としての「民主主義」は、すべからく、政治制度としての"民主政治"と一体であるべきです。
しかし、「大衆主義」が掲げられると、その内容だけが重視されるあまり、形式としての"民主政治"がおろそかになる恐れがあります。
"民主政治"は手続きに宿りますが、「大衆主義」は要求に宿るからです。
要は、「大衆主義」とは、"大衆"の要求に応え続ける限り、"大衆"の支持に基づいて権力を行使できる、ということなんです。
そしてそれは、"大衆"に見放されたとき、権力を失うことを意味します。
「大衆主義」を掲げることには、相応の覚悟が必要なようですね。
「ポピュリズム」以前の社会
「ポピュリズム」は、本来、「政治思想」でしたが、上記のような状況が続いたことで、だんだん、"政治的な手段に過ぎない"、という認識に変わっていきます。
第二次世界大戦後には、「ポピュリズム」と言えば、もっぱら、"大衆迎合"という意味だと理解されるようになりました。
ここからは、"政治手法"としての"大衆迎合"に、焦点を当てましょう。
"大衆迎合"としての「ポピュリズム」は、特に、批判的な文脈で使用される言葉です。
"大衆"に迎合しているのに、それが歓迎される文脈ではありません。
その理由のひとつは、「ポピュリズム」が反"エリート"的だからです。
20世紀を含め、これまでの人間社会では、深い知識を持つ人たちが、新しい社会のあり方を提案してきました。
いわゆる、"有識者"とか、"知識人"とか、呼ばれる人たちです。
例えば、アメリカ合衆国の独立は、トマス・ペインという人物が書いた、『コモン・センス("常識")』というパンフレットが大反響となったことも、その一因と言われているのですが、こういった政治的メッセージを発する一部の人が、社会の変化を主導することが、18世紀から20世紀にかけて、多く見られます。
トマス・ペインのような、社会の変化を主導する人たちのことを、「オピニオン・リーダー」と呼びます。
"オピニオン=意見"という意味なので、「オピニオン・リーダー」とは、「意見を主導する人」というような意味です。
「オピニオン・リーダー」が意見を表明する場、として使ってきたのが、各種メディアです。
古くはビラやパンフレットから始まり、19世紀に雑誌や新聞が、20世紀に映画やラジオが、戦後にテレビが登場し、その時代に応じて、様々な「オピニオン・リーダー」が、世論を主導してきました。
これらの「オピニオン・リーダー」は、ほぼ全て、当然のように"有識者"であり、"知識人"だったので、人類文明は、この250年ほど、彼らに指導されてきたことになります。
この、"有識者"や"知識人"が重視していたのが、「進歩主義」です。
「進歩主義」とは、人間の持つ、理性の正しさを確信し、科学技術や社会制度の変革が、人間社会をより良くするはずだ、という考え方の「政治思想」です。
「進歩主義」を重視する"知識人"を、特に、"進歩的知識人"と呼びます。
つまり、20世紀は「進歩主義」の世紀であり、"進歩的知識人"の世紀だったということです。
一方で、20世紀から広がった「ポピュリズム」が持つ、反"エリート"という考え方は、彼ら"有識者"や"知識人"に対する反発という形で表れました。
"有識者"や"知識人"はもれなく、高学歴であったり、高収入の職に就いていたため、"エリート"とみなされて「ポピュリズム」の標的にされたのです。
反「ポピュリズム」と"エリート"
ここまでの情報を整理して、構図をはっきりさせてみましょう。
「ポピュリズム」:反「ポピュリズム」
"大衆":"エリート"
一般人:専門家
低学歴:高学歴
無産階級:有産階級
保守的"大衆":"進歩的知識人"
メディア受益者:メディア供給者
「オピニオン・リーダー」
19世紀から20世紀にかけて、"大衆"の味方は、「共産主義」や「社会主義」でした。
この場合、革命を主導する"革命家"は、"知識人"であったり、「オピニオン・リーダー」であったりすることがありました。
また、戦後日本の"進歩的知識人"の多くは、「共産主義」に親近感を抱いていました。
ところが、そこに「ポピュリズム」が登場します。
「ポピュリズム」は、"エリート"の政治的傾向にかかわらず、全ての"エリート"を"大衆"の敵とみなします。
そして、特に戦後日本では、"エリート"の大半が"進歩的知識人"になっていました。
そうでない考え方の持ち主は、社会に居場所がなかったんです。
その結果、「ポピュリズム」と"進歩的知識人"には、決定的な対立関係が成立してしまいました。
だから、今でも、"進歩的知識人"や"エリート"は、「ポピュリズム」を批判するんですね。
それでも、20世紀の内に、"進歩的知識人"の優位が崩れることはありませんでした。
なぜならば、メディアを通じた「オピニオン・リーダー」としての役割だけは、"知識人"に独占されていたからです。
メディア流通の場面では、"大衆"が常に下流に置かれ、上流の"エリート"が用意した、「オピニオン・リーダー」の情報を、受け取ることしかできなかったんです。
現代「ポピュリズム」の革新
この状況を一変させたのが、「インターネット」です。
ネットメディアやSNSの発達によって、"大衆"が簡単に発信者になることが、できるようになりました。
さらに、新聞のような文字メディアより、直観的で、情動的な、映像メディアの製作も簡単にできるようになり、"大衆"のつくった動画で、世論を動かす時代が到来したのです。
先ほどの構図が、21世紀の現在、以下のようになりました。
「ポピュリズム」:反「ポピュリズム」
"大衆":"エリート"
個性豊かな一般人:ごく一部の専門家
学歴の差は多様化した
一般労働者:一部の知識労働者
保守的"大衆":"進歩的知識人"
発信する"大衆":「オールド・メディア」
まず、学歴の差は多様化し、あまり問題になりません。
例えば、海外の大学を卒業した"エリート"が、「ポピュリズム」側にいることがあります。
逆に、大学を出ていない人が、反「ポピュリズム」側にいることもあります。
要は、日本人全体の学歴が、大学全入時代に入って、大きく変わったため、昔ほど、学歴が人格を象徴することが無い、ということなんです。
そして、反「ポピュリズム」側の陣容が、それほど変わっていないのに対して、「ポピュリズム」側の陣容は、大きく変化しています。
特に、メディアをめぐる関係は、激変しました。
"大衆"が発信するようになったことで、従来のメディアが相対化され、"エリート"として、批判の対象になったのです。
この状況において、従来からあるメディアを「オールド・メディア」と呼び、SNSやネット・メディアを使った、"大衆"による発信と区別します。
現代の「ポピュリズム」を支えているのは、"大衆"の"常識"です。
現代の"大衆"は、自分たちの"常識"からズレているものを、批判し、攻撃します。
例えば、いわゆる、自民党の裏金問題などの、政治とカネの問題は、当然、"常識"に反しているので、批判の対象となります。
しかし、同時に、いわゆる、中道改革連合の合流問題も、"大衆"から見ると、"常識"に反した動きだったため、批判の対象になったわけです。
さらに、自民党は悪くて、野党は悪くない、という、いわゆる「オールド・メディア」の報道姿勢も、"常識"に反していたため、徹底的に批判されました。
結果、最も"常識"から離れたものから順に、"大衆"による制裁を受け、その被害が最も少なかった政党が、勝利を収めることになりました。
このように、現代の「ポピュリズム」を考える上においては、"大衆"の"常識"という視点を持つことが重要です。
「ポピュリズム」が広げる「民主主義」
それでは、"大衆迎合"としての「ポピュリズム」について、反"エリート"を軸として、まとめてみます。
1.「ポピュリズム」は、その時代ごとの"エリート"を敵視する。
2.「ポピュリズム」の影響と、"エリート"の信用は、反比例する。
3.「ポピュリズム」は、直観的で、情動的な、"大衆"の"常識"に基づく。
4.「ポピュリズム」は、論理的で、理性的な、"エリート"の"常識"を批判
する。
特に、このまとめの4.にもある通り、現代の「ポピュリズム」には、"エリート"の失敗を監視する、という役割が期待できると思います。
例えば、与党の監視は、野党が行う、としましょう。
では、野党の監視は、誰がするのでしょうか?
他にも、権力の監視は、マスコミがする、としましょう。
では、マスコミの監視は、誰がするのでしょうか?
このように、世の中の様々な立場の"エリート"は、どんなにうまく組み合わせても、ある"エリート"が、別の"エリート"を監視する、相互監視までしかできません。
それでは、"エリート"の失敗は、誰が指摘するのでしょうか?
そこで"大衆"の出番です。
現代の"大衆"は、250年前とは違って、知性も教養も、技術も知識も、豊富にあります。
もう、「オピニオン・リーダー」を引き受けることが、できるんです。
そんな現代の、発信する"大衆"が、"エリート"を監視し、直接、批判することで、"エリート"を相対化し、"大衆"の"常識"に基づいて、社会の変化を促していくことができます。
これまでは、いわゆる"エリート"が、あるべき社会のあり方を論じ、これを"知識人"の「オピニオン・リーダー」を通じて、「オールド・メディア」で発信し、社会を主導してきました。
しかし、社会をつくっているのは、"大衆"なのですから、"大衆"の"常識"が、社会の中心にあることには、何の矛盾もありません。
むしろ、少数の"エリート"の"常識"に、大多数の"大衆"が付き合わされることこそ、全く「民主主義」的ではありません。
今、「インターネット」が、世界を同時に、「民主主義」的な社会に変え始めているんです。
「ポピュリズム」が壊す「民主主義」
ところで、以前、別稿で「大衆迎合はなぜダメか?」というテーマの記事を発表しています。
そこでは、"大衆迎合"の問題点として、以下のようにまとめました。
1.できるかどうか、わからない約束をしている。
2.失敗したときの、結果責任を負えない。
3.政治の信用を失い、社会が機能不全になる。
"大衆迎合"としての「ポピュリズム」が問題になるとき、その視点が、誰の立場から見たものか、ということが重要になります。
迎合される"大衆"の側から見た場合と、迎合する政治家の側から見た場合では、見え方が違うはずだからです。
上記のまとめは、日本の政治改革をめぐる記事のまとめで、迎合する政治家の視点でした。
今回は、"大衆"の視点から、改めて、その部分を見直したいと思います。
1.「ポピュリズム」は「民主主義」的な「政治思想」に由来する。
2."大衆"の視点から見ると、"大衆"の"常識"に基づく判断基準は
「民主主義」的に正当である。
3."エリート"の視点から見ると、"大衆"の"常識"に基づく判断基準は
専門的知識に基づかないため、間違いを含む恐れを否定できない。
4.「民主主義」の結果としての「ポピュリズム」が失敗したとき
その責任を負うのが誰になるか、決まっていない。
5."大衆"による失敗が起こったとき、"大衆"に属する人たちが
"大衆"そのものに失望することで、「民主主義」の信用が失われる。
「ポピュリズム」の問題点の核心は、"大衆"の失敗にあります。
"エリート"の失敗は、"大衆"が指摘できますが、では、"大衆"の失敗は、誰が指摘するのでしょうか?
"大衆"は、自分たちの選択が失敗だったとき、誰にも責任を追及できなくなり、やがて「民主主義」に失望することになります。
かつて、こういった事態に陥った"国"がいくつもあり、その結果、大きな傷跡を残すことになりました。
ナポレオンを送り出したフランス、ソ連をつくったロシア、ナチスを大きくしたドイツ、そして、先の大戦を招いた日本。
あるいは、トランプ大統領のアメリカ合衆国が、そうならないとも限りません。
今、「民主主義」に失望することが、結果的に、より大きな国難を招くことになるかもしれない、という危機感を持って、"大衆"と"エリート"の協調を呼びかけることが、より現実的な方向性だと、言わざるを得ないと思います。
その意味で、「ポピュリズム」が「民主主義」の中で、より前向きな方向性で、その役割を果たせるかどうか、注意深く見守る必要があるでしょう。
「ポピュリズム」と"エリート"は共存できる
2回に渡って「ポピュリズム」を取り上げました。
ここで、今回の記事冒頭に挙げた、前回のまとめを再掲します。
1."大衆"とは、世に名を知られていない、大勢の人々のことである。
2.「ポピュリズム」には「大衆主義」と"大衆迎合"、2つの意味がある。
3.「大衆主義」とは、"大衆"の利益を最大化することを
目指す、「政治思想」のひとつである。
4."大衆迎合"とは、みんなが納得してしまう"政治手法"のことである。
現代の「ポピュリズム」を踏まえると、補足が必要です。
まず、1.の"大衆"については、その中から、発信する"大衆"が現れ、「オピニオン・リーダー」となって、名を知られる人物になっていきます。
つまり、今の"大衆"は、無名とは限らない、ということです。
そして、4.の、みんなが納得してしまう"政治手法"とは、"大衆"の"常識"に基づいた主張をすること、だとわかりました。
みんなが、"大衆"のことであり、納得するということが、"常識"に基づいている、ということです。
さらに、直観的で、情動的な、"政治手法"が、"大衆"の納得感を高めることも、忘れてはいけません。
その上で、やはり、全てを「ポピュリズム」に委ねることは、安全とは言えません。
どれだけ相互不信が募ろうとも、"大衆"と"エリート"の協調を図ることが、社会の安定には不可欠です。
そのために、お互いが、どれだけ我慢できるのか、正直に相談し合えると良いと思うんですが、皆さんはどうお考えになりますか。
今回はここまで。
次回は、"リベラル"について、お話ししたいと思います。
