「内向型と外向型って結局何なのか」についてちゃんと考えてみる
今日は自分の内向性・外向性について考えたい。
まず「内向的である」ということを、
「内側(自己の世界)に閉じることを良しとして、一人で過ごす時間が長いことを好むタイプ」としよう。
※ここで、デリダ的な"パルマコン"の考えを持ちだせば、「自分の世界」の中にも「外側」が存在することになるはずだ。つまり振る舞いの仕方が違うだけで人はみな外向的だということになるだろうか
続いて「外向的である」ということを
「外側(他者の世界)に開かれることを良しとして、誰か(あるいはその他の自然物・人工物)と一緒に過ごす時間が長いことを好むタイプ」としよう。
私についていえば、これは圧倒的に内向的な方向に偏った人間だといえる。
だが一方で、たまに外に出て他者と接すると、
必要以上に善人的な、気配り上手的な振る舞いをしなければならないという強迫観念に支配されるケースが非常に多い。
問題なのは、それが私が元来持つ「外向性」の表れなのか、
それともこれまでの経験で私の内側に植え付けられた「もっと社交的でなければならない」という「内なる他者=外部の声」のためなのか、
ということである。
私はそういう振る舞いをしているとき、大抵の場合かなりストレスを感じている。
そのことからすると、元来持っている性質が表れ出たものではなく、
「強制的に取り付けられた心臓ペースメーカー」のようなものが作動していることが原因である可能性が高いといえる。
つまりそれを良しとして、好んでやっているのではなく、
内なる他者の強制力によって「外向的」とも捉えられるような振る舞いが生じているだけであって、
私が内向性に偏った人間であることに疑いはない、という結論になろう。
では、私の「内側=自分の世界」とは一体何か?
「私」とは、「自分の世界」とは、元来生まれ持った性質と外部からの刺激の質と量、その組み合わせにすぎず、また流動的でありながらもネゲントロピーによる支配を免れることのできない、「静的な現象」だといえる。
その暫定的な組み合わせに固執しがちなのが「内向的な人間」ということにはなるが、そもそもこれが流動的な概念であることを改めて踏まえると、「自分の世界に固執する」という表現は誤っている気もする。
あるいは誤っていないのかもしれないが、
いずれにせよ「内向的な私」が拠り所とするものは常に変化していることは間違いないといえる。
そしてそもそも 「内向的」という表現が正しいか、という問題もある。
振る舞い上の判断だけならこの呼び方で良いのだが、
その実態を「内向」という言葉と結びつけるのは正確ではない気がする。
「私」の中にマーク(痕跡)を残した外部刺激に高い価値を見出して、
それを大事にしているのだから外が好きな人間であると捉えることは誤りではない。
その意味で、「外向的な人間」と同様の性質を持っているとも考えうる。
だから私は、次のように定義を書き換えることを提案してみたい。
内向的=過去の外部刺激を重用するタイプ
外向的=新たな外部刺激を発掘しに行くタイプ
「探検」の方向性が違うだけだと考えれば、
互いの立場の理解が少し進むのではないだろうか。
