続続・深夜の空想散歩
深夜という言葉には、少しだけ嘘が混じっている。
正確に言えば、夜が深くなるにつれて、世界が薄くなる。その薄さを、僕らはまとめて深夜と呼んでいるだけだ。
部屋の灯りは落としてある。
カーテンの向こうに街があるはずなのはわかっているけれど、今は確認できない。確認できないものは、存在していないのとほとんど同じだ。少なくとも、この時間の僕にとっては。
布団の上に仰向けになり、天井を見る。
天井はいつもと変わらない白さで、いつもと変わらない沈黙を保っている。
ただ、深夜になると、天井は少しだけ遠くなる。距離というより、意味の方が。
目を閉じる。
すると、足の裏に感触が生まれる。
最初はアスファルトだ。
昼間より少し柔らかくなった、夜専用のアスファルト。
触れていないはずなのに、その温度がわかる。これはもう何度も歩いた道だからだ。
頭の中で歩き始めると、靴音がついてくる。
空想の散歩にも音は必要らしい。
音がなければ距離が生まれない。距離がなければ、散歩にならない。
信号のない交差点を曲がる。
右だったか左だったかは重要じゃない。
曲がるという行為そのものが、今は大事だ。
人生も散歩も、たぶん同じだ。
夜の街には、人がいない。
正確に言えば、いないことにしている。
誰かを出してしまうと、物語が動き始めてしまう。
今は、動かしたくない。
シャッターの下りた店先。
看板だけが仕事を続けている。
光る文字たちは、昼間より饒舌だ。
「また明日」とも「もう終わりだ」とも読める顔をしている。
このあたりで、決まって思い出す人がいる。
もう連絡を取らなくなった友人なのか、昔好きだった誰かなのか、自分でもよくわからない。
ただ、その人は夜にしか出てこない。
なぜ人は、眠れない夜に遠くへ行きたくなるのだろう。
実際に行けなくてもいい。
行くことを想像するだけで、少しだけ救われる。
空想の散歩は、疲れない。
足は痛くならないし、息も上がらない。
その代わり、思考が少しずつ摩耗していく。
でもその摩耗は、なぜか心地いい。
昼間、削られすぎた角が、夜になって丸くなる。
丸くなった思考は転がりやすい。
だから深夜は、考え事が遠くまで転がっていく。
川の近くを通る。
水の音は聞こえないけれど、川がそこにあることはわかる。
水は、見えなくても存在感を失わない。
人も、そうであればいいのにと思う。
橋の上で立ち止まる。
下を覗き込むが、何も見えない。
それでいい。
見えないものを、見えないままにしておく勇気も、大人には必要だ。
ここまで来ると、少し体が冷えてくる。
もちろん実際には冷えていない。
それでも、深夜の空想散歩には体温の錯覚がついてくる。
ポケットに手を入れる。
何も入っていない。
けれど、何かが入っていた気がする。
昔の切符とか、もう使えない鍵とか、そんなものだ。
夜は、持ち物を増やす。
現実ではなく、記憶の中で。
角を曲がると、商店街に出る。
昼間は人で埋まっている場所が、深夜には骨格だけを残して立っている。
看板は消えかけの熱を保ったまま、まだここにあると言いたげだ。
古い本屋がある。
実在しているのか、かつてあったのか、頭の中だけのものなのかはわからない。
深夜では、曖昧さは罪にならない。
ガラス戸に手をかけると、冷たい感触が生まれる。
脳が勝手に用意してくれた金属だ。
扉を開けると、鈴が鳴る。
これは、鳴らしたいから鳴っている。
棚に並ぶ背表紙は、どれも少し揺れている。
深夜は文字が酔う。
一冊抜き取ると、紙の匂いがする。
紙の匂いは、記憶の匂いに近い。
ページに挟まれたしおりには、知らない駅名が印刷されている。
行ったことはない。
でも、そのホームの寒さだけは、なぜかわかる。
本屋には店主がいない。
でも、いる気配はする。
気配だけが椅子に座って、何かを読んでいる。
外に出ると、空気がさらに冷えている。
街が薄い紙みたいに感じられる。
誰かが強く息を吹きかけたら、飛んでいきそうだ。
次に現れるのは図書館だ。
閉まっているのに、開いている。
開いているのに、閉まっている。
その矛盾が、図書館を図書館にしている。
中に入ると、静けさが厚みを持って体に巻きついてくる。
返却口だけが口を開けている。
今日とか、昨日とか、そういうものを返したくなる。
本棚の間を歩く。
夜の本棚は迷路のふりをする。
人間のいない場所は、人間の真似をして遊ぶ。
机の上に紙が一枚ある。
「忘れたままでいい」
それだけ書いてある。
深夜に笑うと、声は外に出ない。
笑いは胸の中で丸くなる。
図書館を出ると、路地が待っている。
路地は、心が曲がるための場所だ。
まっすぐだけでは、やっていけない。
路地の奥に、喫茶店がある。
看板はない。
けれど、コーヒーの匂いだけは確かだ。
カウンターに座ると、カップが置かれる。
湯気が立つ。
この湯気は、僕の体温の代わりだ。
苦い。
でもやさしい。
深夜の苦さは、ちゃんと飲める。
宇宙が近く感じられる時間帯がある。
空の向こうではなく、屋根のすぐ上に。
生活の延長に置かれた宇宙。
踏切に出る。
電車は来ない。
待つためだけに存在している装置。
外出しないということは、世界を拒むことだろうか。
それとも、自分を守ることだろうか。
たぶん、どちらでもある。
出発点に戻る。
部屋のドアノブが、街の一部としてそこにある。
ドアを開けると、布団と天井が待っている。
目を開ける。
現実の部屋は、さっきより少しだけ広い。
歩いてきた分だけ。
深夜の空想散歩は、外出しない話だ。
外出しないのに、確かに旅をした話だ。
何も手に入れないのに、少しだけ救われる話だ。
救いは小さい。
だから信用できる。
生活に似ているものは、たいてい本当だ。
夜が、静かに畳まれていく。
明日も使えるように。
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